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紫苑が咲く君に、心を奪われたまま  作者:
第一章:目覚めと、柔らかな世界

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第一話 

 最初に感じたのは、温かさだった。


 布の感触。体全体を包むような、やわらかな何か。それから遠くから聞こえる話し声。複数の人間の声が重なって、言葉の意味を拾うのが難しい。


 僕は――神谷蓮は、そのとき確かに思った。


 (死んだんだったな。)


 横断歩道だった。青信号を渡っていたら、右折してきたトラックが突っ込んできた。意識が飛ぶ前の一瞬、地面に倒れながら空の青さを見た記憶がある。あの青さはきれいだった。二十五年生きてきて、死に際に空がきれいだと思うとは想像もしていなかった。


 意識が少しずつ戻ってくる中で、いくつかのことに気づいた。


 まず、体が動かない。


 腕を上げようとしても、思ったように動かない。指が動く程度で、肘から先をまっすぐ伸ばすのも難しい。足にいたっては、存在はわかるのに自分のものという感覚が薄かった。


 次に、視界が揺れる。


 目を開けると、天井が見えた。高い天井。白い石造りの天井に、繊細な装飾が施されている。シャンデリアのようなものが吊るされていて、その光がゆらゆらと揺れていた。炎の灯りだ。電灯じゃない。


 (ああ。そういうことか。)


 僕は驚くほど冷静だった。


 死んで、どこかに転生した。そういう話は漫画や小説で読んだことがあった。まさか自分に起きるとは思っていなかったが、現実として受け入れるのに時間はかからなかった。もともと感情の振れ幅がそこまで大きい性格じゃないこともあって、「へえ、そうなんだ」という感じで、頭はすんなり状況を飲み込んだ。


 問題は、体だ。


 試しにもう一度腕を動かそうとして、やっと気づいた。


 腕が、短い。


 視界に入ってきた自分の手は、信じられないくらい小さかった。ぷにぷにとした、丸みを帯びた赤ちゃんの手だ。指一本一本が細くて、やわらかくて、到底二十五歳男性のものではない。


 「あ」


 声を出してみると、高くて柔らかい声が出た。赤ちゃんの声だ。


 そこで初めて、声が聞こえた。


 「アルス! 目が覚めた?」


 声の方向を見ると、ベッドの脇に女の子がいた。十歳くらいだろうか。紫がかった黒い髪に、透き通った水色の目。丸くて愛らしい顔が、今はほとんど僕の顔のすぐ上にある。


 「ちゃんと起きてる! お母様、アルスが目を覚ました!」


 大声で叫ばれた。


 僕は少し驚いて目を瞬かせた。それでも女の子は満面の笑みを浮かべたまま、僕の小さな手を両手で包んだ。


 「よかった。今日はずっと眠ってたから心配したんだよ。ね、わかる? ミレアだよ? お姉ちゃんだよ?」


 (ミレア。)


 その名前を聞いた瞬間、不思議なことが起きた。


 記憶が、流れ込んできた。


 まるで誰かが水の入ったコップを傾けたみたいに、するするとこの体の記憶が僕の中に入ってくる。家族の顔。名前。この部屋の匂い。母親の声。父親の大きな手。笑い声。泣き声。そういうものが、ぼんやりとした映像のように頭の中に広がった。


 (僕は今、三歳なんだ。)


 その瞬間、全部わかった。


 アルス=ランデンワール。ランデンワール公爵家の三男。生まれてから三年。上には兄が二人、姉が四人いる。母の名前はセレスト、父の名前はレイナード。


 僕はこの子の弟だ。


 「……みれあ」


 試しに声に出してみたら、ミレアの目が一気に輝いた。


 「しゃべった! 名前呼んでくれた! お母様、来て、早く!」


 バタバタと足音がして、部屋に大人の女性が入ってきた。


 淡い金色の髪を持つ、美しい人だった。少し目元が赤くて、心配していたのだとすぐにわかる。その人が僕を見た瞬間、顔全体がほころんだ。


 「アルス。よかった……」


 抱き上げられた。


 やわらかくて、温かくて、いい匂いがした。


 前世では誰かにこうして抱かれた記憶が、大人になってからはなかった。だから比べようがない。ただ、これは良いものだ、と思った。


 (……あれ。)


 なんか、目から何かが出てきた。


 泣いていた。


 自分でもよくわからなかった。赤ちゃんの体だから感情のコントロールが難しいのかもしれない。でも体の機能だけじゃなくて、もっと別の何かが反応している気がした。この温かさに、ずっと知らなかったものを感じた気がして。


 セレストが驚いたように僕の顔を覗き込んだ。


 「どうしたの、アルス。痛いところがある?」


 「……ちがう」


 「ちがうの?」


 「きもちいい」


 僕が言うと、セレストが少し固まって、それからふっと笑った。


 「そう。よかった」


 もう一度、ぎゅっと抱きしめてくれた。


 僕はされるがままになりながら、なんとなく思っていた。


 (転生って、こういうものなんだ。)


 感想がそれだけというのも、われながら随分のんきだと思う。



 ランデンワール公爵家の屋敷は、想像以上に広かった。


 三歳の体で歩き回れるようになった頃、僕は毎日少しずつ屋敷の中を探索した。廊下が長い。部屋が多い。窓から見える庭は、軽く一時間は歩けそうなくらいに広大で、噴水があって、手入れされた花壇が季節の花を咲かせていた。


 ここが「異世界」なのかどうか、最初の数ヶ月は正直まだよくわからなかった。


 魔法が存在する世界だということは、ミレアの話やフェイル兄さんの様子を見ていて徐々にわかった。フェイル兄さんは十七歳で魔術の訓練をしていて、たまに庭でちょっとした炎や水の流れを出しているのを窓から見かけた。


 最初に見たときは、声が出なかった。


 本物の魔法だ。炎が何もないところから生まれて、フェイル兄さんの手の動きに合わせて形を変えた。


 (本物の、異世界だ。)


 そのとき初めて、実感として腹に落ちた。


 死んで、転生して、魔法のある世界に来た。


 僕は窓のへりに両手をついたまま、しばらく動けなかった。驚いたのもある。でもそれより、「へえ」という感じが強かった。パニックになるほどの衝撃ではなく、どこかのんびりと事実を確認しているような感覚だった。もともとそういう性格なのかもしれない。


 「何を見ているの?」


 隣から声がして、振り返るとソフィ姉さんが本を抱えて立っていた。十三歳の三女で、四人の姉の中では一番おとなしい。さらさらした茶色の髪を肩のところで切りそろえていて、眼鏡をかけている。


 「フェイル兄さんが魔法を使ってた」


 「ああ、あれ。あの子は昔から才能があるからね。あなたも魔法、使えるかもしれないよ」


 「僕も?」


 「ランデンワール家は魔力持ちが多いから、たぶん」


 「そっか」


 「……もうちょっと興味持っても良くない? 自分のことなのに」


 ソフィ姉さんが少し呆れた顔をした。


 そう言われれば確かに。自分に魔法の才能があるかもしれないと聞いて、「そっか」で済ませてしまった。もう少し食いつくべきだったかもしれない。


 「じゃあ、興味があります」


 「……今更?」


 「遅れた分、後でまとめて」


 ソフィ姉さんが何とも言えない表情をして、「図書室においでよ」と言った。




 ランデンワール公爵家の図書室は、屋敷の二階の一番奥にあった。


 天井まで届く棚に、信じられないくらいの数の本が収まっている。前世でも本屋や図書館は好きだったから、この部屋に初めて連れてきてもらったとき、三歳の体なのに少し胸が高鳴った。


 ソフィ姉さんが低い棚から一冊を取り出して、床に敷いた絨毯の上に座って開いた。僕も隣に座る。


 本には、シンプルな絵と、大きな文字が並んでいた。


 「まだ文字は読めない?」


 「少し読める」


 「え、本当に?」


 ソフィ姉さんが驚いた顔をした。三歳で文字が読めるのは、やはり早いらしい。でも僕には前世の記憶があるし、この世界の文字も体の記憶が少し残っている。完全に読めるわけじゃないが、何となく意味はわかる。


 「アルスって、頭いいのかも」


 「どうだろう。そんな気はしないけど」


 「絶対そう。ルカン兄様が文字を読めるようになったのは五歳だって聞いてるし」


 「そっか」


 「また『そっか』」


 ソフィ姉さんがため息をついた。


 「あのね、アルス。それって自分に関することでも他人のことみたいに聞いてるでしょ」


 「そう見える?」


 「そう見える」


 言われてみれば、確かにそうかもしれなかった。自分のことでも、何かが遠い話のように感じてしまう。前世からそういう性格だった気がする。自分への関心が、他人への関心より薄いというか。


 「……直した方がいい?」


 「どっちでもいいけど」とソフィ姉さんは言った。「ただ、損することがあるかもしれないとは思う」


 「損?」


 「誰かが心配してくれてるのに気づかないとか。誰かが怒ってるのに気づかないとか」


 「あー」


 「あー、じゃなくて」


 ソフィ姉さんがため息をついた。でも怒っているわけじゃないのはわかった。呆れているが、嫌がっているわけじゃない。


 「まあいいか。本を読もうよ」


 「うん」


---


 その日から、ソフィ姉さんとの図書室通いが始まった。


 毎日というわけではないが、週に何度かソフィ姉さんが声をかけてくれる。僕も特に断る理由がないから、ついていく。本を読んで、わからないことを聞いて、たまに二人でぼんやり庭を眺める。そういう時間だった。


 本を通じて、この世界の輪郭が少しずつわかってきた。


 「ラーヴェル大陸」と呼ばれる場所で、複数の国が存在するらしい。僕たちがいるのは「ヴァルディア王国」。ランデンワール公爵家はその王国の中でも最古参の貴族の一つで、父のレイナードは王国の北部を管轄する領主でもある。


 魔法には系統があって、火・水・土・風・光・闇、そして封印という希少な系統が存在する。ランデンワール家はもともと火と光の系統が多いらしい。


 僕はある日、封印魔法の項目で手が止まった。


 百年に一人出るか出ないかの希少な系統で、使えるようになると「物質に制約を与える」「空間を固定する」「現象を停止させる」など、他の魔法と根本的に異なる力が使えるとある。攻撃も防御もできないが、「縛る」ことに特化した力だ。


 何となく気になった。


 なぜかは、うまく言葉にならなかった。ただ、体の奥のどこかが少し反応した気がした。


 「ソフィ姉さん、封印魔法を持つ人って、今の時代にいる?」


 「どうだろう。本には昔の記録しかないから」


 「そっか」


 「……アルスはなんで封印魔法が気になるの?」


 「わからない。なんとなく」


 ソフィ姉さんがしばらく僕の顔を眺めていた。何かを考えているようだったが、特に何も言わなかった。


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