#41 ウィル――無と無
コロラド同時多発テロが起こった夜は満月だった。
警察病院のベッドに寝かされ、精神安定剤と睡眠薬を投与されたエイミーは死んだように眠っていた。
だが、時計の針が深夜を過ぎ午前三時を回ったころ、彼女の奥深いところに呼びかける声があった。
ルフトの声だった。
「エイミー、エイミー、そんなに泣かないでいい。そんなに一人で頑張らないでいい。そんなに一人で苦しまなくていい。僕は君をもう守ってあげられないけど、僕以上の適役が君を守るから……それは……」
それに応えたのが彼女の意思だったかどうかはわからない。だが、応えたとしたらそれは意思ではなく意志だったのだろう。
「それは誰なのルフトさん?」
「フルネームはいえるかな?」
「エイミー・ゾイ・オイ。――違うわ! そうじゃないんだってば。どうしてわからないの? 名前を呼んだからって、もうこの穢れは落ちないの。言葉なんて無意味よ。なんならティーポが呼んでたように、パヴリーンて呼んだらどう? あれ? これどこかで誰かにいったけど、シュド先生じゃなかったはず……じゃあ誰?」
「パヴリーン」
「やめてよティーポ、もうそう呼ばないで。わたし混乱するだけなの。ねえ、それよりわたしに話しかけてるのはティーポ、あなたなの? それとも?」
「エイミー……」
「フーディあなたなの? まだわたしの名前を呼ぶの? わたし汚らしい女だよ……。いや、本当はとびっきりの美女なんだけどね。イエス、ノー、さあどっち? どっちだったっけかな?」
「淫らなんかじゃない! 汚らしくもない! なにをいってるんだ……」
「なに怒ってるのフーディ? それより星が綺麗だから見てよ。あっち、あっちだよ。そっちじゃないって。あれ、ここどこ?」
「減りはしません! それに、わたしはパヴリーンのファンであります!」
「減るって、なにが減るの? だってもうわたし失うものなんてないほど失って、いまではなにも無いのよ? ファンだからってどうにもならないの、わかってる? 推し活好きの儀礼警備兵さん。あれれ? 警備兵の数がどんどん増えてる気がするけど、気のせい?」
「早急にというのは、ひとつだけなんだ」
「シュド先生、だったらそのひとつがなにか教えてください。あれ? 急に教えてもらってた気がしてきたけど、なにかの勘違い?」
「光に手を振れ」
「ティーポ無理だよ、光なんてもうどこにも見えないんだもの……。でも、あると思えばあるとはいえるけど、わからない……。でも、縦に触ればいいの? それとも横?」
「おうおう、お二人さん、こんなときにまで喧嘩かい? 二人とも踏ん切りが悪いんだよ。見損なったよ」
「ミーシャ嫌だよ、わたしを置いて行かないで。だって友達でしょ! しかも、わたしたち好敵手なんだから! 性悪女さん! 冗談、嘘、本当?」
「オスの孔雀だな」
「ティーポはいつもそうやって、わたしにわからないことばっかりいってたね。それでわたしを置き去りにした。違うか……わたしが置き去りにしたんだっけ? ねえ、わたしどうすればよかったの?」
「黙って聞け。――俺はその二つをルフト博士に託した。ひとつは羽化したがひとつはしなかった。生まれたのはオスの孔雀だった。博士はその美しさに夢中になった。それでその孔雀からあるもの作った。だけど、それは俺の願っていたものとは違った。俺は博士に頼んだ。もう一個の卵を返してくれと。博士は俺のいうとおりにした。俺は卵を元あった場所に戻した。そのときに顔に傷を負った。たぶんその卵はメスのはずだ。――だが、羽化したオスの孔雀はもとに戻らなかった。それがいつしか世間に知れ渡った。博士は必死にオスの孔雀と、それから作ったものを守ってはくれた。話はそれだけだ」
「それだけなの? ほかにいうことあるでしょ、ティーポ? たとえばお腹へったとか、お尻が痒いとかさ。ほかにも沢山あるでしょ?」
「そうだそうだ! だからあたし絶対に健康な子ども産んでやるって誓ったんだ。――あたし意地悪かもしれないけど、それがあいつへの一番の嫌がらせでもあり、愛情表現だと思ってる」
「やっちゃえやっちゃえ、ミーシャ! 百人くらい産んでさ、虐めちゃえばいいよ、あんな悪魔くん。白い羽が生えた悪魔だったかもだけど?」
「根性だす……」
「本気でいってるの? ミーシャはすぐそれなんだから。でもそうね、三人は産めるんじゃない? 頑張れー! わたしは一人で十分。いや、産めないんじゃない?」
「パヴリーン」
「わからないよ、ティーポわからないってば。なにががオスの孔雀で、誰がメスの孔雀なの? なにがパヴリーンなの?」
「エイミー、もうそんなに泣かないでいい。もうそんなに一人で頑張らないでいい。もうそんなに一人で苦しまなくていい。僕は君をもう守ってあげられないけど、僕以上の適役が君を守るから……それは……」
「ルフトさん、それは誰なの?」
「それは……テライダだ」
「テライダじゃないよ、ワイフィーだよ。あれ? そのこと話してたっけかな?」
「パヴリーン、お前はオスとメスの孔雀だ」
「どうしてティーポはそうやって話に割り込むの……やめてよ。無口で無愛想なくせに、そうやって割り込むのだけは得意なんだから。割るのは飲み会のお代だけでいいの! え、いまから飲み会するの? 聞いてないよ?」
「それじゃあ行くよ。死んでもしらないからね!」
「フーディ、いまはふざけてる場合じゃないの……というかもう死んじゃってるから、死ねないんだってば。知らなかったの? 生き返らせるつもり? まあ、どっちでもいいかな?」
「それは……テライダだ」
「じゃあテライダが孔雀だっていうのね、ルフトさん? テライダはなにもかも失ったかもしれないわたしをまだ守ってるっていうの? そうだ、わたしが頼れるのはもうそれしかないんだろうね。わたしのお嫁ちゃんこそがわたしを守るのね? でも、でもね、テライダは地下壕にいて、しかももう会えないと思う。だって、だって、爆弾が爆発してお母さんもお婆ちゃんも死んじゃったんだもん……無理だよ。もう無理なんだよ……」
「メスは地味だ」
「やめてティーポ! 頭がおかしくなりそうよ! 小さな拘りに大きな身体って不釣りあいだと思うよ。なんだか知らないけどさ、ティーポってクイズ王みたいなとこあるよね。さあ出題してみて! だけど、わたしに回答権、あったっけ?」
「ねえ……その、チクローポさんはどういったんだい?」
「もう、まだわからないのフーディ? わたしちゃんと話したじゃない。それに話しただけじゃなかったよ。まさか、忘れちゃったんじゃないよね? わたし決して忘れないよ。あの灰色の夜のこと。――そんなことより、ディジアはどこよフーディ? ディジアのほうがよっぽど話がわかるからさ……。でもなに話したかったんだっけ?」
「そんなに泣かないでいい。そんなに一人で頑張らないでいい。そんなに一人で苦しまなくていい。僕は君をもう守ってあげられないけど、僕以上の適役が君を守るから……それは……テライダだ」
「……」
不思議なことに、相当量の投薬を受けていたにも関わらず、エイミーはむっくりとベッドに上体を起こすと、ぎらぎらとした狂気に駆られたように瞳を怪しく輝かせながら、首元のリストコムに触れると、囁き声で話しはじめた。
「ワイフィー聞こえる?」
「はい聞こえています」
「あなたを守ってた人たちが死んだの。あなたがよく知っている人たちよ。εと"果樹園"が死んでしまったの。わたしのお婆ちゃんとお母さんよ。わかるでしょ? だから、あなたがいる地下壕にわたしもう会いにいけない。――ねえテライダ、あなたを守る人、ほかに誰かいるの?」
「いません。いるとしたらあなたですが、その様子じゃ無理そうですね」
「そうね、いまのわたしでは無理そう。――でもあなた、どうしてそれがわかるの?」
「声ですワイフィー」
「そっか。――テライダ、ならわたしの指示に従って。いい、よく聞いて。εと"果樹園"、つまりわたしのお婆ちゃんとお母さんの邸から繋がっている地下壕に通じる扉をすべて閉鎖して、誰もあなたに近づけないようにして。それが、わたしにできるあなたを守る唯一のことなの。だけどごめんね。そうすることであなたはいつか動力の燃料が尽きて死んでしまうわ」
「構いませんよ。でも、それまでわたしはワイフィー、あなたを守ります。死と呼ばれるその瞬間が訪れるその刹那まで。――いま、指示されたとおり、地下壕にいるわたしに近づける通路にある隔壁扉はすべて完全にロックを終えました」
「ねえテライダ、わたしと競争だね。どっちが先に死ぬか、どっちが後まで生き残るのか。それとも生でも死でもないまま一緒にいるのか……。それまで、いままでどおり、よろしく頼むわね。――でもテライダ、そういえばあなたにはもうひとり頼りになる存在があったわね。あなたの傍に埋葬されたルフトさんが胸に抱えていた水晶玉。ねえ、あれってあなたの生みの親なんでしょ? わたしよくわからないけど、そうなんじゃないかって。素敵ね、ずっと友達と、いえ、あなたを産んだ存在と一緒にいられるなんて。なにも怖いものなんてないんじゃない? ――だとしたらテライダ、こういうことにならない? あなたはあなたを産んだ水晶玉と一緒にいるなら、あなたが死んでしまっても、いつか水晶玉があなたを生き返らせたり産みなおすんじゃなくって? だったら生と死も夢も現実も変わらなくないかしら? あなたどう思う? わたし、そんなだったらいいなって。あなたに近づく危ない人たちからわたしはあなたを守りたい。だって、ルフトさんは亡骸になっても水晶玉を守ってる。そして、きっとルフトさんの恋人だったシレーヌさんは、悪い人たちからネライダを守ってる。――でも、もうひとつあるんじゃない? 名前のある人工知能が。なんて名前でどこで誰に守られてるのかな? なぜだかわからないけど、そういう気がする。気のせいかもだけどね。――でも、そうしたら水晶玉を守る水晶はどこにあるんだろう? ああそうだ、きっとティーポが隠した水晶がそれなんだろうね。でも、ちゃんと守りあってるのかな? 水晶玉と水晶? わたしにはわからないや。――ごめんねテライダ、わたしとりとめもなく話しちゃった。――とりあえずしたかったのは、あなたを悪用しようとする人たちを、あなたに近づけさせたくなかったの。だから、隔壁扉の話をしたかった。それだけなんだ。――それじゃあね、おやすみ、テライダ。わたしのかわいいお嫁ちゃん」
「よい夢とよい現実を、よい生とよい死を、マイ・スウィート・ワイフィー」
囁きを終えると、異様にぎらぎらしていたエイミーの瞳から光が失われ、彼女はベッドに倒れ込んで、また死んだように眠ってしまった。
満月の夜に起こった怪異とも奇跡ともいいがたく、夢とも現実ともいえぬ出来事だった。
エイミーがヴォロンターリオ事件以降に苦悩し恐怖した、いやそれ以前に遡ればディッキーとリッキーが消息を断ってからの苦悩と恐怖によって、もっとも心身の均衡を失ったこの時期の加療と治療には時間がかかった。それには、一年半を超える期間が必要だった。
彼女はその間、蒙昧とした意識のなかでチクローポが長々と話した内容について、繰り返し考えつづけた。
エイミーがようやく健康を取り戻したのは、《リヴァール号》で地球を発ってから、約一年と九か月後だった。
病状や症状が回復するまで、コロラド警察病院は身寄りを無くして天涯孤独になったエイミーを、篤実に看護した。
その手厚さは、短い期間だったがパヴリーンというニックネームで活動した、ジャーナリスト時代の影響だったのかもしれない。




