第三話
十歳になった春、僕は初めて父と二人で街に出た。
ランデンワール領の中心都市、ガルダムは、屋敷から馬車で半日の距離にある。人口で言えば王国内でも上位に入る規模の街で、商業が盛んだと本で読んだことがあった。実際に来てみると、本に書いてあることと現実ではやはり違う。活気というのは文字で読んでもわからなくて、街の石畳に響く蹄の音や、市場の呼び込みの声や、どこからともなく漂ってくる香辛料と肉の混ざった匂い、そういうものが合わさって初めて「ここには人がたくさんいる」と体で感じられる。
馬車の窓から外を眺めながら、そういうことを考えていた。
父のレイナードは向かいの席で書類を読んでいた。揺れる馬車の中でも視線が全くぶれないのが、なんとなくすごいと思う。
「アルス」
突然名前を呼ばれて、窓から視線を戻した。
「はい」
「今日ガルダムに来た用件はわかっているか」
「商工会との会合と、領内の物資の確認だと聞きました」
「もう一つある」
父が書類から目を上げた。金色の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「競売がある。お前にも同席させる」
「競売ですか」
「奴隷市だ」
僕は少し考えた。
奴隷制度については本で読んでいた。この王国では、重大な罪を犯した罪人が奴隷として競売にかけられる制度がある。また、戦争の捕虜や、借金を返せなくなった者が奴隷落ちするケースもあると聞いた。
僕個人としては、制度の是非をどう判断するかはまだよくわからない。前世の倫理観からすれば違和感もある。でも、今はまだこの世界を知っていく段階だ。
「どんな理由で?」
「今回の競売に、少し気になるものが出る。お前の目で見てみなさい」
「……少し気になるもの?」
「お前はまだ見ていない方がいいかもしれないが、領主の子として知っておくべきことがある。それと」
父がわずかに間を置いた。
「ルカンとフェイルは来月から王都に行く。お前の稽古相手が減る」
「はい、聞いています」
「稽古相手の確保も、兼ねてある」
「……稽古相手を、競売で」
「そういうことだ」
父は再び書類に目を落とした。
僕は窓の外を見た。
(稽古相手、か。)
ルカン兄さんに剣の基礎を習い始めて五年が経つ。フェイル兄さんには魔法の初歩を教わった。体が成長するにつれて、少しずつ動けるようになってきた。ただ、二人が王都に行けば、同じ水準の稽古をしてくれる相手がいなくなる。
それはたしかに困ると言えば困る。
馬車が石畳を踏む音が変わった。街の中に入ったらしい。
ガルダムの奴隷市は、街の外れにある石造りの建物の中に設けられていた。
建物自体は古く、壁に蔦が這っている。中に入ると、石の廊下に沿って鉄格子の部屋が並んでいた。競売の始まるまでにまだ時間があるらしく、会場となる広間とは別に、競売品を事前に確認できる区画がある。
父は案内役の商人と話しながら先を歩いていた。僕はその後ろを歩きながら、通路の両側に並ぶ鉄格子を眺めた。
人がいる。
様々な年齢の、様々な表情の人間が格子の向こうにいた。俯いている者。虚ろな目で壁を見ている者。膝を抱えて座っている者。感情の見えない目でこちらを見返してくる者。
(これは……慣れるものじゃないな。)
前世の倫理観がどうこう、という以前に、単純に居心地が悪い。ここにいる人間の全員が本当に罪を犯したのかどうか、僕には判断できない。でも今それを言ったところで何かが変わるわけでもないし、父が教育的に連れてきた意味もあるのだろうから、黙ってついていく。
「お父様、あの人たちは全員、罪人なんですか」
小声で聞いたら、父も小声で返した。
「全員がそうとは限らない」
「……どういうことですか」
「冤罪が混ざることがある。制度の限界だ」
「冤罪の人が、罪人として売られる?」
「ある」
父はそれだけ言って、また前を向いた。
僕もそれ以上は聞かなかった。
(そういうことが、ある。)
それをどう受け止めればいいのかは、まだわからない。ただ、知っておくことは大事だと思った。
廊下の突き当たりに、他とは少し違う区画があった。
鉄格子の厚さが違う。廊下の幅も少し広い。そして何より、その区画だけ担当の警備員が三人もついていた。
父の足が、その前で止まった。
「ここです、公爵様」
案内役の商人が低い声で言った。四十代くらいの男で、目の細い、どこか愛想のいい顔をした人だった。
「今回の目玉品というわけですな。SA罪人というのは、王国始まって以来、三例目でございまして……」
「わかっている」と父が言った。「見せなさい」
商人が鍵を出して錠を開けた。鉄扉が重い音を立てて開く。
中に入って、最初に目に入ったのは赤だった。
赤い色。
二つの赤い色。
部屋の奥に、二人の少女が並んで座っていた。
どちらも赤い髪をしていた。濃い緋色で、肩のあたりまでの長さ。赤い目をしていた。緋色の光が宿るような、鮮やかな赤い瞳。年齢は、僕より少し上に見える。
二人ともひどく重そうな金属をつけていた。
首に、太い金属の輪。手首に、分厚い鎖でつながれた金属の輪。足首にも同じものが。それだけではなく、腰にも固定された板状の金属が巻かれていた。動くたびに鎖が鳴るような、そういう重さだ。見ているだけで、ずしんとくるような重量だった。
(あんなものをつけて……)
二人は並んで座って、こちらを見ていた。
視線に媚びがない。かといって、反抗的でもない。ただ静かに、こちらを見ていた。表情はほとんどなくて、人形みたいに整った顔だ。それでいて、不思議と気配が薄い。部屋の中にいるのに、そこにいることを空気が主張していないような、そういう感じがした。
「ラナとリナ、ヴァルハルト」
商人が書類を開いて読み上げた。
「魔族系統不明。見た目年齢十三歳。罪人ランクSA。一人は剣の達人、もう一人は一級魔術師の認定を持ちます。同一の罪状によりペアとして競売にかけられております。分離売却は――」
「断固お断りしております」
声がした。
二人のうちの一人が口を開いた。右側の少女だった。
声は静かで、小さかった。でも通った。部屋の空気がわずかに変わったような気がした。
「――なるほど」
父が短く言って、少女を見た。少女は父の視線を受けて、ゆっくりと頭を下げた。礼儀正しい動作だった。左側の少女も、同じ動作で頭を下げる。
二人が全く同じタイミングで頭を下げたのが、少しだけ不思議だった。
「名前はどちらがどちらだ」
父が聞いた。
右側の少女が答えた。
「私がラナです。こちらがリナです」
「罪状を自分で言えるか」
「殺傷です。ただ」と言って、ラナは少し目を伏せた。「詳細については存じません。私たちが認識している事実と、記録されている内容が、一致しているかわかりかねますので」
父が無言で商人を見た。商人は少し居心地が悪そうに書類を広げた。
「詳細はこちらに。ただ本来SAランクですと、処刑か終身奴隷が通例なのですが……今回はまあ、諸々の事情がありまして、一般競売になった次第で」
「諸々の事情というのは」
「あー……その、上からの指示でして。詳細は私の口からはちょっと」
父が少し間を置いた。
「わかった」
それだけ言って、父は二人の少女をもう一度見た。少女たちは静かに座ったまま、視線を受けていた。
僕は二人の様子を少し後ろから見ていた。
(なんか……普通じゃないな。)
何がどう普通じゃないのかを上手く言葉にできなかった。雰囲気が、というのが一番近い。ここにいる他の罪人たちとは何かが違う。でもそれが何なのか、具体的にはわからなかった。
「アルス」
父が僕を呼んだ。
「はい」
「近くで見てみなさい」
「……はい」
僕は前に出た。二人の少女と向き合う距離まで。
ラナとリナが僕を見た。
赤い目が、僕を見ている。
近くで見ると、二人はそっくりだった。顔の造りが全く同じ。でもよく見ると微妙に違いがある。ラナの方が目元の線が少し鋭い。リナの方が口元がほんの少しやわらかい。そういう違いがあった。
「こんにちは」
とりあえず言ったら、二人がわずかに目を丸くした。一瞬だけ、表情が変わった。すぐ元に戻ったが、確かに変わった。
「……こんにちは」
ラナが答えた。少し間があった。
「いくつですか」
「十三です」と言ったのはリナの方だった。「あなたは?」
「十歳」
「……そうですか」
リナが少し視線を下げた。何かを考えているような顔だった。
「痛いですか、それ」
僕は二人の首についている金属の輪を指した。
二人がまた目を丸くした。今度はラナの方が少し長く表情が変わった。
「……いえ」とラナが言った。「慣れましたので」
「慣れたら痛くないんですか」
「……慣れたら、気にならなくなります」
「それは慣れたんじゃなくて、諦めたんじゃないですか」
ラナが黙った。
少し後ろから、商人が笑い声を上げた。
「はっはっは、坊ちゃんは率直ですな!」
僕は振り返らなかった。
「ラナさん、リナさん」
二人が僕を見た。
「あなたたちは、冤罪ですか」
部屋が静かになった。
商人の笑いが止まった。父が何も言わなかった。
ラナとリナが互いに視線を交わした。ほんの一瞬のことで、それがどういう意味の視線なのか、僕には読めなかった。
「……わかりません」
ラナが答えた。
「わかりません、とは」
「私たちがしたことが、罪かどうか、私たちには判断できません」
答えになっているようで、なっていない。でも嘘をついているようでもなかった。
「そうですか」
僕は一歩下がった。父の方を見た。
「お父様」
「なんだ」
「買いますか、この二人を」
「お前はどう思う」
「……買う方がいいと思います」
父が少し目を細めた。
「理由は」
「あの金属が重すぎます。ここにいたら、体が壊れます」
父がしばらく無言で僕を見ていた。
それから、商人に向き直った。
「競りにかけずに落札する。価格を言いなさい」
競売の手続きが終わったのは昼過ぎだった。
父が商工会との会合に向かう前に、ラナとリナを連れて馬車まで戻ることになった。商人が念押しのように言った言葉が、少し気になっていた。
「あのー、一つ申し上げておきたいことが」
商人が手を揉みながら言った。
「あの重りの件ですが……一部は外せるものもございますが、首と手首のものに関しては、あと四年は外すことができない仕様になっておりまして」
「仕様?」
父が眉を上げた。
「はあ、SAランクの罪人に対してのみ使用される、特殊な魔道具でして。王国の封印師が施した鍵がかかっておりまして、解錠できるのは四年後の解除期限が来てからということに……」
「つまり、四年間は外せない」
「左様でございます。大変申し訳ないのですが、これは私どもの権限ではいかんともしがたく……」
父が少し考えてから頷いた。
「わかった」
「ご理解いただけますと幸いで……」
「あの」
商人の言葉を遮ったのは、ラナの声だった。
商人が振り返った。父も振り返った。僕も振り返った。
ラナが、少し上目遣いで商人を見ていた。
今まで見た表情とは少し違った。声が、心なしか少し細くなっている。
「足首のものと、腰のものは……外していただけますか」
「はあ、そちらは外せるものですので、構いませんが……」
「あと、手首のものも」
「手首のものは四年封印がかかっておりまして……」
「そうですか……」
ラナが少しだけ目を伏せた。リナも、ラナの隣でわずかに肩を落とした。
どちらかというと、弱々しい仕草だった。今まで見た印象と、少し違う。
商人が困った顔をした。
「あー……お嬢ちゃんたちがそう言うのはわかるんですがね、こればかりは決まりがあるもんで……」
「そうですよね」
ラナが小さく言った。
「仕方ないですよね」
リナが続けた。
「でも重くて……」
二人が、ほぼ同時にそれだけ言って、また黙った。
商人がしばらく唸ってから、「足首と腰のものは今外しましょう」と言った。
「首のものは……これは私の一存では……」
「わかりました」
ラナが微笑んだ。
小さな、静かな微笑みだった。
「ありがとうございます」
商人が道具を取り出して、足首と腰の固定具を外した。外れたとき、二人の体が少し軽くなったのがわかった。金属の音がして、重い固定具が床に落ちた。
「ありがとうございます」
リナも頭を下げた。
商人がほっとしたような顔をした。
僕はその一連の様子を少し後ろで見ていた。
(上手いな。)
なんとなく、そう思った。
二人が意図的にそうしたかどうかはわからない。でも、ラナとリナが「お願い」をしたときの声と、それ以外のときの声は、確かに少し違った。
それが意識的なものなのか、疲れていてそうなっているだけなのか、今の僕には判断できなかった。
ただ、「上手いな」と思ったことは、頭の片隅に残った。
馬車の中で、ラナとリナは静かに並んで座っていた。
足首と腰のものは外れたが、首と手首の金属はまだある。特に首の輪は、金属の重さで首筋が少し赤くなっていた。馬車が揺れるたびに、鎖が低く鳴った。
父は反対の席で書類に戻っていた。
僕はラナとリナの隣の席に座っていた。
(……なんでここに座ったんだろう。)
向かいに座ればよかった気もしたが、なんとなくそっちに座っていた。深い理由はない。
しばらくして、リナが小さな声で言った。
「馬車の外を見てもいいですか」
「どうぞ」と答えたのは父だった。
リナが窓の方に少し首を向けた。街の石畳と、行き交う人の姿と、市場の喧噪が流れていく。リナはそれをじっと見ていた。
ラナは正面を向いたまま、動かなかった。
「屋敷まで、どのくらいかかりますか」
ラナが聞いた。父に向けた質問だったが、父が書類から目を上げる前に僕が答えた。
「半日くらいです」
「そうですか」
「長いですか」
「いいえ」
「慣れない場所は疲れますか」
「……どうでしょう」
ラナがこちらを見た。赤い目が、静かに僕を見ている。
「アルス様、というお名前でしたか」
「ただアルスでいいです、様はいらないので」
「ランデンワール公爵様のご子息に様なしはさすがに」
「じゃあアルス君でも」
「……それもどうかと」
「難しいですね」
「難しいですね」
ラナが静かに繰り返した。
少し間があって、リナが窓から視線を戻してこちらを見た。
「アルス……様は、どうして私たちを買うようにお父様に言ったんですか」
「言ったというより、聞かれたんです。どう思うか、って」
「それで、買う方がいいと」
「金属が重そうだったので」
リナが少し黙った。
「……それだけですか」
「それだけでした」
リナがラナを見た。ラナもリナを見た。
二人が何かを視線で言い合っているような気がしたが、何を言い合っているのかはわからなかった。
「変な人ですね」
リナが言った。
「そうですか」
「普通、SA罪人を買うのに、金属が重そうだったから、とは言いませんよ」
「他に何か言いますか」
「……もっと戦略的な理由とか、使い道とか」
「稽古相手にと言っていましたよ、お父様は」
「お父様はそうでも、アルス様は?」
僕は少し考えた。
「稽古相手というのは後から聞いた話で、僕が最初に思ったのは金属が重そう、ということだけでした」
リナがまた黙った。
ラナが少し、口元を動かした。笑ったのかもしれない。でもわかりにくかったので、笑ったかどうかは定かじゃなかった。
屋敷に着いたのは夕刻だった。
門をくぐると、すでに話を聞いていたらしいエリーゼ姉さんとフィア姉さんが出てきていた。
「あら」
エリーゼ姉さんが二人を見て、静かに言った。
「SAランクの子たちね。話は聞いていたけど……」
「首のもの、外せないの?」
フィア姉さんが真っ先にそこを見た。
「四年間は外せないそうです」と僕が言うと、フィア姉さんが顔をしかめた。
「それはひどいよ……」
「フィア」とエリーゼ姉さんが言った。「まず中に入ってもらって」
「あ、そうだね。ごめんね、入って!」
フィア姉さんがラナとリナに手招きした。二人は少し驚いたような顔をして、互いに目を見合わせてから、静かに頷いて歩き出した。
屋敷の中に入ると、ミレアが廊下で待っていた。
「わあ……」
ミレアが目を丸くして二人を見た。
「双子! しかもきれい!」
「ミレア、失礼よ」とエリーゼ姉さんが言った。
「ご、ごめんなさい」ミレアが頬を赤くした。「えっと、ラナさんとリナさん、でしたっけ。ようこそ、ランデンワール屋敷へ」
「……ありがとうございます」
ラナが頭を下げた。リナも続けた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね!」
フィア姉さんが元気よく言った。
ソフィ姉さんは少し廊下の奥に控えていて、二人が視線を向けると、本から顔を上げて小さく頷いた。
「……よろしく」
「よろしくお願いします」とリナが言った。
ソフィ姉さんがまた本に目を落とした。
「ソフィ姉さんはああいう人なので」と僕が言った。
「わかります」とラナが言った。
「わかるんですか」
「図書室がお好きそうな気配がします」
「……よく分かりましたね」
「なんとなく」
ラナが静かに言った。
その「なんとなく」が本当になんとなくなのか、違うのか、僕にはわからなかった。
二人のための部屋は、僕の部屋から廊下を挟んだ場所に用意された。
元々は客間として使われていた部屋で、屋敷の中でも比較的広い。ランプを入れて、寝台を二つ並べて、という準備が整っていた。
夕食の時間になると、父と残っていた姉たちが揃って食卓についた。二人の少女は、初めは「私たちは別に構いません」と言った。
「食堂に来なさい」
父がそれだけ言うと、二人は頷いた。
食卓での初日は、静かなものだった。
ラナとリナは黙って食べていた。話しかけられたら答えるが、自分からは口を開かない。ただ、食事のマナーは完璧だった。どこで覚えたのか、貴族の食卓でも全く違和感がない所作だった。
「どこで覚えたの、食事のお作法」
フィア姉さんが聞いた。
「以前いた場所で」
ラナが答えた。
「どんな場所?」
「いろいろな場所を転々としていたので、一箇所とは言いがたいです」
「ふうん」
フィア姉さんが考えるように首を傾けた。それ以上は掘り下げなかった。
ミレアが「好きな食べ物はある?」と聞いたら、リナが「甘いものが好きです」と答えた。それだけで、ミレアの顔がぱっと明るくなった。「私も! 一緒だ!」と言って、デザートのケーキを一緒に食べることになった。
ミレアは単純に嬉しかったのだと思う。リナもそれを受けて、少し口元を緩めた。
僕はその様子を眺めながら、食事を続けた。
(なんか……意外と普通に馴染んでるな。)
SA罪人という扱いだったわりに、食卓の雰囲気は普通だった。二人が大人しいこともあるし、姉たちが普通に接しているからというのもある。
ただ僕は、「普通に馴染んでいる」ことを当たり前として受け取ってしまっていた。
後から振り返れば、あの馴染み方自体が、異常なほど自然すぎたのかもしれない。
翌朝、僕が庭に出ると、ラナとリナがすでにいた。
二人は庭の端、木の陰のあたりに立っていた。特に何かをしているわけじゃない。ただ立っている。
「おはようございます」
近づいて言ったら、二人が振り返った。
「おはようございます」とラナが言った。
「こんな朝早くから何をしているんですか」
「庭を見ていました」
「庭が気になりますか」
「広いなと思って」
「屋敷の敷地全体では、もっと広いですよ」
「……そうですか」
ラナが庭を見た。朝の光が芝の上に斜めに落ちていた。
リナが少し離れたところで、庭の花を見ていた。屈んで、目線を花に合わせて眺めている。
「昨日は眠れましたか」
「眠れました」
「金属が当たって寝づらくないですか」
「……慣れています」
「慣れているっていうのは、さっき言いましたよね」
ラナがこちらを見た。
「言いました」
「昨日と同じ答えですね」
「同じ状況ですから」
「それもそうか」
僕は少し考えてから、言った。
「今日、稽古を見てもらえますか」
「稽古?」
「剣の。ラナさんは剣豪だと聞いたので。今の自分のどこがどう悪いか、見てもらえたらなと思って」
ラナが少し黙った。
「私が、ですか」
「他にいないので」
「……その、私はあまり得意ではなくて」
「剣豪だと聞いています」
「過去の話で……」
「昨日まで何かをしていたのが、今日から急にできなくなるとは考えにくいですが」
ラナが少し目を細めた。
「……正直な人ですね」
「そうですか」
「はい」
「見てもらえますか」
「……少しだけなら」
遠くでリナが花を見ながら、小さく笑ったような気がした。振り返ったときにはもう笑っていなかったので、見間違いかもしれない。
訓練場での最初の稽古は、少し変な空気だった。
ラナが木剣を受け取って、持ち方を確認するように何度か握り直した。手首の金属が邪魔そうだった。
「重さはどうですか」
「……少し重いですが、問題ないです」
「問題あるなら別の調整を」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「……わかりました」
僕も木剣を持った。構えを取る。
ラナが向かい合って、木剣を持った。
構えが、少し……変だった。
いや、変というより、「弱そうに見える」構えだった。ルカン兄さんに習った基礎から言えば、重心が高く、剣先が下がり気味で、隙が多い。
「その構え、本当の構えですか」
ラナが少し目を丸くした。
「……どういう意味ですか」
「なんとなく、違和感があって」
「どんな違和感ですか」
「わかりません。なんとなく」
ラナが少し間を置いた。
「これが私の構えです」
「そうですか」
「はい」
「じゃあこのまま」
「はい」
「いきます」
「どうぞ」
踏み込んだ。
ラナが動いた。
木剣を受け流されて、体勢を崩した。気づいたら体が半回転していた。受け流しの角度と、足の動き方が、見えなかった。
「……」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。もう一回」
「はい」
また踏み込んだ。
また受け流された。
今度は倒れなかった。ただ、完全に剣筋を読まれていた。どこで読まれたのか、わからなかった。
五回やって、五回全部受け流された。
「……あなたの剣は、踏み込む前に右肩が動きます」
ラナが静かに言った。
「そこで出方が読めます」
「なるほど」
「あとは右足の重心のかけ方が、攻撃の一歩前に少しずれます」
「両方とも気づいてなかったです」
「そういうものだと思います」
「ありがとうございます」
ラナが少し、また黙った。
「……上手いですよ、基礎は」
「でも読まれる」
「習慣になっているところが、読まれやすいということです。基礎がしっかりしているから逆に癖が見える」
「そういうものですか」
「そういうものだと思います」
僕はもう一度構えを取った。
「もう少しやりますか」
「あなたが望むなら」
「望みます」
「わかりました」
ラナがまた構えた。
さっきと全く同じ、弱そうに見える構えだった。
(なんで、あんな構えをするんだろう。)
疑問は残ったが、今は稽古に集中することにした。
その日の午後、リナが庭で一人でいるのを見かけた。
特に何かをしているわけじゃなかった。木陰のベンチに座って、空を見ていた。
「リナさん」
声をかけると、リナが視線を下げてこちらを見た。
「アルス様」
「様はいいですって」
「わかりました、アルス様」
「わかりましたで様がついてる」
「癖なので」
リナが少し、目元を緩めた。笑っているのかもしれなかった。
「一人でいるんですか」
「ラナが部屋で休んでいるので」
「疲れていますか」
「昨日から今日で場所が変わったので」
「慣れるまで時間がかかりますか」
「それほどでもないとは思います。ラナが少し疲れやすいだけで」
「そうなんですか。見た目は元気そうだったけど」
「そういう人なんです」
リナが空を見た。
「……広い庭ですね」
「走り回れるくらいには」
「自由に使っていいんですか」
「使っていいと思いますよ。聞いたことはないですが」
「聞いてないのに言うんですか」
「父に確認すれば問題ないと言うと思うので」
リナが少し眉をひそめた。
「……気楽な人ですね」
「そうですか」
「うん」
「りな……さんは気楽じゃないですか」
「どうでしょう」
リナがまた空を見た。
少し間があってから、リナが言った。
「ここは、怖い場所じゃないんですか」
「怖い?」
「SA罪人を置いておくのは、危険だと思うんですが」
「危険かどうかは使い方次第だと思います。稽古相手として来てもらったので、稽古の相手をしてもらえれば」
「それだけ?」
「それだけ。あとは好きに過ごしてもらって構わないと思います、父もたぶん」
「たぶん、か」
「聞いてないので」
リナが小さく笑った。
今度はわかった。確かに笑った。口元が少しだけ動いて、赤い目が少し細くなった。短い笑いだったが、確かにそこにあった。
「変な人」
「二回目ですね、それ」
「二回とも本当のことを言っています」
「そうですか」
「ええ」
リナがまた空を見た。
「……ここで暮らすのは、そんなに嫌じゃないかもしれません」
小さい声だった。独り言のようだった。
僕は特にそれに返事をしなかった。返すべき言葉が思い浮かばなかったのと、返事を求めていないように聞こえたので。
ベンチに少し距離を置いて座って、二人で空を見ていた。
庭の木が風で揺れた。鎖が低く鳴った。リナが少し首を動かした。
(早く外れればいいのに、あの金属。)
そう思っただけだった。




