第15話 残った帳簿
商業ギルドへ木札の換金と求人の受付を移してから、商館の取引台に置く帳簿は減った。その日の午前、正面に積まれているのは石鹸の注文帳と仕入れ帳、それに支払いを残す帳簿だけだった。
減ったはずだった。
「リールさん、昨日頼んだ分なんだけど」
石鹸を受け取りに来た男が注文票を出したところで、裏口から脂を運んできた解体屋の使いが声をかけた。今日届いた三つの桶には、受け取りの印が必要だった。
「先にこちらを確認します。石鹸は包んでありますので、少しだけ待ってください」
「あぁ、構わないよ。急いでない」
桶の量を確かめて納品書へ印を入れている途中で、今度は工房から賃金帳が届いた。昨日休んだ者の欄まで確認して納品書を返すころには、石鹸を買いに来た男が取引台の前で注文票を読み直していた。
「お待たせしました」
「いや。こっちも、次は何個にするか考えてたんだ。家で使うだけなら二つで足りるんだが、姉が欲しいって言い出してな」
「では、次の注文は今日決めなくても構いません。必要になったときに数だけ知らせてください」
男へ包みを渡し、代金を受け取って注文票を脇へ置くと、朝からまだ一度も閉じていない仕入れ帳が目に入った。
リールは仕入れ帳を閉じた。
* * *
午後、リールは商業ギルドの受付で一枚の求人票を受け取った。数日前まで商館で使っていたものと同じ欄が並び、用紙のどこにも三つ葉はない。
「リールさんが求人票持ってこっち来るの、なんか変な感じじゃん」
チコが受付の向こうから紙を覗く。
「移したのは、ここで扱った方がいい仕事でしょう。自分の商会で雇う人まで、商館で探す理由はありません」
「そりゃそうだけどさ。で、書記?」
「ええ」
リールが仕事内容まで書き終えると、ノノが求人票を受け取った。
「書記としての勤務経験は必須でしょうか」
「いいえ。読み書きと計算ができて、以前の仕事で注文や金額を扱っていた方なら紹介してください。こちらでも実際の帳簿を見てもらいます」
「承知しました。条件に合う方がいれば、紹介状を発行します」
求人票は、ほかの店が持ち込んだ紙と同じ束へ入った。
* * *
翌日の昼前、商業ギルドの紹介状を持った少女が商館へ来た。
「コレットです。よろしくお願いしまぁす」
コレットは紹介状と、商業ギルドで書いた求職票を差し出した。
「書記として働いたことは?」
「雇われたことはないですよぉ。でも、うちが仕立て屋だから、寸法帳も注文帳もずっと書いてました。布を何反使うかとか、飾りをいくつ付けるかとか、そういう計算なら毎日いーっぱいやってますっ!」
「客の注文も?」
「もちろん。前に袖を詰めた人へ、次に来たときまた腕の長さを聞いたら怒られちゃうじゃないですかぁ。誰が何を頼んだかは残してますよぉ」
リールは取引台から今日使う紙を何枚か抜き、処理を終えた以前の注文書を一枚混ぜた。
「これを見て、今日処理するものだけ分けてみて」
「これに直接書き込んじゃってもいいですかぁ?」
「まだ駄目。元の紙だから、分けるだけでいいわ」
「はぁい」
コレットは日付を見ながら紙を分けていたが、以前の注文書へ来たところで手を止めた。
「これは?」
「この人、前は二つだったのに今日は四つなんですねぇ。受け取りは今日だからこっちで合ってるんですけど、次も四つなら先に分かると楽じゃないですか?」
「何が楽になるの?」
「作る数ですよぉ。二つに戻るなら増やさなくていいし、四つが続くなら最初からその分を残せるでしょ?」
「今日四つ買っただけで、次も四つとは決められないわ」
「だから、次に来たとき聞くんだよぉ。今日だけなのか、これからもなのか、ってね」
そう言いながら、コレットは注文書を今日の束へ戻した。
「書いてあるものを写すだけなら、私がやっても同じよ」
「ですよねぇ。だからね、前と違うとこがあったらアタシが残しておくの。リールさんがあとで見たとき、どこから見ればいいかすぐ分かるようにね」
「仕立て屋でも、そうしていたの?」
「布ってとっても高いんですよぉ。去年たくさん買ったからって、今年も同じだけ仕入れたら余っちゃうし。逆にね、同じ飾りを何度も頼む人なら、先に持ってた方が絶対に早いですからね」
コレットは支払いの紙にも目を通した。
「こっちは前と同じですね。桶が増えた分だけ、払う方も増えてる」
「そうね」
「じゃあ、変わってるのはこっちのお客さんの方かぁ」
仕事の説明を受けに来たはずなのに、視線は何度も注文書へ戻っていた。
「石鹸って、どんな人がよく買うんですかぁ?」
「家で使う方も、仕事で使う方もいるわ」
「へえ。お屋敷からまとめて買いに来る人も?」
「いるけど、それが仕事に必要?」
コレットは一拍だけ止まり、すぐに笑った。
「仕立て屋にいると、誰が何を買うか気になっちゃうんですよぉ。高い布を買う人と、丈夫なら何でもいい人じゃ、勧める物が全然違うからね」
「ここで勧めるのは石鹸よ」
「分かってますってぇ」
リールはコレットの顔を見た。返事は軽いが、間違いはない。
「明日から来られる?」
「え、もう決まりですかぁ?」
「書記を探しているの。あなたができることは確認したわ」
「もっとこう、ここで働きたい理由とか聞かないんですかぁ?」
「仕立て屋で帳簿をつけていて、今ここで必要な仕事もできた。それ以上、雇うのに必要?」
「……ずいぶん早いんですねぇ」
「必要な仕事ができる方を探しているから。できると分かったのに、長く引き止める理由もないでしょう」
「じゃあ、明日からお願いしまぁす」
「その前に条件を確認して」
リールは賃金と働く時刻を書いた雇用条件の紙を出した。
「向こうへ移した帳簿は触らなくていいんですかぁ?」
「ええ。ここに残った商会の仕事だけ。最初はあなたが書いたものを私が最後に確認するわ」
「分かりましたぁ」
条件を読み終えたコレットが署名を入れると、リールは控えを一枚渡した。
「明日の朝からお願いするわ」
「はぁい。遅れないように来ますねぇ」
* * *
翌朝、コレットが最初の注文書を並べ終えたところで、取引台の前へ石鹸を買いに来た女が立った。リールが注文帳を開くより先に、コレットが前へ出る。
「石鹸ですねぇ。今日はおいくつですかぁ?」
「三つよ。前は二つだったけど、一つは娘に持たせたいの」
「じゃあ三つだねっ。 次も三つになりそうなら、前の日までに言ってくれたらちゃーんと用意しておきますよぉ」
「まだ分からないわ。娘が気に入ったらね」
「だったら、次に来たときで大丈夫ですぅ」
コレットは石鹸を三つ包み、受け取った硬貨をリールへ差し出した。
「代金は、まだリールさんに渡せばいいんですよねぇ?」
「ええ。金を任せるのは、帳簿を何日か見てから」
「はぁい。じゃあ、お金はリールさんに回しますねぇ」
女が帰ると、コレットはさきほど分けた注文書へ目をやった。
「こういう人を見とけばいいってことですよねぇ」
「何を見るかは、これから覚えて」
「はぁい。じゃあ、まずは間違えないとこからやります」
午前から開いたままだった仕入れ帳をリールが取ると、取引台の向こうではコレットが次の注文書を日付ごとに並べ直していた。
商業ギルドへ帳簿を移したあと、商館に残った帳簿へ、リール以外の筆跡が初めて増えた。




