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紫苑が咲く君に、心を奪われたまま  作者:
第二章:競売場の赤

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第三話

 十歳になった春、僕は初めて父と二人で街に出た。


 ランデンワール領の中心都市、ガルダムは、屋敷から馬車で半日の距離にある。人口で言えば王国内でも上位に入る規模の街で、商業が盛んだと本で読んだことがあった。実際に来てみると、本に書いてあることと現実ではやはり違う。活気というのは文字で読んでもわからなくて、街の石畳に響く蹄の音や、市場の呼び込みの声や、どこからともなく漂ってくる香辛料と肉の混ざった匂い、そういうものが合わさって初めて「ここには人がたくさんいる」と体で感じられる。


 馬車の窓から外を眺めながら、そういうことを考えていた。


 父のレイナードは向かいの席で書類を読んでいた。揺れる馬車の中でも視線が全くぶれないのが、なんとなくすごいと思う。


 「アルス」


 突然名前を呼ばれて、窓から視線を戻した。


 「はい」


 「今日ガルダムに来た用件はわかっているか」


 「商工会との会合と、領内の物資の確認だと聞きました」


 「もう一つある」


 父が書類から目を上げた。金色の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。


 「競売がある。お前にも同席させる」


 「競売ですか」


 「奴隷市だ」


 僕は少し考えた。


 奴隷制度については本で読んでいた。この王国では、重大な罪を犯した罪人が奴隷として競売にかけられる制度がある。また、戦争の捕虜や、借金を返せなくなった者が奴隷落ちするケースもあると聞いた。


 僕個人としては、制度の是非をどう判断するかはまだよくわからない。前世の倫理観からすれば違和感もある。でも、今はまだこの世界を知っていく段階だ。


 「どんな理由で?」


 「今回の競売に、少し気になるものが出る。お前の目で見てみなさい」


 「……少し気になるもの?」


 「お前はまだ見ていない方がいいかもしれないが、領主の子として知っておくべきことがある。それと」


 父がわずかに間を置いた。


 「ルカンとフェイルは来月から王都に行く。お前の稽古相手が減る」


 「はい、聞いています」


 「稽古相手の確保も、兼ねてある」


 「……稽古相手を、競売で」


 「そういうことだ」


 父は再び書類に目を落とした。


 僕は窓の外を見た。


 (稽古相手、か。)


 ルカン兄さんに剣の基礎を習い始めて五年が経つ。フェイル兄さんには魔法の初歩を教わった。体が成長するにつれて、少しずつ動けるようになってきた。ただ、二人が王都に行けば、同じ水準の稽古をしてくれる相手がいなくなる。


 それはたしかに困ると言えば困る。


 馬車が石畳を踏む音が変わった。街の中に入ったらしい。



 ガルダムの奴隷市は、街の外れにある石造りの建物の中に設けられていた。


 建物自体は古く、壁に蔦が這っている。中に入ると、石の廊下に沿って鉄格子の部屋が並んでいた。競売の始まるまでにまだ時間があるらしく、会場となる広間とは別に、競売品を事前に確認できる区画がある。


 父は案内役の商人と話しながら先を歩いていた。僕はその後ろを歩きながら、通路の両側に並ぶ鉄格子を眺めた。


 人がいる。


 様々な年齢の、様々な表情の人間が格子の向こうにいた。俯いている者。虚ろな目で壁を見ている者。膝を抱えて座っている者。感情の見えない目でこちらを見返してくる者。


 (これは……慣れるものじゃないな。)


 前世の倫理観がどうこう、という以前に、単純に居心地が悪い。ここにいる人間の全員が本当に罪を犯したのかどうか、僕には判断できない。でも今それを言ったところで何かが変わるわけでもないし、父が教育的に連れてきた意味もあるのだろうから、黙ってついていく。


 「お父様、あの人たちは全員、罪人なんですか」


 小声で聞いたら、父も小声で返した。


 「全員がそうとは限らない」


 「……どういうことですか」


 「冤罪が混ざることがある。制度の限界だ」


 「冤罪の人が、罪人として売られる?」


 「ある」


 父はそれだけ言って、また前を向いた。


 僕もそれ以上は聞かなかった。


 (そういうことが、ある。)


 それをどう受け止めればいいのかは、まだわからない。ただ、知っておくことは大事だと思った。




 廊下の突き当たりに、他とは少し違う区画があった。


 鉄格子の厚さが違う。廊下の幅も少し広い。そして何より、その区画だけ担当の警備員が三人もついていた。


 父の足が、その前で止まった。


 「ここです、公爵様」


 案内役の商人が低い声で言った。四十代くらいの男で、目の細い、どこか愛想のいい顔をした人だった。


 「今回の目玉品というわけですな。SA罪人というのは、王国始まって以来、三例目でございまして……」


 「わかっている」と父が言った。「見せなさい」


 商人が鍵を出して錠を開けた。鉄扉が重い音を立てて開く。


 中に入って、最初に目に入ったのは赤だった。


 赤い色。


 二つの赤い色。


 部屋の奥に、二人の少女が並んで座っていた。


 どちらも赤い髪をしていた。濃い緋色で、肩のあたりまでの長さ。赤い目をしていた。緋色の光が宿るような、鮮やかな赤い瞳。年齢は、僕より少し上に見える。


 二人ともひどく重そうな金属をつけていた。


 首に、太い金属の輪。手首に、分厚い鎖でつながれた金属の輪。足首にも同じものが。それだけではなく、腰にも固定された板状の金属が巻かれていた。動くたびに鎖が鳴るような、そういう重さだ。見ているだけで、ずしんとくるような重量だった。


 (あんなものをつけて……)


 二人は並んで座って、こちらを見ていた。


 視線に媚びがない。かといって、反抗的でもない。ただ静かに、こちらを見ていた。表情はほとんどなくて、人形みたいに整った顔だ。それでいて、不思議と気配が薄い。部屋の中にいるのに、そこにいることを空気が主張していないような、そういう感じがした。


 「ラナとリナ、ヴァルハルト」


 商人が書類を開いて読み上げた。


 「魔族系統不明。見た目年齢十三歳。罪人ランクSA。一人は剣の達人、もう一人は一級魔術師の認定を持ちます。同一の罪状によりペアとして競売にかけられております。分離売却は――」


 「断固お断りしております」


 声がした。


 二人のうちの一人が口を開いた。右側の少女だった。


 声は静かで、小さかった。でも通った。部屋の空気がわずかに変わったような気がした。


 「――なるほど」


 父が短く言って、少女を見た。少女は父の視線を受けて、ゆっくりと頭を下げた。礼儀正しい動作だった。左側の少女も、同じ動作で頭を下げる。


 二人が全く同じタイミングで頭を下げたのが、少しだけ不思議だった。


 「名前はどちらがどちらだ」


 父が聞いた。


 右側の少女が答えた。


 「私がラナです。こちらがリナです」


 「罪状を自分で言えるか」


 「殺傷です。ただ」と言って、ラナは少し目を伏せた。「詳細については存じません。私たちが認識している事実と、記録されている内容が、一致しているかわかりかねますので」


 父が無言で商人を見た。商人は少し居心地が悪そうに書類を広げた。


 「詳細はこちらに。ただ本来SAランクですと、処刑か終身奴隷が通例なのですが……今回はまあ、諸々の事情がありまして、一般競売になった次第で」


 「諸々の事情というのは」


 「あー……その、上からの指示でして。詳細は私の口からはちょっと」


 父が少し間を置いた。


 「わかった」


 それだけ言って、父は二人の少女をもう一度見た。少女たちは静かに座ったまま、視線を受けていた。


 僕は二人の様子を少し後ろから見ていた。


 (なんか……普通じゃないな。)


 何がどう普通じゃないのかを上手く言葉にできなかった。雰囲気が、というのが一番近い。ここにいる他の罪人たちとは何かが違う。でもそれが何なのか、具体的にはわからなかった。


 「アルス」


 父が僕を呼んだ。


 「はい」


 「近くで見てみなさい」


 「……はい」


 僕は前に出た。二人の少女と向き合う距離まで。


 ラナとリナが僕を見た。


 赤い目が、僕を見ている。


 近くで見ると、二人はそっくりだった。顔の造りが全く同じ。でもよく見ると微妙に違いがある。ラナの方が目元の線が少し鋭い。リナの方が口元がほんの少しやわらかい。そういう違いがあった。


 「こんにちは」


 とりあえず言ったら、二人がわずかに目を丸くした。一瞬だけ、表情が変わった。すぐ元に戻ったが、確かに変わった。


 「……こんにちは」


 ラナが答えた。少し間があった。


 「いくつですか」


 「十三です」と言ったのはリナの方だった。「あなたは?」


 「十歳」


 「……そうですか」


 リナが少し視線を下げた。何かを考えているような顔だった。


 「痛いですか、それ」


 僕は二人の首についている金属の輪を指した。


 二人がまた目を丸くした。今度はラナの方が少し長く表情が変わった。


 「……いえ」とラナが言った。「慣れましたので」


 「慣れたら痛くないんですか」


 「……慣れたら、気にならなくなります」


 「それは慣れたんじゃなくて、諦めたんじゃないですか」


 ラナが黙った。


 少し後ろから、商人が笑い声を上げた。


 「はっはっは、坊ちゃんは率直ですな!」


 僕は振り返らなかった。


 「ラナさん、リナさん」


 二人が僕を見た。


 「あなたたちは、冤罪ですか」


 部屋が静かになった。


 商人の笑いが止まった。父が何も言わなかった。


 ラナとリナが互いに視線を交わした。ほんの一瞬のことで、それがどういう意味の視線なのか、僕には読めなかった。


 「……わかりません」


 ラナが答えた。


 「わかりません、とは」


 「私たちがしたことが、罪かどうか、私たちには判断できません」


 答えになっているようで、なっていない。でも嘘をついているようでもなかった。


 「そうですか」


 僕は一歩下がった。父の方を見た。


 「お父様」


 「なんだ」


 「買いますか、この二人を」


 「お前はどう思う」


 「……買う方がいいと思います」


 父が少し目を細めた。


 「理由は」


 「あの金属が重すぎます。ここにいたら、体が壊れます」


 父がしばらく無言で僕を見ていた。


 それから、商人に向き直った。


 「競りにかけずに落札する。価格を言いなさい」



 競売の手続きが終わったのは昼過ぎだった。


 父が商工会との会合に向かう前に、ラナとリナを連れて馬車まで戻ることになった。商人が念押しのように言った言葉が、少し気になっていた。


 「あのー、一つ申し上げておきたいことが」


 商人が手を揉みながら言った。


 「あの重りの件ですが……一部は外せるものもございますが、首と手首のものに関しては、あと四年は外すことができない仕様になっておりまして」


 「仕様?」


 父が眉を上げた。


 「はあ、SAランクの罪人に対してのみ使用される、特殊な魔道具でして。王国の封印師が施した鍵がかかっておりまして、解錠できるのは四年後の解除期限が来てからということに……」


 「つまり、四年間は外せない」


 「左様でございます。大変申し訳ないのですが、これは私どもの権限ではいかんともしがたく……」


 父が少し考えてから頷いた。


 「わかった」


 「ご理解いただけますと幸いで……」


 「あの」


 商人の言葉を遮ったのは、ラナの声だった。


 商人が振り返った。父も振り返った。僕も振り返った。


 ラナが、少し上目遣いで商人を見ていた。


 今まで見た表情とは少し違った。声が、心なしか少し細くなっている。


 「足首のものと、腰のものは……外していただけますか」


 「はあ、そちらは外せるものですので、構いませんが……」


 「あと、手首のものも」


 「手首のものは四年封印がかかっておりまして……」


 「そうですか……」


 ラナが少しだけ目を伏せた。リナも、ラナの隣でわずかに肩を落とした。


 どちらかというと、弱々しい仕草だった。今まで見た印象と、少し違う。


 商人が困った顔をした。


 「あー……お嬢ちゃんたちがそう言うのはわかるんですがね、こればかりは決まりがあるもんで……」


 「そうですよね」


 ラナが小さく言った。


 「仕方ないですよね」


 リナが続けた。


 「でも重くて……」


 二人が、ほぼ同時にそれだけ言って、また黙った。


 商人がしばらく唸ってから、「足首と腰のものは今外しましょう」と言った。


 「首のものは……これは私の一存では……」


 「わかりました」


 ラナが微笑んだ。


 小さな、静かな微笑みだった。


 「ありがとうございます」


 商人が道具を取り出して、足首と腰の固定具を外した。外れたとき、二人の体が少し軽くなったのがわかった。金属の音がして、重い固定具が床に落ちた。


 「ありがとうございます」


 リナも頭を下げた。


 商人がほっとしたような顔をした。


 僕はその一連の様子を少し後ろで見ていた。


 (上手いな。)


 なんとなく、そう思った。


 二人が意図的にそうしたかどうかはわからない。でも、ラナとリナが「お願い」をしたときの声と、それ以外のときの声は、確かに少し違った。


 それが意識的なものなのか、疲れていてそうなっているだけなのか、今の僕には判断できなかった。


 ただ、「上手いな」と思ったことは、頭の片隅に残った。



 馬車の中で、ラナとリナは静かに並んで座っていた。


 足首と腰のものは外れたが、首と手首の金属はまだある。特に首の輪は、金属の重さで首筋が少し赤くなっていた。馬車が揺れるたびに、鎖が低く鳴った。


 父は反対の席で書類に戻っていた。


 僕はラナとリナの隣の席に座っていた。


 (……なんでここに座ったんだろう。)


 向かいに座ればよかった気もしたが、なんとなくそっちに座っていた。深い理由はない。


 しばらくして、リナが小さな声で言った。


 「馬車の外を見てもいいですか」


 「どうぞ」と答えたのは父だった。


 リナが窓の方に少し首を向けた。街の石畳と、行き交う人の姿と、市場の喧噪が流れていく。リナはそれをじっと見ていた。


 ラナは正面を向いたまま、動かなかった。


 「屋敷まで、どのくらいかかりますか」


 ラナが聞いた。父に向けた質問だったが、父が書類から目を上げる前に僕が答えた。


 「半日くらいです」


 「そうですか」


 「長いですか」


 「いいえ」


 「慣れない場所は疲れますか」


 「……どうでしょう」


 ラナがこちらを見た。赤い目が、静かに僕を見ている。


 「アルス様、というお名前でしたか」


 「ただアルスでいいです、様はいらないので」


 「ランデンワール公爵様のご子息に様なしはさすがに」


 「じゃあアルス君でも」


 「……それもどうかと」


 「難しいですね」


 「難しいですね」


 ラナが静かに繰り返した。


 少し間があって、リナが窓から視線を戻してこちらを見た。


 「アルス……様は、どうして私たちを買うようにお父様に言ったんですか」


 「言ったというより、聞かれたんです。どう思うか、って」


 「それで、買う方がいいと」


 「金属が重そうだったので」


 リナが少し黙った。


 「……それだけですか」


 「それだけでした」


 リナがラナを見た。ラナもリナを見た。


 二人が何かを視線で言い合っているような気がしたが、何を言い合っているのかはわからなかった。


 「変な人ですね」


 リナが言った。


 「そうですか」


 「普通、SA罪人を買うのに、金属が重そうだったから、とは言いませんよ」


 「他に何か言いますか」


 「……もっと戦略的な理由とか、使い道とか」


 「稽古相手にと言っていましたよ、お父様は」


 「お父様はそうでも、アルス様は?」


 僕は少し考えた。


 「稽古相手というのは後から聞いた話で、僕が最初に思ったのは金属が重そう、ということだけでした」


 リナがまた黙った。


 ラナが少し、口元を動かした。笑ったのかもしれない。でもわかりにくかったので、笑ったかどうかは定かじゃなかった。



 屋敷に着いたのは夕刻だった。


 門をくぐると、すでに話を聞いていたらしいエリーゼ姉さんとフィア姉さんが出てきていた。


 「あら」


 エリーゼ姉さんが二人を見て、静かに言った。


 「SAランクの子たちね。話は聞いていたけど……」


 「首のもの、外せないの?」


 フィア姉さんが真っ先にそこを見た。


 「四年間は外せないそうです」と僕が言うと、フィア姉さんが顔をしかめた。


 「それはひどいよ……」


 「フィア」とエリーゼ姉さんが言った。「まず中に入ってもらって」


 「あ、そうだね。ごめんね、入って!」


 フィア姉さんがラナとリナに手招きした。二人は少し驚いたような顔をして、互いに目を見合わせてから、静かに頷いて歩き出した。


 屋敷の中に入ると、ミレアが廊下で待っていた。


 「わあ……」


 ミレアが目を丸くして二人を見た。


 「双子! しかもきれい!」


 「ミレア、失礼よ」とエリーゼ姉さんが言った。


 「ご、ごめんなさい」ミレアが頬を赤くした。「えっと、ラナさんとリナさん、でしたっけ。ようこそ、ランデンワール屋敷へ」


 「……ありがとうございます」


 ラナが頭を下げた。リナも続けた。


 「よろしくお願いします」


 「こちらこそよろしくね!」


 フィア姉さんが元気よく言った。


 ソフィ姉さんは少し廊下の奥に控えていて、二人が視線を向けると、本から顔を上げて小さく頷いた。


 「……よろしく」


 「よろしくお願いします」とリナが言った。


 ソフィ姉さんがまた本に目を落とした。


 「ソフィ姉さんはああいう人なので」と僕が言った。


 「わかります」とラナが言った。


 「わかるんですか」


 「図書室がお好きそうな気配がします」


 「……よく分かりましたね」


 「なんとなく」


 ラナが静かに言った。


 その「なんとなく」が本当になんとなくなのか、違うのか、僕にはわからなかった。



 二人のための部屋は、僕の部屋から廊下を挟んだ場所に用意された。


 元々は客間として使われていた部屋で、屋敷の中でも比較的広い。ランプを入れて、寝台を二つ並べて、という準備が整っていた。


 夕食の時間になると、父と残っていた姉たちが揃って食卓についた。二人の少女は、初めは「私たちは別に構いません」と言った。


 「食堂に来なさい」


 父がそれだけ言うと、二人は頷いた。


 食卓での初日は、静かなものだった。


 ラナとリナは黙って食べていた。話しかけられたら答えるが、自分からは口を開かない。ただ、食事のマナーは完璧だった。どこで覚えたのか、貴族の食卓でも全く違和感がない所作だった。


 「どこで覚えたの、食事のお作法」


 フィア姉さんが聞いた。


 「以前いた場所で」


 ラナが答えた。


 「どんな場所?」


 「いろいろな場所を転々としていたので、一箇所とは言いがたいです」


 「ふうん」


 フィア姉さんが考えるように首を傾けた。それ以上は掘り下げなかった。


 ミレアが「好きな食べ物はある?」と聞いたら、リナが「甘いものが好きです」と答えた。それだけで、ミレアの顔がぱっと明るくなった。「私も! 一緒だ!」と言って、デザートのケーキを一緒に食べることになった。


 ミレアは単純に嬉しかったのだと思う。リナもそれを受けて、少し口元を緩めた。


 僕はその様子を眺めながら、食事を続けた。


 (なんか……意外と普通に馴染んでるな。)


 SA罪人という扱いだったわりに、食卓の雰囲気は普通だった。二人が大人しいこともあるし、姉たちが普通に接しているからというのもある。


 ただ僕は、「普通に馴染んでいる」ことを当たり前として受け取ってしまっていた。


 後から振り返れば、あの馴染み方自体が、異常なほど自然すぎたのかもしれない。



 翌朝、僕が庭に出ると、ラナとリナがすでにいた。


 二人は庭の端、木の陰のあたりに立っていた。特に何かをしているわけじゃない。ただ立っている。


 「おはようございます」


 近づいて言ったら、二人が振り返った。


 「おはようございます」とラナが言った。


 「こんな朝早くから何をしているんですか」


 「庭を見ていました」


 「庭が気になりますか」


 「広いなと思って」


 「屋敷の敷地全体では、もっと広いですよ」


 「……そうですか」


 ラナが庭を見た。朝の光が芝の上に斜めに落ちていた。


 リナが少し離れたところで、庭の花を見ていた。屈んで、目線を花に合わせて眺めている。


 「昨日は眠れましたか」


 「眠れました」


 「金属が当たって寝づらくないですか」


 「……慣れています」


 「慣れているっていうのは、さっき言いましたよね」


 ラナがこちらを見た。


 「言いました」


 「昨日と同じ答えですね」


 「同じ状況ですから」


 「それもそうか」


 僕は少し考えてから、言った。


 「今日、稽古を見てもらえますか」


 「稽古?」


 「剣の。ラナさんは剣豪だと聞いたので。今の自分のどこがどう悪いか、見てもらえたらなと思って」


 ラナが少し黙った。


 「私が、ですか」


 「他にいないので」


 「……その、私はあまり得意ではなくて」


 「剣豪だと聞いています」


 「過去の話で……」


 「昨日まで何かをしていたのが、今日から急にできなくなるとは考えにくいですが」


 ラナが少し目を細めた。


 「……正直な人ですね」


 「そうですか」


 「はい」


 「見てもらえますか」


 「……少しだけなら」


 遠くでリナが花を見ながら、小さく笑ったような気がした。振り返ったときにはもう笑っていなかったので、見間違いかもしれない。



 訓練場での最初の稽古は、少し変な空気だった。


 ラナが木剣を受け取って、持ち方を確認するように何度か握り直した。手首の金属が邪魔そうだった。


 「重さはどうですか」


 「……少し重いですが、問題ないです」


 「問題あるなら別の調整を」


 「大丈夫です」


 「本当に?」


 「はい」


 「……わかりました」


 僕も木剣を持った。構えを取る。


 ラナが向かい合って、木剣を持った。


 構えが、少し……変だった。


 いや、変というより、「弱そうに見える」構えだった。ルカン兄さんに習った基礎から言えば、重心が高く、剣先が下がり気味で、隙が多い。


 「その構え、本当の構えですか」


 ラナが少し目を丸くした。


 「……どういう意味ですか」


 「なんとなく、違和感があって」


 「どんな違和感ですか」


 「わかりません。なんとなく」


 ラナが少し間を置いた。


 「これが私の構えです」


 「そうですか」


 「はい」


 「じゃあこのまま」


 「はい」


 「いきます」


 「どうぞ」


 踏み込んだ。


 ラナが動いた。


 木剣を受け流されて、体勢を崩した。気づいたら体が半回転していた。受け流しの角度と、足の動き方が、見えなかった。


 「……」


 「大丈夫ですか」


 「大丈夫です。もう一回」


 「はい」


 また踏み込んだ。


 また受け流された。


 今度は倒れなかった。ただ、完全に剣筋を読まれていた。どこで読まれたのか、わからなかった。


 五回やって、五回全部受け流された。


 「……あなたの剣は、踏み込む前に右肩が動きます」


 ラナが静かに言った。


 「そこで出方が読めます」


 「なるほど」


 「あとは右足の重心のかけ方が、攻撃の一歩前に少しずれます」


 「両方とも気づいてなかったです」


 「そういうものだと思います」


 「ありがとうございます」


 ラナが少し、また黙った。


 「……上手いですよ、基礎は」


 「でも読まれる」


 「習慣になっているところが、読まれやすいということです。基礎がしっかりしているから逆に癖が見える」


 「そういうものですか」


 「そういうものだと思います」


 僕はもう一度構えを取った。


 「もう少しやりますか」


 「あなたが望むなら」


 「望みます」


 「わかりました」


 ラナがまた構えた。


 さっきと全く同じ、弱そうに見える構えだった。


 (なんで、あんな構えをするんだろう。)


 疑問は残ったが、今は稽古に集中することにした。



 その日の午後、リナが庭で一人でいるのを見かけた。


 特に何かをしているわけじゃなかった。木陰のベンチに座って、空を見ていた。


 「リナさん」


 声をかけると、リナが視線を下げてこちらを見た。


 「アルス様」


 「様はいいですって」


 「わかりました、アルス様」


 「わかりましたで様がついてる」


 「癖なので」


 リナが少し、目元を緩めた。笑っているのかもしれなかった。


 「一人でいるんですか」


 「ラナが部屋で休んでいるので」


 「疲れていますか」


 「昨日から今日で場所が変わったので」


 「慣れるまで時間がかかりますか」


 「それほどでもないとは思います。ラナが少し疲れやすいだけで」


 「そうなんですか。見た目は元気そうだったけど」


 「そういう人なんです」


 リナが空を見た。


 「……広い庭ですね」


 「走り回れるくらいには」


 「自由に使っていいんですか」


 「使っていいと思いますよ。聞いたことはないですが」


 「聞いてないのに言うんですか」


 「父に確認すれば問題ないと言うと思うので」


 リナが少し眉をひそめた。


 「……気楽な人ですね」


 「そうですか」


 「うん」


 「りな……さんは気楽じゃないですか」


 「どうでしょう」


 リナがまた空を見た。


 少し間があってから、リナが言った。


 「ここは、怖い場所じゃないんですか」


 「怖い?」


 「SA罪人を置いておくのは、危険だと思うんですが」


 「危険かどうかは使い方次第だと思います。稽古相手として来てもらったので、稽古の相手をしてもらえれば」


 「それだけ?」


 「それだけ。あとは好きに過ごしてもらって構わないと思います、父もたぶん」


 「たぶん、か」


 「聞いてないので」


 リナが小さく笑った。


 今度はわかった。確かに笑った。口元が少しだけ動いて、赤い目が少し細くなった。短い笑いだったが、確かにそこにあった。


 「変な人」


 「二回目ですね、それ」


 「二回とも本当のことを言っています」


 「そうですか」


 「ええ」


 リナがまた空を見た。


 「……ここで暮らすのは、そんなに嫌じゃないかもしれません」


 小さい声だった。独り言のようだった。


 僕は特にそれに返事をしなかった。返すべき言葉が思い浮かばなかったのと、返事を求めていないように聞こえたので。


 ベンチに少し距離を置いて座って、二人で空を見ていた。


 庭の木が風で揺れた。鎖が低く鳴った。リナが少し首を動かした。


 (早く外れればいいのに、あの金属。)


 そう思っただけだった。


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