#46 タッチ――流血
「フーディ、なにがあったか話して」
エイミーはハンカチで鼻と口をきつく覆ったまま、くぐもった声で訊いた。
「なにをだ? 話したってなにも解決しない」
フイデースはぶっきらぼうにいい返した。
「それはそうだけど……とにかく話を聞かせて。すこしでも力になれたらいいんだけど……」
「力? 力なんてのがこの世の中にあるのか? あったとしても、人を傷つけて殺すことばかりに使われてるじゃないか!」
激昂した声が破壊しつくされた艇内に反響したが、もはやそこにはその程度で壊れるものは、なにもなかった。
「とにかく話して聞かせて。黙ってたら解決どころか、悪い方向にしか考えられなくなるんじゃない? 違う? わたしもそうだったけど……」
エイミーは彼が抱きかかえているなにかを調べて、なんらかの確証が掴めれば、フイデースから話を聞けるのではないかと考えていた。だが、そうするまでもなく、目にした明るい栗色の長い髪房から、それがなんなのか、心の奥底で半分以上確信していた。しかし、それを口に出すことは彼女も辛かったし、とてもできそうにないようだった。彼女はなにもいえなくなってしまった。
「わたしも? 君はわたしもというんだね? なにもわかってないな」
フイデースはそれまで俯いていた顔をあげて、怒りに燃える目でエイミーを突き刺した。
「そういう意味じゃない。わたしもいろいろあった。でも、だからってフーディの苦しみや悲しみがわかるなんて思ってない」
エイミーが口にした言葉は本音だったが、フイデースには通じなかった。
「同情か? よしてくれ、君になにがわかるんだ!」
彼はそういいながら指を突きつけて、つけ加えた。
「なんだその涙は! くだらないんだよ。そんなもの流しやがって」
「違うよ、そうじゃないよ……」
彼女は声を張って訴えようとしたが、異臭から目の痛みと吐き気に襲われていた。
流れる涙は同情ではなかったが、両目を刺してくる刺激から零れてしまう涙を、どうすることもできないでいた。そして、この状況ではなにも聞けないと思ったのか話題を変えた。
「ねえフーディ、仕事辞めちゃったの?」
彼は指を突きつけるためにあげていた腕を下ろして頷いた。
「もう軍に戻るつもりもないの?」
「ない」
「じゃあどうやって生きて……いや違うわね。――どうするつもり?」
「よくわかってるじゃないか、大したもんだ。死にたいのに死ねないって、わかってやがる。馬鹿にしやがって」
フイデースのいいかたは刺々しく痛々しかった。
「死にたいのに腹が減って腹が減って、林にいって虫だの木の芽だのを貪ってる自分が嫌なんだ。――そうか、君いいところにきた。そうだ、きっと君なら手伝ってくれるだろう」
そういうと、フイデースは背後に手を回して床からなにかを掴みとると、それをエイミーに力一杯投げつけた。
彼女は避ける暇もなくそれをもろに顔面に受けて、額から血を流しはじめた。
エイミーに当たって跳ね返った拳銃は、二人のちょうど真ん中あたりに落ちた。
瞬間、それが拳銃だと気づいた彼女はハンカチを放り出して、拳銃のうえに身を投げ出した。
「やめて! お願いだからやめて!」
彼女はその場で哀願するように顔をあげてフイデースを見つめたが、次の瞬間、凄まじい異臭に耐えられなくなって激しく吐いた。何度も身体をへし折りながら。それでもエイミーはその場を離れなかった。
その場でフイデースが死へと暴走するのを止められはしたが、彼女の気力は尽きかけていた。
ぱっくりと割れた額から流れ出た血が目に入ったのか、まえにも増して涙を溢れさせていた。胃のなかのものをすべて吐き出したからか、しばらくするとエイミーは吐くのをやめた。そのせいなのか、嗅覚が麻痺してきたのか、彼女は拳銃をお腹の下に抱えながら、ずるずると床を這ってフイデースに近づいていった。だが、あともう少しというところで力尽きてしまった。
しかし彼女は、それでも片手をフイデースの足へと目一杯伸ばそうとした。
そのとき、エイミーは手がなにか柔らかいものに触れたのに気づいた。明るい栗色の長い髪房だった。
彼女はその感触に驚きも恐れもせず、一部が黒く染まった栗色の髪をじっと見つめて囁いた。
「父さんも、母さんも、お婆ちゃんも、カールお爺もなにも残らなかった……せめて髪だけでもってなんども思った……。でも、なんにも残らなかった……。真っ黒な炭だけだった……」
それを耳にしたフイデースがぽつりと呟いた。
「そうだったな……」
彼の呟き声を聞いたエイミーは、フイデースがコロラド同時多発テロを知っていたことの嬉しさからか、胸のなかで涙ぐんでいた。
「ねえフーディ、この髪の人、あなたの大切な人だったの?」
フイデースはなにもいわずに頷いた。
「どうしてこうなっちゃったの?」
いいながらエイミーは栗色の髪房を手にしたまま、その亡骸であろう黒いどろどろの物体に這い寄っていった。
「わたし平気だよ。汚いとも臭いとも思わない。だって、あなたの大切な人でしょ? だったらわたしにとっても大切な人だもの。さっき吐いちゃったけど、あれはわたしのせいじゃない。身体が勝手に動いただけ。わたしは平気だったのに、身体が勝手に動いたんだよ……」
エイミーは物体に手を伸ばすとそれに優しく触れた。
「フーディ、可哀想だよいつまでもこんなままじゃ。ねえ、わたし手伝うから、きちんと葬ってあげようよ。可哀想すぎるよ」
フイデースのしゃくりあげるような泣き声がしていた。
「ねえ、この人は誰なの? フーディ、多分わたしも知ってる人だと思うけど、違う?」
エイミーは額から流れた血だらけの頬に、手にしていた栗色の髪房を撫でつけていた。
フイデースがなにか囁いたが、彼女の耳には届かないほど掠れて微かな声だった。
「ごめん。よく聞こえなかった。もう一回……」
すると彼は、胸に抱きかかえていたなにかを引き千切って、その切れ端をエイミーに見せた。
それは、こびりついた血が黒ずんでいる名札だったが、書かれている文字を読み取ることはできた。
ディジア・ロワンタン――。
「やっぱり……」
「俺が、俺が殺したようなもんだ……俺が……」
そう呟くようにいったあと、フイデースは抱えていた膝に自分の頭を叩きつけはじめた。
「俺が……俺が……殺したのと変わらない……」
「フーディ、そんなに自分を責めないで……。わたしもなにもできなかった……。それでやっぱり自分を責めた。だけど、父さんも母さんも、お婆ちゃんもカールお爺も帰ってこなかった……だからもう責めないで……」
「エイミー」
「やっとわたしの名前を呼んでくれた……」
「……」
「フーディ、わたしまだ生きてる。それに、ここにいる」
「……」
「あなたもまだ生きてる。それに、ここにいる」
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
ようやくエイミーはフイデースに触れることができた。




