第二話
父のレイナードとの初めての「ちゃんとした会話」は、僕が三歳の終わり頃だった。
父は忙しい人だった。公爵という立場上、政務や来客が多く、子どもたちと顔を合わせる時間は限られている。でも夕食の席には必ず出てきて、子どもたちの話を聞いていた。
ある夕食の席で、フェイル兄さんが魔法の練習の成果を嬉しそうに話していた。炎の大きさが先週より二倍になった、という話だ。父は静かに頷いて、「よく努力している」と言った。短い言葉だったが、フェイル兄さんが誇らしそうに背筋を伸ばしたのを覚えている。
そのとき、隣に座っていたミレアが肘で僕をついた。
「アルスもお父様に何か話しなよ」
「なにを」
「最近ソフィとよく図書室に行ってるんでしょ」
僕は少し考えて、父の方を見た。
父と目が合った。厳格そうな顔をした四十代の男性で、目元がルカン兄さんに似ている。金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「……お父様」
「なんだ、アルス」
「図書室の本を読んでいます。魔法について書いてあるものです」
父がわずかに眉を上げた。
「一人で読めるのか?」
「ソフィ姉さんに教えてもらいながら」
「そうか」
父はそれだけ言って、また食事に戻った。会話としては短かった。でも少しして、父がまた口を開いた。
「何か気になることはあったか」
「封印魔法というものが書いてありました」
テーブルが少し静かになった気がした。父が僕を見ている。その目が、さっきより鋭くなっている。
「なぜ、その系統が気になった」
「なんとなく、です。手が止まったので」
「……そうか」
父はまたそれだけ言って、食事に戻った。
食事が終わって席を立つとき、父が僕の横を通りながら、ぽんと一度だけ頭に手を置いた。
何も言わなかった。
(なんだろう。)
僕は特に意味を考えなかった。父がそうしたかったのだろう、と思ってそれで終わりにした。
後から母に「父様がアルスを気にかけてらっしゃるのよ」と教えてもらって、あのときの仕草がそういう意味だったのだと、少し遅れて理解した。
ルカン兄さんとの接点は、はじめはほとんどなかった。
ルカン兄さんは十九歳で、次期当主の候補として日々厳しい訓練を受けていた。寡黙で、感情をあまり表に出さない人だった。食卓では必要なことしか話さず、訓練場と自室と父の執務室を往復するような生活をしていた。
僕はある日、庭をうろうろしていて訓練場の柵の外に行き着いた。
特に目的があったわけじゃない。探索の延長で、柵の外から中を覗いたら、ルカン兄さんが剣の素振りをしていた。
(きれいな動きだな。)
そう思って、なんとなく立ったまま見ていた。
三十分くらい経っただろうか。ルカン兄さんが気づいた。
「……いつからいた」
「三十分くらいです」
「一言声をかけろ」
「すみません」
ルカン兄さんがため息をついた。
「入っていい。邪魔しないなら」
「入ります」
「じゃあ入れ、自分で開けて」
僕は柵の扉を開けて訓練場に入った。砂が敷かれた地面は、庭の芝とは踏み心地が違った。
「アルス。剣をやりたいか」
「やりたいかどうか、まだわからないです」
「……正直だな」
「でも、兄さんの動きを見てると、何か気になります」
「何が気になる」
「体の使い方が、全部きれいだから」
ルカン兄さんが無言で僕を見た。三歳の子どもが言う言葉として、少し変だと思ったかもしれない。でも兄さんは何も突っ込まなかった。
「剣はな、力じゃなくて型だ。型が正しければ、力は後からついてくる」
「なるほど」
「魔法と合わせられれば、さらに強くなれる」
「ルカン兄さんは両方使えるんですか」
「一応な」
「すごいですね」
ルカン兄さんがまた少し黙った。
「五歳になったら、俺が基礎だけ教えてやる」
「……いいんですか」
「お前が希望するなら」
僕は少し考えた。剣がいずれ必要かどうかはわからない。でも選択肢は多い方がいい、というのは前世からの方針だ。
「希望します」
「決まりだ」
ルカン兄さんがそれだけ言って、また素振りに戻った。
僕はしばらく砂の上に座って、その動きを眺め続けた。
帰り際、「また来ていいですか」と聞いたら、「邪魔しないなら」と返ってきた。
それが許可だということは、さすがにわかった。
エリーゼ姉さんとの会話は、また別の感じだった。
エリーゼ姉さんは十七歳の長女で、将来は他の貴族家に嫁ぐことが決まっていた。本人もそれを知っていて、だからこそ誰よりも熱心に勉強しているような人だった。
ある日、廊下でエリーゼ姉さんに呼び止められた。
「アルス、少しいい?」
「はい」
「ソフィと図書室によく行ってるそうね。本の内容はわかる?」
「少しずつ」
「何が一番面白かった?」
僕は少し考えた。面白い、というより印象に残ったのは、魔法を持つ者と持たない者の社会的立場の違いについての記述だった。この世界では魔法の有無が、生まれた時点でその人の人生の選択肢をある程度決めてしまう。
「魔法を持つ人と持たない人で、最初から扱いが違う話が気になりました」
エリーゼ姉さんが目を細めた。
「四歳でそれが気になるの」
「変ですか」
「変というより……この家に生まれた子がそれを言うのね、って思って」
「持ってる側だから?」
「そう」
「だったら余計、考えた方がいい気がして」
エリーゼ姉さんがしばらく黙って僕を見ていた。それから、ひざをついて目線を合わせた。
「……アルスって、不思議な子ね」
「そうですか」
「ええ。大人になったらどんな人間になるかしら、って思う」
「わかりません。なってみないと」
「それもそうね」
エリーゼ姉さんが微笑んだ。
僕は特にうまいことを言ったつもりはなかったが、姉さんが笑ったのは良かったと思った。
フィア姉さんは、理由なく突然やってくる人だった。
「アルス! 庭で遊ぼ!」
「何をして遊ぶんですか」
「なんでもいい!」
「……かけっこなら」
「やろう!」
フィア姉さんとのやり取りはいつもそんな感じだった。十五歳のわりに子どもっぽいが、一緒にいて退屈しないのは確かだった。
ある日、かけっこをしていて僕が転んだ。勢いが余って砂利の上に手をついて、手のひらを少し擦りむいた。
「大丈夫?!」
フィア姉さんが飛んでくるように駆け寄ってきた。
「大丈夫です」
「血が出てる! ちょっと待って、ハンカチ……」
「本当に大丈夫ですよ」
「ダメ! ちゃんとしてあげないと!」
フィア姉さんがポケットからハンカチを出して、僕の手のひらに当てた。その手が少し震えていた。
(心配性なんだ。)
それくらいは気づいた。
「フィア姉さん、これくらいの怪我、大したことないですよ」
「アルスには大したことじゃなくても、私には大したことなの!」
それはどういう論理なのかよくわからなかったが、怒らせても仕方ないので黙っておいた。
ハンカチを巻いてもらって、フィア姉さんが少し落ち着いてから、僕は思っていたことを言った。
「怪我して誰かに心配されるって、こういう感じなんですね」
「……え?」
「初めてだったから」
「初めて? 転ぶのが?」
「心配されるのが」
フィア姉さんが固まった。
「……アルス」
「はい」
「それ、すごく変なこと言ってるよ」
「そうですか」
「普通、三歳の子は転んだら泣くでしょ!」
「あ、泣いた方が良かったですか」
「そういう問題じゃない……」
フィア姉さんが何か言いかけて、やめた。それからため息をついて、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「何もわかってない子ね、アルスって」
「何がわかってないんですか」
「全部」
答えになっていない気がしたが、フィア姉さんが機嫌を直しているのはわかったので、まあいいかと思った。
四歳の秋のある日、図書室でソフィ姉さんと本を読んでいたとき、僕は初めて魔力の存在を自覚した。
外が曇っていて、部屋の中が少し暗かった。ソフィ姉さんが光魔法で灯りを出そうとして、少し疲れていたせいか上手くいかなかった。
「あれ、今日は難しいな……」
僕は何となく、出せたらいいのに、と思った。
そのとき、指先が少し熱くなった。
体の奥で何かが動く感覚がした。曖昧なものだったが、確かに何かが動いた。
僕は手のひらを上向きにして、やわらかな光をイメージした。
ぽっ。
手のひらの上に、小さな光の玉が浮かんだ。
ソフィ姉さんが本を閉じた。
二人でしばらく、その光を眺めていた。
「……光の系統?」とソフィ姉さんが静かに言った。
「わからない。とりあえず何かは出た」
「消えないね」
「うん」
光はしばらく浮かんでいた。意識を離したら、すうっと消えた。
ソフィ姉さんが僕を見た。
「お父様に言った方がいい」
「そうだね。でも、もう少し自分で確かめてからにしたい」
「なんで?」
「何の系統かわかってから言いたい。中途半端なまま話すより」
ソフィ姉さんがしばらく考えて、頷いた。
「わかった。私は黙ってる」
「ありがとう」
図書室に、また静かな時間が戻った。
窓の外で風が木の葉を揺らしている。ソフィ姉さんが新しい本を開く音がした。
僕は手のひらをぼんやり眺めながら、さっき感じた感覚を思い出していた。
何か、温かいものが体の中にある。
それが何なのかは、まだわからない。でも、ある。
それがわかっただけで、今日は十分な気がした。
四歳の冬が来た。
ランデンワール領の冬は思ったより厳しくて、屋敷の外に出られる日が減った。必然的に室内で過ごす時間が長くなる。
そういうとき、姉たちが代わる代わる遊び相手をしてくれた。
ミレアはボードゲームを持ってきた。王国で流行っているらしい、チェスに似たゲームだ。最初に説明を聞いて、三回ほど負けてから、少しずつ手が読めるようになってきた。
「なんかアルス、強くなってきてない?」
「そう?」
「最初は全然だったのに」
「パターンがわかれば、どうにかなる」
「……なんか大人みたいなこと言う」
ミレアが不思議そうな顔をした。
四女の彼女は、最初のころは少しそっけなかった。それまで末っ子だったのに、弟が生まれてポジションを取られたような気分だったのかもしれない。でも今はよく遊びに来てくれる。
「ミレアはどうして最初、僕に冷たかったの?」
直接聞いたら、ミレアが固まった。
「……え、気づいてたの?」
「なんとなく」
「……冷たかった? 私」
「うーん。そっけなかった」
ミレアが少し赤くなった。
「それは……その、ちょっと複雑な気持ちがあって……でも今は違うから! ちゃんとかわいい弟だと思ってるから!」
「それは良かった」
「良かった、じゃなくて! もっと何か言ってよ!」
「何を?」
「……お姉ちゃん好きとか!」
「好きですよ、ミレア姉さんのこと」
「『ですよ』ってなんか他人行儀!」
よくわからなかったが、ミレアが頬を膨らませながらもゲームの駒を動かしてくるのを見て、悪い状況ではないと判断した。
(このゲーム、次は勝てそうだ。)
思考が別のところに向いていたが、それはミレアには言わなかった。
冬のある夜、母のセレストが就寝前に部屋に来て、話しかけてきた。
「アルス、最近は楽しい?」
「楽しいです」
「図書室に行ったり、ルカンの訓練を見に行ったり、色々しているのね」
「そうですね」
「ふふ。どの子も、あなたのことをよく話してくれるのよ」
「そうなんですか」
「ルカンが、来年から剣を教えると言ってた。あの子が自分から言い出したのは初めてで、少し驚いたわ」
「そうなんですか」
「フェイルは、アルスが魔法に興味を持ってるって聞いて、春になったら一緒に練習しようって言ってた」
「それは嬉しいです」
「ソフィは、アルスが図書室を好きになってくれてよかったって言ってた。自分だけの場所みたいだったのに、一緒にいてくれる人ができて嬉しいって」
「……そうなんですか」
「ミレアは、弟ができて良かったって最近言うようになったし」
「へえ」
「エリーゼとフィアは……まあ、二人はわかりやすいわね」
母が微笑んだ。
「みんながアルスのことを好きなのよ」
「……そうなんですか」
母が少し首をかしげた。
「あなた、そういうこと、あまり気にしないのね」
「気にしてないわけじゃないですが……そういうものかな、と思って」
「そういうもの?」
「家族だから好きなんだろうな、という」
「……ふふ」
母が笑った。何がおかしいのか、よくわからなかった。
「アルスはちょっと、鈍いところがあるかもしれないわね」
「鈍い?」
「いいえ、いいことよ。きっと。でも将来、誰かに心配させるかもしれないわ」
「どういう意味ですか」
「いつかわかるわよ」
母はそれだけ言って、おやすみなさい、と部屋を出ていった。
(どういう意味だろう。)
僕はしばらく天井を眺めていた。
でも特に答えは出なかったし、考えていたら眠くなったので、そのまま寝た。
四歳が終わる頃、僕はこの新しい人生がだいたいどういうものかを把握してきた。
ランデンワール公爵家の三男として、広い屋敷に住んで、たくさんの家族に囲まれて、魔法のある世界で育っていく。
前世とはまるで違う。
前世の神谷蓮は、友人と呼べる人間が少なくて、特に深く誰かと関わることもなく、二十五年間をわりと静かに生きた。悪い人生ではなかったと思う。ただ、今振り返ると、誰かと一緒にいる記憶がほとんどない。
今はある。
ミレアがゲームを持ってきて、フィア姉さんが急に庭に引っ張り出して、ソフィ姉さんが本を開いて待っていて、ルカン兄さんが素振りを見せてくれて、エリーゼ姉さんが話しかけてきて、フェイル兄さんが魔法を見せてくれて、母が夜に話しかけてきて、父が無言で頭に手を置く。
それが毎日の、普通のことになっていた。
(普通、か。)
普通のことが、以前はなかった。
僕はそのことをどう受け止めればいいか、うまくわからなかった。ただ、悪くないとは思っていた。
来年には五歳になる。ルカン兄さんに剣を習う約束がある。魔力の正体も、もう少し確かめていきたい。本もまだたくさん読めていない。
やることは色々ある。
(まあ、ゆっくりやっていこう。)
急ぐことは何もなかった。
この先に何が待っているかは、まだ知らない。
でも今はそれで良かった。




