第16話 商会前の車輪跡
商館の前で、荷車の後輪が泥の中へ半分ほど沈んでいた。
朝から降り続いた雨で道には水が浮き、馬が前へ進もうとするたび、後輪の周りから黒い泥が押し出される。その後ろには別の荷車も止まっており、先の一台が動かなければ商館の入口まで進めない。
「ちくしょう、ここまでは普通に来られたんだ。あと少しってところで、急に沈みやがった」
荷運びの男から受け取った納品書の日付は今日で、荷にも不足はない。街までは予定どおり届いているが、問題は商館まで残ったほんの数歩だった。
荷も、運ぶ人間も、目の前まで来ている。それでも最後の数歩を越えられなければ、店は止まる。
「先に荷を降ろします。商館から人を出しますので、軽くしてから車輪を上げてください。ここで余計にかかった時間は、今日の運び賃に加えてください」
「いいのか?」
「ええ、こちらへ届ける途中で増えた時間です。追加分は商会で負担します」
コレットも商館から出てきて、荷台の箱を抱える。店の者たちで荷を減らすと、軽くなった荷車はようやく泥を抜けた。深く削れた車輪跡へ、濁った水が流れ込んでいく。
後ろで待っていた荷車は同じ場所へ入れず、手前に止めたまま荷物だけを受け取った。必要な品は商館へ入ったものの、その間、店から出た者は持ち場を離れている。取引台では石鹸を受け取りに来た客が待っていた。
追加でかかった時間も、店から出した人手も今日の損として帳面に残る。今日だけなら払える。それでも雨のたびに荷運びの時間を買い足し、店の者まで持ち場から外すなら、次の荷も同じ入口で止まる。
外へ出ると、朝に沈んだ後輪の跡だけでなく、商館の入口へ向かって何本もの車輪跡が重なっていた。浅かった跡へ次の車輪が入り、雨水がそこへ残って、さらに深く削られている。
次の雨までに、この穴が勝手に浅くなることはない。
* * *
リールが車輪跡を見に外へ出たあと、コレットは取引台に戻った。朝から待たせていた客がまだ残っている。
「お待たせしちゃってごめんなさいねぇ。石鹸、二つで合ってます?」
「二つで合ってるよ。大変だったね。荷車、動いたの?」
「なんとかぁ。あとちょっとだったのに、ちょうど店の前で沈んじゃったんですよぉ」
代金を受け取り、注文帳へ数を書き入れる。これでやっと一人帰せる。
「ありがとうございましたぁ。次も同じ数なら、前の日までに言ってくれたら用意しておきますねぇ」
「そうするよ。またね、コレットちゃん」
「はぁい。またお願いしまぁす」
扉が閉まり、コレットは取引台に残った納品書を引き寄せる。
「……ッチ、店の前まで来てんのに荷物が入らないって、何なんだよまったく。こっちは仕事止められてんだけど」
朝から残っていた注文票へ戻った。
* * *
午後になって雨が弱まると、リールは工房から来た湊を商館の前へ連れ出した。朝に後輪が沈んだ跡には、まだ濁った水が残っている。
「湊。あなたのいた場所でも、雨が降るたびにこうなった?」
「いえ。街の道で、車輪が泥に沈んで動けなくなることはほとんどなかったです」
「道が固かったから?」
「それもあると思います。でも、水もこんなふうには残っていませんでした。雨が降っても、道の端へ流れていって……そういえば、俺、固い道のことしか考えてませんでした」
「違うの?」
「俺がいたところでは、雨の水が道からなくなるのが普通だったんです。だから、どうやってなくしていたのかまで考えたことがなくて」
「ふーん、作り方は?」
「分かりません。工事しているところを見たことはありますけど、俺が作ったわけじゃないので」
「なら、それでいいわ」
「いいんですか?」
「何を作ればいいかは分かったでしょう。どう作るかは、作れる人に聞けばいいのよ」
リールはコレットに、オルメイを呼ぶよう頼む。
「道を固めるんじゃなくて、水が残らないようにする……」
「その二つが同じなのかどうかも、まだ分からないわ。先にオルメイへ聞きましょう」
湊が知っているのは、出来上がった道だけだ。ここから先まで湊のいた故郷と同じにする必要はない。
* * *
夕方、道具袋を持ってきたオルメイは、商館の前で立ち止まるなり、泥のついたリールの靴と車輪跡を見比べた。
「なんだ、今度は道か。お前のところはセッケン屋じゃなかったのか」
「荷物が店に入らないの。今日はそちらを直したいわ」
「呼ばれるたび、仕事がでかくなってる気がするな」
そう言いながら、小さな鍬を取り出す。表面の泥をどけても、その下の土まで水を含んでおり、押すとすぐに形が崩れる。
「固めた道にすれば、沈まなくできますか」
「湊、お前さっき何て言った」
「え?」
「雨の水が残ってなかったんだろ。なら、先にそっちだ」
オルメイは車輪跡から道の端へ向けて浅く土を削った。細い溝がつながると、穴に溜まっていた水が少しずつ動き始める。
「今のまま上だけ固くしても、水がここに残り続けりゃ、下の土が柔らかくなる。割れ目ができたら、そこからまた沈むぞ」
「じゃあ、溝を作ればいいんですか」
「溝だけなら、車輪に潰されて終わりだぞ」
掘った土を横へ寄せる。
「鍛冶場の水場も同じだ。床石の下まで土で詰めたら、水が逃げねえ。下に割った石を入れて隙間を残す。こいつも、まず水の逃げ道を作るところからだな」
「その上はどうするんですか?」
「ここは水場じゃなく荷車が通る。下を作ってから、何を載せれば車輪に耐えるか試す。今ある土をそのまま戻すか、平たい石を使うか、それは一度作って通してみねえと分からん」
水を残さない。それだけなら、オルメイの仕事になる。
「商会の前だけなら、試せる?」
「朝に沈んだところから入口までだな。下を掘って、水が抜ける道を作る。上は荷車を通して直す。最初から長くやるなら断るぞ」
「どうして?」
「まだ一台も通してねえからだ。晴れた日に沈まなくても意味はねえ。次に雨が降ったあと、同じ場所へ荷を積んだ車輪を通せ。それで沈まなけりゃ、先を考えろ」
最初に試すなら、荷車でほんの数歩の距離でいい。
湊が、朝の車輪跡から先を指す。
「うまくいったら、この先も同じようにできませんか。ここだけ直しても、手前で沈んだら結局届かないです」
「できるかもしれん。ただ、道の下がどこも同じとは限らねえぞ」
「でも、雨で困っているところはほかにもありますよね」
「あるでしょうね」
リールは、湊が指した道の先ではなく、足元の車輪跡を見る。
「街全部を直す必要はある?」
「全部じゃなくていいです。でも、これで本当に沈まなくなるなら、荷車がよく通るところには広げたいです」
「なら、そこは一台通してから考えましょう」
最初に試すなら、荷車でほんの数歩の距離でいい。
「オルメイ、人と材料はこちらで用意するわ。まず商会の前だけ直しましょう」
「なるほどな。よし、それなら明日からやれる」




