天才の葛藤 (2/2)
(……俺は勉強をしたいというのに……)
帰宅した秀一は、自室の扉を開けるなり、わなわなと怒りに打ち震えていた。
「よっ、ほっ、ろくじゅういち、ろくじゅうに――」
自分の部屋で、なぜか一人のサッカー少女が、全力でリフティングに励んでいる。おまけに彼女は、長い金髪をヘアバンドで結い上げて、どこぞのチームの公式っぽいユニフォームと靴まで装着して、なかなか本格的な恰好までしている始末だ。……室内で。
ひくひくと表情をひきつらせて、秀一が叫ぶ。
「……こォの、ボケ娘……。まず、靴を脱げッ! そして家の中でボールを蹴るんじゃない! これでもう何度目だ!?」
しかし、彼女は説教をまるで聞いていない。それどころか軸足に体重をしっかり乗せると、
「――ここでヒサトの超絶ボレー!!」
あろうことか、きっちりフィニッシュのシュートまで決めてしまった。どこぞの得点王のごとく――
「どわあああああああああああああ!」
たまらず秀一が白目を剥いて絶叫する。
ものすごい音を立てて、跳ね返るボールが、次から次に激突していく。
そうして、ボールが地面にてんてんと転がる頃には――部屋の物はあちこちに散乱して地面にぶちまけられていた。
もちろん、彼の堪忍袋はぷちっと切れていた。
「ノ、イ、ン――! おまえはもう出てけぇぇぇ! 毎日毎日、邪魔だっつってんだろうがぁぁぁ!?」」
「そんなこといったって。退屈なんだもーん」
「だもーん、じゃない! いくら退屈だからって、サッカーをやるな! 世の中にごまんと遊びが存在する中、どうしてそれをここで選ぶ!?」
「……ここにボールがあるから?」
「それはお前が持ってきたんだろうがぁぁぁ!!」
二人の会話はまるで成立していない。しかも彼女は悪びれた様子もなく、ボールを抱えてゴロンと地面に転がった。機嫌を損ねた猫のようになって。
(……ったく、確かに遊べといったが、決して、こういう意味じゃない……)
まるで嘘のような出来事ではあった。彼女はつい先日まで、自分の命を狙っていた、殺人兵器のキルロイドとして。それが今や、すっかり牙の抜けた虎となっている。殺しのことなど完全に忘れて、テレビで見たサッカーに夢中になっているほどの染まりっぷりというわけだ。
秀一が落胆しているところに、ガチャリと扉が開いた。
姿を現したのは春香である。ガウチョパンツを履いたゆったりコーデ。片手には、いつもの飲み物と菓子一式。
そして、さすがに部屋の様子に気づいたのか、入り口のところでぴたりと立ち止まると、
「あらあら……たいへんね」
言いながら、彼女はすぐさま片づけを始めた。たまらず、秀一の眉が引きつった。
「……春香さん。それはノインにやらせないと――」
「まあまあ。ノインちゃんはまだ勝手がわからないから」
おっとりとした声で、春香はそうなだめるだけだった。
秀一が、深くため息をつく。
(……やれやれ。あんなに一番破壊にこだわってたのに、春香さんも今じゃこの調子だしな……。)
ノインの一件が解決してからというもの、春香は、すっかりノインを溺愛していた。まあ、自分と同じキルロイドのノインがいることは、彼女にとって本当はかなり嬉しいことなのだろう。なにせ、今までずっと一人しかいなかったのだから。
(まあ、気持ちは分かるけど……ただ、それとこれは別問題だ。最低限のしつけは必要だろう……)
それに、秀一の勉強の邪魔をして困るのは、むしろ彼女たちのはずである。
秀一は念押しするように伝えた。
「あのさ、春香さん。これは言うまいと思ってましたが……へたに未来が変わると良くないんですよね? 時間矛盾が起きて、春香さんたちの存在が消えるかもしれないから。だとすると、俺の勉強が邪魔されるのってマズくないですか?」
お茶とお菓子を机に並べながら、春香は小さくうなずいた。
「もちろん、わたしもそのことはちゃんとわきまえてる。でも、もう少しだけガマンしてもらえるかしら。今は色々と準備があってね。ノインちゃんにも早く普通の人間の暮らしをさせてあげたいでしょう? それが終わるまでは、あまり目を離したくないのよ。こんな調子だし」
(……なるほどね……)
彼女の言い分は、ごもっともだった。
役所の手続きや、人間社会での生き方の指南。そういった準備が済むまでは、確かに仕方のないことではある。
「ま……しばらくなら、いいですけど。春香さんたちがいる限り、未来にはまだ影響ないってことでしょうし。ただね……部屋のボール遊びだけはちゃんとやめさせてください」
秀一はそれだけ懇願すると、しぶしぶ納得した。
そもそも元凶を正せば、未来の自分がやったことだ。自分のせいともいえないが、まったくの責任がないわけでもない。それくらいは許容するべきだろう。
春香は家事の要件を済ませると、去り際にこんなことを尋ねた。
「ところで秀一くん。来週の土曜日なんだけど、空いてるかしら」
「勉強の予定ですけど……。なにか、あるんですか?」
聞き覚えのある日程に、秀一は嫌な予感を覚えた。そして、その予想は見事に的中する。
「ええ。夏野丘星祭。ノインちゃんに花火とか色々見せてあげたくって。せっかくだし、一緒に行かない?」
ほおに、汗がつうっと流れた。もしも琴子に鉢合わせでもしたら、さすがの秀一も気まずくて、たまらない。
「あ、あーと……お誘いはたいへん嬉しいんですが……その日はちょっとやっぱり勉強が……」
秀一がしどろもどろと断ろうとすると――春香はノインの耳元に顔を近づけて、こうささやいた。
「ノインちゃん。もう部屋の中でボール遊びしたらダメよ。秀一くん。もしも大事なパソコンのデータが消えたりすると……とても困っちゃうからね」
ひそひそ話にしては、やけに声が大きい。わざと秀一に聞こえるように喋っているのだ。その意味はたった一つである。
(彼女は、間違いなく俺を脅している)
秀一は答えた。いや、正しくは答えさせられた。
「はは……あはは……そうですね。大丈夫だと思います」
秘密を握られてしまった者に、他の選択肢など存在するはずがなかった。




