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無から無へ  作者: イプシロン
Ⅳ 遊撃戦
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31/55

#31 エスケープ――宇宙へ

 二時間ほど歩いたころ、エイミーとチクローポの距離はしだいに開いて、いまでは五十メートル以上は離れていた。

 その隔たりを気にしたのかチクローポが振り返り、なにか異変を感じ取ったのか彼はエイミーの元へと急いで引き返しはじめた。

 彼女のところまでくると、彼は早口でいった。

「北の追手だ」

「でもティーポ、わたしあなたみたいに歩けない……」

 息絶え絶えなのを見て取ったのか、チクローポは彼女のトランクを引ったくると、エイミーに背中を向けて腰をかがめた。

「早くしろ」

 遠くから迫りくる、何台もの軽装四輪車や装甲自動車の音が聞こえていた。

 スパイ容疑がかかった二人を見つけ出して射殺せんと、幾つものサーチライトが、ガニメデの地表を不気味に舐め回しているのが見えた。

 エイミーは倒れ込むようにして、チクローポの背に身を預けた。

 彼はすぐに立ち上がると、両手に荷物をもって駆け出した。

「ねえティーポ、わたしもう死ぬのは怖くないよ。そんなに無理しないで。あなただけなら逃げ切れるでしょ……」

 チクローポはなにも応えなかったが、息も切らさずにエイミーをおぶって走りつづけた。

 三十分も経ったころ彼は足を緩めた。眼前に半透明をした密閉ドームの壁が見えていた。

 チクローポは後ろを警戒しながらも、星空をあちこち眺めて天測してからまた走りだした。

 彼の背中にしがみついていたエイミーは、走る度にごつごつと当たる互いの身体の感覚がなければ、眠ってしまいそうなほど衰弱していた。

「ティーポ、星が綺麗……木星も見える……」

「指差せ」

 エイミーはいわれたとおりに右手で木星のある方向を指し示した。

「つづけろ」

 チクローポはその指先を見ては方角を修正し走る速度をあげた。

 北軍の追跡隊はまだ諦めていないようで、あらゆる方向を探して走り回っているようだった。

 ようやく密閉ドームの壁に辿りついたチクローポは、ゆっくりとエイミーをガニメデの大地に降ろした。

「ここどこ?……天国じゃないみたいね……だってそんな資格ないもの……」

「しっかりしろ」

 エイミーの目はチクローポが思っていた以上に虚ろだった。

 与圧されたドーム内とはいえ、地球より薄い酸素濃度での運動がよほど堪えたらしかった。

 彼は腰に下げた水筒を手に取ると彼女にすこしだけ水を飲ませ、残りを頭から振りかけた。

「冷たい! 冷たいよティーポ……」

 数瞬、正気に戻ったようだったが、エイミーはまたすぐ虚ろな目に戻ってしまった。

 チクローポは仕方なさそうに立ち上がると、ドームの壁に備え付けられた緊急用具入れへと足を向け、そこから宇宙服を取り出し、パンタミーマから受けとった箱を持って戻ってきた。

「パヴリーン」

「なあに……」

「宇宙服だ」

「そうなの?」

「着れるか?」

 そういってチクローポはエイミーの手を取って、パンタミーマから受けとった宇宙服に触れさせた。

 しかしエイミーはいまにも気を失いそうだった。

「しっかりしろ」

 チクローポは彼女の頬を軽く叩いた。

「着れるか?」

「着れない……」

 エイミーの弱々しい囁き声を耳にしたチクローポは、悲しそうに溜息をついたあと、意を決した顔をして彼女に近づいた。

「パヴリーン、すまない」

 チクローポはエイミーの服に手をかけ、それを引き剥がしにかかった。

「いや !! やめて !!」

 ガニメデに着いてから何度も想像してきた恐怖の光景が、エイミーの脳裏に閃いた。

 それでようやく正気に戻りかけたのか、彼女は目の前にいるのがチクローポだと気づいたようだった。

「ティーポ!」

「宇宙服、着れるか?」

「無理だと思う……身体に力が入らない……服を脱がしてくれないと……」

「わかった、すまない」

 そのとき、エイミーにはもはや羞恥心など残っていなかった。

 何度も想像した恐怖に、一瞬だけ戦慄を覚えはしたが、相手がチクローポと知って身を任せたのだった。

 彼女に宇宙服を着せ終わったあと、彼も緊急用具入れから出してきた宇宙服を着用した。

 パンタミーマから受けとった箱の底には、金色をした上下のビキニ水着が残っていた。

「これは?」

「水着だね」

「いるのか?」

「どうなんだろ? ミーシャは目印っていってた……」

「わかった」

 チクローポは水着を手にとって自分の宇宙服にある雑嚢にしまった。

 それから透明ドームの壁にある気密扉を開けると、エイミーのトランクを手にして彼女を支えながらドームの壁の向こうへと足を進めた。

 チクローポは気密室に入ると、そこでいったんエイミーを床に座らせて、通ってきた気密扉を閉めてロックし、空気を排出しはじめた。

 両側の気密扉にある緑色のランプが赤になると、チクローポはもう一方の扉を開いて、ふたたびエイミーを支えながら宇宙空間に足を踏み出した。

 それから、ドームの壁を背もたれにしてエイミーを座らせると、宇宙服にある超短距離無線を作動させ、さらに酸素供給装置のノブを濃い目に調整した。

「パヴリーン聞こえるか?」

 その呼びかけがあまりにも耳に近いところで聞こえたせいか、あるいは衰弱にあわせて供給された酸素を吸ったせいか、エイミーは正気に戻った。

「聞こえるよ、ティーポ。ここは宇宙?」

 エイミーは辺りを見回しこれが本物の宇宙なんだとばかりに、ぽかんとした顔をしていた。

「ガニメデだ」

「それでどうするの?」

「また歩く」

「どれくらい?」

「さあな」

 それを聞くと、彼女はこれまでの辛い逃避行を思い出したのか、嫌そうにいった。

「ねえ、それで本当に助かるの?」

「じき酸素が切れる」

「じゃあ急がないとじゃない……」

 エイミーはまたすこし恐怖を感じたのか身体をぴくりとさせて、凭れていたドームから背中を剥がした。

「前より楽だ」

「どうして?」

「0.14Gだからだ」

 ようやくそれで納得したのか、彼女は僅かに平静を取り戻した。

「パヴリーン、立てるか?」

「うん」

「ジャンプする」

「……」

 チクローポは彼女の腰を掴むとジャンプした。

「遊園地みたい」

「そうか」

 それから、ジャンプを繰り返してチクローポが目星をつけた場所に向かった。

「どこいくの?」

「南の基地だ」

「ずっとこれで?」

「違う」

「ふーん」

 エイミーは繰り返えされるジャンプのなかで、はじめて体験した真空の宇宙を眺めて、思うがままに質問した。

 チクローポはいちいちそれに答えて、彼女の状態を気にかけながら、酸素の供給量を逐次調整していた。薄すぎても濃すぎても危険だったからだ。

 だが、酸素の調整だけではどうにもならず、エイミーの意識は朦朧としたままだったが、なんとか会話はできていた。

「パンタミーマ」

「ミーシャがどうしたの? ティーポの奥さんでしょ。それに、もうすぐ子ども産むよ」

「目印は?」

「目印ってなに? 赤ちゃんが生まれる目印なんて聞いたことないよ?」

「船の名前は?」

「顔見知りは信用できるっていってた。わたしもそう思う」

「そうか」

 チクローポはそれで見当をつけたのか、ジャンプする方角を変えた。

 しかし、確証を掴みたいのか、重ねてエイミーに訊いた。

「船の名前は?」

「わたしが乗ってきたのは《リヴァール号》っていう、オンボロ船だよ。ティーポも一緒だったじゃない。それにミーシャもいたし、ディジアもいたよ。みんなのとこに帰りたいな……」

「そうか」

「帰りたくないの? ティーポは?」

「いずれな」

「あ! いまなんか光った!」

「どこだ?」

 エイミーは目をきらきら輝かしながら、その方角を指さした。

 チクローポがそこに視線を注いでも、それらしき光を見つけられなかったが、彼はそれを信じてまたジャンプする方角を変えた。

「船の名前は?」

「なんども訊かないでよ。さっきもいったよ。《リヴァール号》だよ。――あのね、あの船は変な機関なんだよ。ティーポ、知ってた?」

「ピラフか?」

「違うよ《ピラータ》だよ。オンボロ船どころかガラクタだって、ミーシャがいってた」

「そうか」

 それでようやく確信したのか、チクローポはある一点へ向かいはじめた。

 そして、目当ての場所と思える場所でジャンプをやめた。

「もう終わり? でも身体がふわふわしてる」

「吐きそうか?」

「平気だよ、これくらい。宇宙機構でも椅子に座ってくるくるしたもん」

 チクローポはそこに立ったまま辺りを見回し、身を隠せる岩を見つけると、そこにエイミーを座らせた。

 それから、彼もそこで片膝立ちになって、星空を見上げながらなにかを待っていた。

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