第四話
一週間が経った。
ラナとリナの屋敷での生活は、想像以上に穏やかだった。
朝は早く起きて庭に出る。午前中は僕の稽古の相手をする。昼食を食堂でとる。午後は自由にしている。夕食もまた食堂で全員と食べる。そういう日課が、自然に出来上がっていた。
二人が屋敷のルールを破ったことは一度もなかった。立ち入ってはいけない場所には行かず、頼まれた仕事があれば完璧にこなし、誰に対しても礼儀正しかった。
「良い子たちじゃないの」
フィア姉さんがある夕食の後に言った。
「最初はちょっと怖かったけど……全然普通じゃない?」
「SA罪人だけど」とミレアが言った。
「でも普通だもん」
「普通だね」
「何が罪だったんだろ」
「聞いてないけど」
「アルス、知ってる?」
「詳しくは知らないです」
「聞かなかったの?」
「聞くタイミングがなかったので」
「変なの」
フィア姉さんが首をかしげた。「普通気になるよ」と言った。
「そうですかね」
「そうだよ。私なら最初に聞いちゃう」
「……そういうものですか」
言われてみると、確かに聞かなかった。聞こうと思わなかった、というより、聞かなくてもいいかと思っていた。
罪状を知ったところで、今の二人の行動が変わるわけじゃない。そのくらいに思っていた。
「俺が聞いてどうするんですか、という感じがして」
「それはそれで確かだけどさ……」
フィア姉さんが何か言いかけて、やめた。
向かいの席で、ラナが静かに食器を片付けていた。
十日目の夜、少し遅い時間に廊下を歩いていたら、ラナとすれ違った。
廊下の燭台の明かりの中で、ラナが立っていた。
「こんな時間に」と僕が言った。
「眠れなくて」
「部屋から出てもいいですよ、夜でも」
「それはあなたの許可ですか、それとも屋敷のルールですか」
「どちらでもないですが……まあ、問題ないと思います」
「たぶん、とか、思います、ばかりですね」
「確認が足りてないですね」
「そうですね」
二人で廊下に立っていた。
ラナが窓の外を見た。夜の庭は暗くて、木の輪郭が月明かりでうっすら見えるくらいだった。
「聞いてもいいですか」
ラナが言った。
「何を」
「なぜ、罪状を聞かないんですか」
「……姉からも言われました。さっき」
「どう答えましたか」
「聞いてどうするんですか、という感じがして、と」
「それが本当の理由ですか」
「……だいたいは」
ラナが静かに待っていた。
「どんな罪状だったとしても、今のあなたたちの行動が変わるわけじゃないので、今のまま見ていれば十分かと思っていました」
「……そうですか」
「冤罪の可能性もあると聞いたので、それなら余計に、過去のことより今のことの方が意味があると思って」
ラナが少しの間、何も言わなかった。
「……不思議ですね、あなたは」
「そうですか」
「はい。私たちに会ってきた人間の中で、そういうことを言った人は初めてです」
「そういうことというのは」
「今のことの方が意味がある、ということです」
僕は少し考えた。
「当たり前のことだと思いますが」
「私たちには、当たり前じゃなかったです」
ラナが窓から視線を外して、こちらを見た。
赤い目が、暗い廊下の中でもはっきりと見えた。
「ありがとうございます」
「何がですか」
「いろいろと」
「いろいろ、は雑な括り方ですね」
「そうですね」
ラナが少しだけ、口元を動かした。
「おやすみなさい、アルス様」
「様はいいですって」
「そうですね。おやすみなさい」
廊下の角を曲がって、ラナが部屋に戻っていった。
僕は少しの間、その場に立っていた。
(なんか、不思議な人たちだな。)
SA罪人で、金属をつけていて、背景が謎で、弱そうに見える構えをする。でも話してみると普通というか、むしろ礼儀正しくて、変に鋭いところがある。
(まあ、稽古はしてもらえてるし、問題はないか。)
そういう結論になった。
そのくらいで、考えるのをやめた。
二週間目に入って、稽古の質が上がってきた。
ラナが指摘してくれた癖を意識して直すと、受け流されることが少し減ってきた。完全になくなるわけじゃないが、少しずつ手応えが変わってくる。
「良くなってます」
ラナが言った。
「まだ読まれますが」
「それは当面続きます」
「どのくらい」
「五年は」
「五年」
「早くて」
「そうなんですか」
「体に染み込む癖というのは、そう簡単には消えないので」
「わかりました。五年かけます」
「……焦らないんですね」
「急いでも仕方ないので」
ラナが少し黙った。
「リナに魔法の稽古もつけてもらいますか」
「頼めますか」
「頼めばつけてくれると思います」
「ラナさんが判断するんですか」
「大体のことは私が先に判断します。それからリナに」
「双子なのに?」
「そういう役割です」
「リナさんは嫌じゃないんですか」
「……本人に聞いてみてください」
「聞きます」
ラナが少し目を細めた。
その日の午後、リナに「魔法の稽古をつけてもらえますか」と聞いたら、「いいですよ」と即答だった。
「嫌じゃないですか」
「何が」
「ラナさんが決めて、リナさんに伝わる形が多いみたいなので」
「ああ」リナが少し笑った。「慣れてます」
「慣れてますっていうのは、さっきラナさんも言ってました」
「姉妹ですから」
「そうですか」
「ラナは先に考えて、私がそれを受けて行動する。昔からそうです。私はそれが嫌じゃない。ラナが考えたことは、だいたい正しいので」
「ラナさんを信頼してるんですね」
「そうですね」リナが少し間を置いた。「……あなたはお姉さんたちを信頼してますか」
「信頼、というか、姉さんたちはそれぞれ自分のことをやっていて、僕もそれを見てる感じで……信頼しているかどうか、考えたことがないかも」
「考えたことがない?」
「意識してないです。当たり前にそこにいるので」
「……それは」
リナが少し目を伏せた。
「羨ましいですね」
小さい声だった。
僕はその声の温度を、少し後から気づいた。でも「羨ましい」の中に何が含まれているのかまでは、そのときは読み取れなかった。
一ヶ月が経った頃、ソフィ姉さんとラナが図書室で話しているのを見かけた。
扉が少し開いていて、声が聞こえてきた。入るタイミングを逸して、廊下で立ってしまった。
「……この本は読んだことがある?」
ソフィ姉さんが聞いていた。
「はい。魔法史の第二部ですね」
ラナが答えた。
「詳しいのね」
「昔、読む機会があって」
「昔というのは、どこで?」
「いろいろな場所で」
「……ラナは、どこで生まれたの?」
少し間があった。
「それは、少し難しい質問です」
「そう」
ソフィ姉さんが静かに言った。
「聞かなければよかった?」
「いいえ。ただ、答えるのが難しいだけで」
「難しい理由を聞いてもいい?」
「……生まれた場所が、もうないからだと思います」
沈黙が落ちた。
「……そうなの」
「はい」
「そっか」
ソフィ姉さんがそれ以上追わなかった。本のページをめくる音がした。
「読み終わったら次を出すね。ここには続きもあるから」
「ありがとうございます」
「別に。読む人がいる方が本も喜ぶと思うから」
「……ソフィ様は優しいですね」
「そう? ただの本好きなだけよ」
「それでも、優しいです」
また少し間があった。
「……ラナも、本が好きなんでしょう」
「はい」
「だったら、気が合う」
それだけ言って、ソフィ姉さんがまた本のページをめくった。
僕は静かに廊下を引き返した。
(生まれた場所が、ない。)
その言葉が少し残った。
何があったのか、聞くべきかどうか、少し考えた。でも結局、今聞くことではないかなと思って、そのままにした。
一ヶ月半が経った頃、リナに魔法の稽古をつけてもらった初日に、少し変なことがあった。
最初に僕の魔力の系統を確認しようということになった。
「光の系統が出たことがあります」と言ったら、リナがしばらく僕の手を見た。
「もう一度やってみてください」
「はい」
手のひらに光を出そうとした。ぽっ、と小さな光が浮かんだ。
リナが光を見た。
「……これは」
「なんですか」
「光に見えますが、少し違います」
「違う?」
「光の系統の魔力は、もう少し温かい色をします。これは……白っぽい。光というより、何か別のものが光の形をとっている感じで」
「別のもの?」
「……よくわかりません。私の知識の外かも」
リナが少し考え込んだ。
「封印系統という可能性があります」
「封印?」
「希少な系統で、私も本でしか読んだことがないので、確かなことは言えませんが……光と見分けがつかないほど白い魔力の発現をすることがある、と書いてあったので」
僕は手のひらの光を見た。
やっぱり、そうかもしれないな、と思った。あの図書室でその項目を読んだとき、手が止まったのを思い出した。
「どうすれば確かめられますか」
「私では難しいです。封印系統に詳しい人が必要かと」
「そうですか。参考になりました」
「お役に立てたなら」
リナが少し笑った。
「あなたが封印系統なら、面白いですね」
「面白い?」
「稀少中の稀少ですから。百年に一人というのは本当らしいので」
「光じゃなかったのか、という方が驚きですが」
「普通そちらの方に気持ちが向きますよね」
「そういうものですか」
「普通は」
「……普通、難しいですね」
「何が普通かがわからないんですか?」
「自分の感覚が標準かどうか、測りにくくて」
リナがしばらく僕を見た。
「……人と、ちゃんと関わってきましたか、今まで」
「家族とは、それなりに」
「それ以外は?」
「それほど」
「屋敷の外の友人とかは」
「あまり」
リナが少し目を細めた。
「……だから普通がわからない、というのは、少しわかる気がします」
「リナさんも?」
「私たちも、あまり人の中で暮らしてこなかったので」
「そうなんですか」
「そうなんです」
二人で少し黙った。
「……変な共通点ですね」と僕が言った。
「そうですね」とリナが言った。
「でも、共通点には違いないです」
リナがまた少し笑った。今日は何度か笑った。最初の頃よりも、笑う回数が増えた気がする。
気のせいかもしれないと思ったが、気のせいではない気もした。
二ヶ月が過ぎた頃、ラナが稽古の後に少し疲れた顔をしていた。
「今日は切り上げましょう」
僕が言ったら、ラナが首を横に振った。
「まだできます」
「でも顔色が悪い」
「……そうですか」
「気づいてなかったですか」
「自分の顔は見えないので」
「理屈ですね」
「事実です」
「疲れたら言ってください」
「言います」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん、はなしで」
ラナが少し目を細めた。
「……アルス様はそういうところ、融通が利かないですね」
「様はいいです」
「癖なので」
「なかなか直らないですね」
「あなたの剣の癖よりは直りやすいと思います」
「それはそうか」
僕は木剣を戻した。ラナも木剣を戻した。
二人で砂の上を歩きながら、訓練場を出た。
ラナが首の金属に手をやった。無意識の動作に見えた。重さを確認しているような、痛みを確かめているような。
「痛いですか」
「……少し、今日は」
「言ってください、切り上げるので」
「稽古に支障はないので」
「でも」
「アルス様」
ラナが少し強めに言った。
「私は弱い人間ではないので、痛みで稽古が止まるようなことはありません。ご心配は不要です」
「……心配はしていないですが」
「では」
「ただ、痛そうだなと思っただけで」
ラナが少し黙った。
「……あなたは」
何か言いかけて、やめた。
「何ですか」
「いいえ」
「言いかけたことは言ってください」
「……本当に、変な人だと思っただけです」
「三回目ですね」
「数えてたんですか」
「なんとなく」
ラナが少し、目を伏せた。
「数えていたんですね」
「それが変ですか」
「……いいえ」
ラナが前を向いて歩いた。
「変じゃないです」
小さな声だった。
僕にはそれが何を意味しているのか、よくわからなかった。
その日の夜、ソフィ姉さんの部屋の前を通ったとき、中から二人の声が聞こえてきた。
ソフィ姉さんとリナだった。
「……この作者の別の本も読んだことある?」
「一冊だけ。旅の途中で手に入れて」
「旅をしていたの?」
「ずっと、どこかを移動していました」
「大変だったね」
「慣れていました」
「慣れていた、か」
ソフィ姉さんが少し間を置いた。
「ここはどう? 慣れてきた?」
「……はい。思ったより、ずっと」
「良かった」
「ソフィ様は、私たちがここに来ることに、反対ではなかったんですか」
「SA罪人だもの、最初は少し不安だった。正直に言えば」
「それが正直ですよ」
「でも今は、全然そういう気にならない。ラナもリナも、本が好きで、話すと面白い」
「面白い?」
「読んできたものが多いから、話が合う。あと、ちゃんと答えを考えてから喋るから聞いていて楽なの」
「……そんなことを気にする人がいるんですね」
「私は喋るのが得意じゃないから。相手に合わせるのが疲れるときがある」
「わかります」
「でしょ」
二人がほぼ同時に言って、少しの沈黙の後、どちらかが小さく笑った。
「……ソフィ様」
「なに?」
「ここにいても、いいでしょうか」
「もうここにいるじゃない」
「そうじゃなくて、その……もっと先のことを言っています」
ソフィ姉さんが少し間を置いた。
「四年経って金属が外れても、ということ?」
「はい」
「それはお父様が決めることよ。でも……私個人は、嫌じゃない」
「……ありがとうございます」
「別に礼は要らない。本が読みたいなら来ればいい、ここに」
小さな笑い声がした。リナの声だと思った。
僕は廊下から引き返した。
(いても、いいかどうか。)
リナがそれを聞いた、ということが、少し頭の中に残った。
ここを、どういう場所だと思っているんだろう。
そういう疑問が浮かんで、でも答えは出なかったので、自室に戻った。
三ヶ月目の終わり頃に、少し変なことに気づいた。
変なこと、というほどのものでもないかもしれないが。
ラナが稽古の後、木剣を片付けながら言った。
「今日は来るのが少し遅かったですね」
「父に呼ばれて」
「そうでしたか」
「気にしてましたか」
「……いいえ」
少し間があった。
「少し」
「少し気にしてたんですか」
「稽古の時間が変わったのかと思っただけです」
「それが気にしてたということですよね」
ラナが黙った。
「……そういうことになりますね」
「次から来るのが遅れるときは言います」
「そこまでしなくても」
「するほどのことでもないですが、したほうが良いかなと思うので」
ラナがまた少し黙った。
「……わかりました」
それだけ言って、木剣の整理を続けた。
同じ日の夕食の後、リナが「明日の稽古は何時頃の予定ですか」と聞いてきた。
「午前中の決まった時間に来てもらえればいつでも」
「わかりました」
「確認しておきたかったですか」
「先に知っておいた方が動きやすいので」
「そうですか。何かあれば前日に言います」
「ありがとうございます」
二人とも、予定を確認したかったのか、それとも別の理由があったのか、その時の僕には区別がつかなかった。
ただ、二人とも「アルスの予定」を気にしている、ということだけは、なんとなく感じた。
(稽古の相手だから当然か。)
そういう結論になった。
四ヶ月が過ぎた冬の初め。
夜に廊下でラナと会った。
「眠れないんですか」
「今日は少し寒くて」
「暖炉に薪を足せばいいのに」
「足し方がわからなくて」
「あとで教えます」
「ありがとうございます」
廊下の窓から外を見ると、薄く雪が積もり始めていた。
「雪は好きですか」
ラナが窓を見ながら言った。
「嫌いではないですが、特に好きでもないです」
「そうですか」
「ラナさんは?」
「……好きです」
「意外ですね」
「なぜですか」
「なんとなく。似合わない気がして」
「雪が、ですか」
「うん。ラナさんは赤い色が似合うから」
ラナが少し黙った。
「……赤い色が似合う、というのは、どういう意味ですか」
「髪の色と目の色が赤だから、赤い色が似合うと思って。白い雪より、炎の色が似合う気がして」
「……そうですか」
ラナが窓の外を見た。
「白い雪が、好きなんです」
「なぜ?」
しばらく間があった。
「全部きれいに見えるから、かもしれません。隠してしまうから」
「隠してしまうのが好きなんですか」
「……汚れたものも、そうでないものも、同じように白くなるので」
僕はその言葉の意味を、少し考えた。
「過去のことを、白く覆ってしまいたいということですか」
ラナが少し驚いたような顔をした。
「……察しがいいですね」
「違いましたか」
「……だいたい、そういうことです」
ラナが窓から目を離して、床を見た。
「過去は、あまり思い出したくないことが多いので」
「そうですか」
「……聞きますか、過去を」
「聞いてほしいですか」
ラナが少しの間、動かなかった。
「……いいえ」
「じゃあ今は聞きません」
「……話したくなったら、聞いてもらえますか」
「聞きます」
「本当に?」
「はい」
ラナが、また少し目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「暖炉の薪の足し方、教えに行きますか」
「……はい」
二人で廊下を歩いた。
鎖が低く鳴った。雪が窓の外で降り続けていた。
(変な人たちだな。)
また同じことを思った。
でも今日は少し、「変」の中身が違う気がした。
何が違うのかは、うまく言葉にならなかった。




