第18話 重なった線
朝、一人の男が商館を訪ねてきた。
「石鹸を作っているのは、こちらですね」
「ええ。何か問題がありましたか?」
「いえいえ。面白いものを作っていると思いましてね、少し興味をもったのですよ」
男の声は、ずいぶん軽かった。
「私、エズと申します。ヴェール大聖堂で司祭を務めております」
「リールです。それで、司祭様がどうして石鹸に興味を?」
「実は、我々も以前から似たようなものを売ろうとしていましてね。こちらの花香水なのですが、年齢を重ねた方から、身体に出る臭いをどうにかしてほしいと相談されまして。これも神の御心と思い、作っていたのですよ」
「一人の相談から、大聖堂が商品を一から作っていたんですか?」
「さすがは商人さんですね、そこを気にしますか。まぁ、もう終わった話ですから教えてあげましょう」
経年腐蝕病。
年齢を重ねた者の身体から出る臭いを、ヴェール大聖堂ではそう呼ぶつもりだったらしい。病気というわけではなく、ただ、名前があった方が相談には乗りやすいのだという。名前を付けたところで、臭いそのものが変わるわけでは――。
待って。
変わるのは、臭いじゃない。気にする側だ。
そういうことか。商品を売る前に、客が相談へ来る理由を作るのね。
臭いに名前が付けば、今まで気にしていなかった者まで自分のこととして考え始める。花香水を持って店先で待つより、向こうから困り事を持ってきてもらえる。
「ですが、先に石鹸が出ました。汚れも落とせて、値段もあちらの方が安い。病の名を広める理由もなくなりました」
「神の御心と思って、そのまま広めていただけたらこちらも助かりますけど」
「神は気まぐれなのですよ。石鹸の方が安くて使いやすいのなら、広めても仕方がないでしょう」
花香水の話が終わっても、エズの軽い調子は変わらなかった。
「石鹸だけ見れば十分だと思っていましたが、作った方まで見に来て正解でした」
「それはどういう意味です?」
「そのままの意味ですよ」
来たときより、ずいぶん満足そうな顔だった。
「今日は十分、面白いものを見せていただきました。では、またいずれ」
扉が閉まると、リールは途中だった帳簿を引き寄せた。
* * *
昼前、商館の机には、昨日から使っている荷物の記録と、街の地図が並んでいた。
道を直してほしいという話は、昨日の二件だけでは終わらなかった。朝にも別の商人から、雨の日だけでも荷車が通れるようにできないかと相談があり、湊が地図へその場所を書き加えていた。
リールは昨日、商会前を通った荷の記録を地図の横へ置いた。商館へ来た荷と、通り抜けた荷は印を分けてあった。
「こっちの店へ行く荷物は、この道。倉庫へ向かった荷物も途中までは同じね」
「市場へ行った荷も、ここまでは一緒です」
湊が地図へ線を足すと、別々に引いていた三本が途中まで重なり、その先で店、倉庫、市場へ分かれていた。
「だったら、まずここまでですね」
「そうね。オルメイに地面を見てもらって、商会前と同じように作れるなら、次はここ」
湊は地図に残った別の線を見た。
「こっちは後ですか?」
「今の記録ならね。頼んだ人が多い方じゃなくて、実際に通る荷が多い方からやる。その先まで伸ばすなら、そこで使う人に費用も出してもらうわ」
「じゃあ、商会も出すんですよね」
「もちろん。うちの荷車も使うもの」
湊が重なった部分だけ線を濃くしようとしたところで、コレットが来客を知らせた。入ってきたのは、メルドとシェナだった。
「リールさん、昨日ぶりですね」
「今日は別件ではなさそうですね」
「はい。昨日、商会前を通っていた荷について少し確認しました。荷運びの方にも聞きましたが、確認できた範囲では、商会と取引がなくても通れて、通行料も取られていません。雨の日の荷下ろしが減ったという話もありました」
「ずいぶん早かったですね」
「先輩が、昨日のうちに確認しておいた方がいいと」
メルドは机の地図を示した。
「昨日の記録は、これに使っていたのですね」
「ええ。次にどこを直すか決めようと思っています」
「三本が重なる、ここですか」
「候補です。オルメイが同じ方法で作れるなら、ですが」
リールは三本の線が重なっている区間を示した。
「昨日通った荷が、ここで重なっていました。オルメイが同じ方法で作れるなら、ここからです」
「合理的ですね。私も、この記録だけなら同じ区間を選びます」
そこまで言っても、メルドは地図から離れなかった。
「商会だけが得をする場所だとも考えていません。昨日、ここを通り抜けた荷も確認しました」
そこまで先に潰してきたか。
「では、見に来たのは道ではなく、私の方ですね」
「そうです」
メルドは昨日からの荷の記録を手に取った。
「昨日は、ご自身の商売に影響が出た商館前でした。今日は、店と倉庫と市場へ向かう荷が重なる道です。このまま同じ選び方を続ければ、どの道を先に通せるようにするかを商会が決めることになります」
「今は、私が決めなければ誰も決めません」
「ええ。ですから止めません。ただ、今日の判断を、そのまま次の前例にはしません」
前例、か。
地図には、まだ濃くしていない線がいくつも残っていた。今日ここを選んだ理由は、そのまま次の一本を選ぶ理由になる。
なら、先に示すべきなのは場所じゃない。
「私は今のところ、使われ方を記録して、より多くの荷が通る場所から直すつもりです。もっと良い選び方がなければ、次もそうします」
「承知しました。では、商館前以外の道へ手を入れる前に、計画と記録をこちらへ知らせてください」
「許可を取りに来い、という意味ではありませんね」
「その権限があるとは申し上げません。知らないままにはしない、という意味です」
なら、こちらにも都合がいい。
「監察官が道路の順番まで見てくださるなら、私は助かります」
「おそらく、同じ理由では見ませんよ」
「ええ。私は荷が重なった場所を見ています。メルドさんは、そこを私が選んだことを見ているんでしょう?」
「そうです」
リールは地図をメルドの前へ押し出した。
「知らせるのは構いません。こちらで把握できた荷物だけの記録ですので、街全体の流れとしては扱わないでください。また、知らせたことを工事の許可を得た扱いにも、禁止された扱いにもしないでください」
「承知しました。現時点では、計画と記録を確認するだけです」
シェナが新しい紙を広げると、リールは原本を自分の側へ残した。
「原本はこちらで使います。必要なものは、ここで写してください」
「分かりました」
湊が引いた地図には、行き先の違う線が何本も重なっていた。
その横でシェナが作っていた地図にも、同じ線が増えていった。




