#33 メモリー――欠落
エイミーが眠りから覚めて目にしたのは、見たことのない灰色の天井だった。
(またベッドに寝てるのね……)
そう思ってあたりを見回し、上体を起こそうとしたが、すぐに節々の痛みや怠さからか諦めてしまった。それに、意識はいまだ混濁しているようだった。
(ここはどこ?……)
彼女はぼんやりとした頭で記憶を探りはじめた。
《リヴァール号》の気密扉の傍に立つ人影。そこで聞いた邪険になったパンタミーマの声。怒ってはいるが、その奥に深い悲しみを宿した感情。
(ミーシャ……)
突然、恐怖とともに湧き上がってきた光景。爆発の閃光と衝撃波、そして爆風と血肉の雨。
(ヴォロンターリオ……)
心臓に氷の刃を突き立てられるような感覚に慄いて、瞼をきつく閉じたあと、彼女は暗闇に飲み込まれまいと力の限りに目を開いた。
ずっと憧れてきた人が心配そうに見つめてくる瞳。
(リッキー……違うそうじゃない、ディジアよ……)
「それから、誰だっけ?……」
フイデースの生真面目な顔が浮かんでは消え、あられもない卑猥な服装をした自分の姿が見えた。
「仕方なかったのよ……。あんな格好、見せたら嫌われちゃう……」
名前もわからない北軍の高官の怒りに歪んだ顔。
扉の隙間から心配そうにこっちを見ている少年。ニキビのある赤ら顔。
(ティシアー……ティシアー・スタウロス……)
「決して忘れないわ」
囁く声が漏れた。
彼女はもう一人誰かがいたような気がしていたが、どうしても面影が浮かんでこないのだった。
目立たないところで見守っている人影。細切れで無愛想に話す髭のある口元。大きな荷物。がっしりした背中、ふっくらした大きな手は浮かび上がってきたが、顔に影が射して見えないのだった。
エイミーはじっと天井を見つめながら、朦朧とする頭で人影を追いかけた。
そのとき、彼女の意識が回復したことに気づいたのか、軍医を示す肩章をした兵服姿の男が扉を開けて入ってきた。
男はベッドの傍までくると、エイミーの顔の前で掌を振ったあといった。
「まだはっきりしないようだな。検査結果からすると脳に異常はないのだが、なにかショックでも受けたのかもしれんな。――名前は? 名前はいえるかね?」
彼女は灰色の兵服を着た男の顔を見て、自分が南軍の基地にいることに気づいた。
「エイミーです」
「フルネームはいえるかな?」
「エイミー・ゾイ・オイ」
男はそれで安心したようだった。
「嘘はいってないようだな。悪いが身分証を確認させてもらった」
(そうだわたし、北軍の基地で取材して、それで……それで、どうなったんだっけ?……)
エイミーの思考とは関係なく、男はつかつかとベッドから離れて、壁にある内線電話を手に取ってなにか話しはじめた。
そうして、しばらくするとまた扉が開いて兵服を着た男が入ってきた。
「早かったね。早速だが君、この女を知ってるかね?」
「いえ、存じ上げません」
入ってきた男は軍医の質問に簡潔に答えた。
「では、エイミー・ゾイ・オイって名前に心当たりは?」
男はすぐに気づいたようだった。
「それなら知ってます。でも、顔見知りでもなんでもないんです。――つまりこういうことです。自分の友人、フイデースの知りあいでして。それで、ひとつ頼まれ事をされましてね。そのエイミーって人がこの基地を訪れることがあったら、帰りの便として月に向かう高速輸送船に乗せてやってくれと」
軍医は不審顔になって訊いた。
「一体、どういうわけだね。たかが民間人のジャーナリストの女一人に、あの男も、君もわたしも翻弄されてるってのは?」
「さあ……自分はよくわかりませんが、単なる偶然じゃないですか?」
二人の会話を耳にしていたエイミーの胸のなかで、突然想起がつぎつぎに起こった。
必死の形相で「走れ!」と叫んでいる男。抱き抱えられて乗せられた軽装四輪車を運転する、真っ直ぐ前を向いた目。だがその左目を跨ぐように大きな傷がある。ごつごつしてそれでいて頼りがいのある背中。水筒の水を頭から浴びせながら心配そうな顔をする男。「宇宙服」といって手を掴んでなにかを触らせている必死な顔。いまにも泣き出しそうな顔で「着れるか?」と問う声。
だが、ベッドの傍らにいた二人の男は、彼女が衝撃に捉えられたのに気づいていなかった。
「なら、それはそれでいいが、なにか厄介事を背負い込んだ気がしてな。だからほれ、上役に顔の利く君にやって欲しいことがあるんだ。つまり、フイデースからの依頼を実現させることだな。わたしも恐らくこれが最後の任務になるから……。どうかね? できそうかね?」
「それは構いませんが、軍医、本当にここを去るつもりですか?」
「ああ、戦争は懲り懲りなんだ。それさえなければ、ここにいても構わんのだがね。ここは僻地だが居心地はよかった。地球は争い事の中心地みたいなものだからな。――ともあれそういうことで、ひとつよろしく頼むよ」
「わかりました」
「ではわたしは、ひとまずこれで」
そういって軍医が去っていっても、いまだエイミーの突然想起はつづいていた。
腰に添えられたがっしりした腕。繰り返されるジャンプ。噛みあわない会話。天空に見つけた光。金色をしたやけに大きなカップのビキニの水着。そして、悲しそうに瞳を震わせながら服を脱がそうとしている男の顔。
次の瞬間、エイミーは男の顔に落ちていた影を払い除けた。
「ティーポ!」
一人病室に残っていた男は、エイミーがあげたその声に気づき、すぐにベッドに近寄ってきた。
「誰のことだ?」
「ティーポはどこ? どこにいるの !?」
男はそれが誰を指しているのか確かめたかったのか、
「誰のことだ?」
とふたたび訊いた。
エイミーは疲れ切って痛む身体を、無理やりベッドから引き剥がそうとするようにして、起き上がろうとした。
「駄目だ、まだ寝てないと。病気も怪我もしていない。しばらく休めば元通りになれるから」
「そんなことどうだっていいの! ティーポはどこよ! まさか、わたしを置いて、どこかに行ってしまったんじゃないでしょうね !?」
「その、まさかだと思うけど……僕にはよくわからないんだ……」
男はそれだけいった。
「どうして、どうしてよ! ミーシャも捨ててわたしも捨てたの? どうしてそんなことができるの !? 信じられない!」
「落ち着いて、落ち着いて!」
「あなたは誰?」
「僕はコルデだ。フイデースの友人だ」
それを聞いたからか、エイミーは大人しくなった。
しかし、それはほんの僅かな間だけだった。
北軍への取材から怒涛のように思い出された記憶が、彼女に襲いかかっていたのだった。
いま伝えないと、大変なことになるという切迫感に捕らえられたのか、エイミーは北軍がエウロパでの作戦を早めたこと。あるいはまた、北軍の作戦規模や参加予定艦隊や作戦内容を、滔々と話しはじめた。
聞いていたコルデの顔色が青褪めていくのがわかった。
「すまない。ちょっと落ち着いていてくれないか。いまの話が本当なら大変なことになる。だから、僕はそれを上層部に伝えるから、すこし落ち着いてくれないか?」
「わかったわ」
そういってエイミーは素直にベッドと枕に身を預けた。
コルデはすぐに立ち上がって内線電話に駆け寄ると、エイミーから聞いた情報を上層部にあまさず伝えた。
しかし、彼はそこでひとつの取引を申し出た。
エイミーを重要保護人物に指定し、月へと向かう高速輸送船に乗せる約束を取り付けたのだった。
電話を済ませたコルデが彼女の傍へ戻ると、エイミーが訊いた。
「あなたの名前もう一度教えてくれる?」
「コルデだ」
「そう……コルデ、コルデさんね……憶えておくわ」
「それってそんなに重要なことなのか?」
「ええ、重要よ、とても重要なの」
そういってエイミーは涙を流しはじめた。
「すみません、そっとしておいてください」
「わかった。じゃあ失礼するよ」
コルデが去ったあと、エイミーは泣きながら天井を見つめていた。
(重要なのよ。でも、わたしその重要なことさえ知らなかったのよ。ティーポ、わたしあなたの本当の名前まだ知らなかったんだよ……。それにティーポはいつもわたしのことをパヴリーンって呼んだ。エイミーって呼んでくれた試しあった? 思い出せない……。わたしたちなんだったの? 一体どういう関係だったの? どうして行っちゃったの……出会わなかったほうがよかったのかもしれない……)
しかし、エイミーは心の奥底で感じていた。
誰でもない誰かと誰でもない誰かが繋がりあってこそ、パヴリーンはパヴリーンとして生きるのだと。
いまだ彼女はそのことを言葉にすることができなかった。
どこに繋がっているのかもわからない、灰色の天井を見つめながら涙を流すことしかできなかった。
そのとき、涙に誘われたのか、繋がっていなかった最後の記憶のピースが嵌った。
チクローポが携帯電話を見せて、「行け」といって緊張している顔だった。
(ティーポ……違う、あなたのせいじゃない。あなたはいつも誰の意思であれ確認していた。必ず確かめていた。場合によっては何度も。それに、強い口調でいったときには、命を落としかねない危険があった。だから警告してただけ……。あのたった一回のことでそんなに責任を感じる必要なんてない……。そんなこといったら、わたしなんてどれだけ人にああしろ、こうしろっていってきたか……それで、どれだけ人を傷つけてきたことになるの?……。違う、ティーポのせいなんかじゃないよ……)




