第36話 音のした方
湊は抱光葉を入れた袋を抱えたまま、洞窟の壁際へ下がった。テオの向こうにいる大きなルゥラから、目を離せない。
大きなルゥラは、さっきまで何匹も見た個体とは違い、身体の奥まで濃い紫と黒が沈んでいる。こちらを向いているようには見えるのに、どこを見ているのか分からなかった。頭に当たる場所を探しても、目らしいものが見当たらない。
その身体が低く縮んだ。
「来るぞ!」
テオの声とほとんど同時に、大きな身体が岩の間を跳んだ。
テオは横へ外れ、すれ違いざまに斬った。さっきまでのルゥラなら、それで地面へ落ちていた。
けれど、剣を受けた大きな個体は身体を崩しながら岩へぶつかり、そのまま再び形を持ち上げた。
「……おいおい。湊、入口の方へ下がれ。こいつは俺がやる」
「はい」
来た道へ足を向けながらも、湊はテオから目を離せなかった。
大きなルゥラがもう一度身体を縮める。
テオの首筋から肩へ、青白い火花が走った。
雷魔法!? テオさん、魔法が使えたのか?
「――神経の加速」
消えた。
いた。
消えた。
火花。
右。
剣。
左。
また。
上。
白。
また火花。
ルゥラの身体が揺れた。
テオが見えたと思ったときには、もう別の場所へ刃が入っていた。
追えない。
ルゥラが地面に崩れた。
「やった……?」
「まだだ!」
テオが叫ぶ。
倒れた身体がもう一度持ち上がり、剣が届く前に跳ね起きた。
今度はテオの方から前へ出た。
「筋肉の瞬間収縮!」
両脚の周りで火花が弾け、踏み込んだ場所から小石が後ろへ飛んだ。
次に湊が見たときには、テオの剣がルゥラの身体へ斜めに入っていた。その勢いのまま押し切り、紫の塊を岩へ叩きつける。
それでも動いた。
「何だよ、こいつ……」
テオが足を着いたところで、膝が一度沈んだ。
すぐに立て直したものの、剣を握る右手がわずかに震えている。
「テオさん?」
「いいから下がってろ」
大きなルゥラがテオへ飛びついた。
今度は避けきれなかった。
大きな身体が左肩へ張りつき、そのままテオの上半身を覆った。剥がそうと腕を入れたところから青白い火花が散り、ルゥラの身体の中へ沈んでいた黒がさらに濃くなった。
「ぐっ……!」
テオが身体ごと岩へぶつけると、ようやくルゥラが剥がれた。
落ちた個体がすぐに起き上がる。
テオは肩で息をしながら、一度だけ左腕を振った。さっきまでと違い、指先まで動かすのに時間がかかっているように見えた。
「……持ってく量が違うな」
「戻りましょうよ」
「ああ。お前は先に行け。俺も下がる」
湊は来た道を振り返った。入口までは遠いが、ここまで通ってきた道なら分かる。
その間に、テオも剣を向けたまま一歩ずつ後ろへ下がってきた。
また青白い火花が走ったが、さっきより弾ける音は小さかった。
「リフレクス」
ルゥラが飛び、テオも横へ動いた。今度は完全には外れず、身体の端に押された背中が岩壁へぶつかった。
追ってきたルゥラを剣で受けた瞬間、硬い音が洞窟に響く。
身体ごと押し込まれ、剣が横の岩へぶつかった。
テオが剣を引いたとき、刃は途中からなくなっていた。
「……マジかよ」
折れた刃の先が岩の下へ転がり、湊の足が止まった。
『次も同じように直せるとは限らねえぞ』
オルメイが工房で言った言葉が、最悪の形で頭をよぎる。工房で受け取ったばかりの剣は、さっきまで自分へ飛びついてくるルゥラを受け止めていた。
「湊、行け!」
「でも!」
「俺も行く! 先に走れ!」
テオが折れた剣を構え直した。
その声に押され、湊は入口の方へ数歩走った。それでも後ろから何かがぶつかる音がして、足がまた止まる。
振り返ると、大きなルゥラがテオへ張りついていた。
今度は肩だけではない。身体の前半分がテオの胸から腹へ覆いかぶさり、剥がそうとする腕まで包み込んでいる。
「バースト……!」
テオの脚で火花が散ったが、身体はほとんど動かず、震えた膝がその場で沈んだ。それでも折れた剣をルゥラとの間へ押し込んだが、最初は伸びていた両腕が少しずつ曲がり、剣を握る指まで開いていった。
「テオさん!」
「く、来るな!」
声は出たが、さっきまでの大きさではなかった。
「走れ、湊……」
折れた剣が手から落ち、テオの身体は岩壁を滑ってその場へ崩れた。それでもルゥラは張りついたままで、紫の身体の奥へ黒が広がっていく。さっきまで火花を散らしていたテオは、もう腕も脚も動かさなかった。
やばい。
やばい、やばい、やばい。
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
やばい。
テオさん。
動かない。
いや、何してるんだ。走れって言われた。
走らないと。
どっちだ。
来た道。後ろ。
でもテオさんが。
やばい。
走れ。
今なら。
テオさんは。
……駄目だ。
いや、何が駄目なんだ。走れって言われた。
でも。
剣。
折れてる。
何かないのか。何か。
ない。
俺、武器なんか。
違う。走れ。
でも。
テオさん。
テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん、テオさん。
足が動かなかった。
大きなルゥラの身体が、倒れたテオから離れた。
湊は息を詰める。
また飛びつくと思った。
ところが、ルゥラはテオのすぐそばにいるのに、もう一度張りつこうとはしなかった。身体の先を左右へ揺らしながら、倒れているテオの脇を通り過ぎる。
テオはそこにいる。
触れられるくらい近くにいるのに。
「テオさん!」
呼んだ瞬間、大きなルゥラの身体が止まった。
次に向いたのは、湊の方だった。
「え……」
ルゥラが動き出す。
湊は反射的に口を閉じ、後ろへ下がった。
さっきまでテオを追っていたときのように一直線には来なかった。身体の先を揺らし、湊がいた辺りを探すようにゆっくり進んでくる。
声を出したら、こっちを向いた。
湊は呼吸まで小さくした。
『飛びつかれたら、熱と魔力を持ってかれるぞ』
さっきテオに言われた言葉が戻ってくる。
倒れたテオには、もう行かない。
逃げるなら今なのかもしれない。
後ろへ走れば、自分だけなら帰れる。
また倒れているテオを見た。
無理だ。
どうやって助ければいいのかは分からない。それでも、ここに置いて自分だけ戻るなんてできるわけがなかった。
もう一歩下がったとき、踵が小石に当たった。
石が横へ転がり、少し離れた岩へ当たる。
乾いた音がした。
大きなルゥラが、湊ではなくそちらへ向いた。
湊は動かなかった。
息を殺したまま、足元に転がる石へ目を落とした。




