#31 エスケープ――宇宙へ
二時間ほど歩いたころ、エイミーとチクローポの距離はしだいに開いて、いまでは五十メートル以上は離れていた。
その隔たりを気にしたのかチクローポが振り返り、なにか異変を感じ取ったのか彼はエイミーの元へと急いで引き返しはじめた。
彼女のところまでくると、彼は早口でいった。
「北の追手だ」
「でもティーポ、わたしあなたみたいに歩けない……」
息絶え絶えなのを見て取ったのか、チクローポは彼女のトランクを引ったくると、エイミーに背中を向けて腰をかがめた。
「早くしろ」
遠くから迫りくる、何台もの軽装四輪車や装甲自動車の音が聞こえていた。
スパイ容疑がかかった二人を見つけ出して射殺せんと、幾つものサーチライトが、ガニメデの地表を不気味に舐め回しているのが見えた。
エイミーは倒れ込むようにして、チクローポの背に身を預けた。
彼はすぐに立ち上がると、両手に荷物をもって駆け出した。
「ねえティーポ、わたしもう死ぬのは怖くないよ。そんなに無理しないで。あなただけなら逃げ切れるでしょ……」
チクローポはなにも応えなかったが、息も切らさずにエイミーをおぶって走りつづけた。
三十分も経ったころ彼は足を緩めた。眼前に半透明をした密閉ドームの壁が見えていた。
チクローポは後ろを警戒しながらも、星空をあちこち眺めて天測してからまた走りだした。
彼の背中にしがみついていたエイミーは、走る度にごつごつと当たる互いの身体の感覚がなければ、眠ってしまいそうなほど衰弱していた。
「ティーポ、星が綺麗……木星も見える……」
「指差せ」
エイミーはいわれたとおりに右手で木星のある方向を指し示した。
「つづけろ」
チクローポはその指先を見ては方角を修正し走る速度をあげた。
北軍の追跡隊はまだ諦めていないようで、あらゆる方向を探して走り回っているようだった。
ようやく密閉ドームの壁に辿りついたチクローポは、ゆっくりとエイミーをガニメデの大地に降ろした。
「ここどこ?……天国じゃないみたいね……だってそんな資格ないもの……」
「しっかりしろ」
エイミーの目はチクローポが思っていた以上に虚ろだった。
与圧されたドーム内とはいえ、地球より薄い酸素濃度での運動がよほど堪えたらしかった。
彼は腰に下げた水筒を手に取ると彼女にすこしだけ水を飲ませ、残りを頭から振りかけた。
「冷たい! 冷たいよティーポ……」
数瞬、正気に戻ったようだったが、エイミーはまたすぐ虚ろな目に戻ってしまった。
チクローポは仕方なさそうに立ち上がると、ドームの壁に備え付けられた緊急用具入れへと足を向け、そこから宇宙服を取り出し、パンタミーマから受けとった箱を持って戻ってきた。
「パヴリーン」
「なあに……」
「宇宙服だ」
「そうなの?」
「着れるか?」
そういってチクローポはエイミーの手を取って、パンタミーマから受けとった宇宙服に触れさせた。
しかしエイミーはいまにも気を失いそうだった。
「しっかりしろ」
チクローポは彼女の頬を軽く叩いた。
「着れるか?」
「着れない……」
エイミーの弱々しい囁き声を耳にしたチクローポは、悲しそうに溜息をついたあと、意を決した顔をして彼女に近づいた。
「パヴリーン、すまない」
チクローポはエイミーの服に手をかけ、それを引き剥がしにかかった。
「いや !! やめて !!」
ガニメデに着いてから何度も想像してきた恐怖の光景が、エイミーの脳裏に閃いた。
それでようやく正気に戻りかけたのか、彼女は目の前にいるのがチクローポだと気づいたようだった。
「ティーポ!」
「宇宙服、着れるか?」
「無理だと思う……身体に力が入らない……服を脱がしてくれないと……」
「わかった、すまない」
そのとき、エイミーにはもはや羞恥心など残っていなかった。
何度も想像した恐怖に、一瞬だけ戦慄を覚えはしたが、相手がチクローポと知って身を任せたのだった。
彼女に宇宙服を着せ終わったあと、彼も緊急用具入れから出してきた宇宙服を着用した。
パンタミーマから受けとった箱の底には、金色をした上下のビキニ水着が残っていた。
「これは?」
「水着だね」
「いるのか?」
「どうなんだろ? ミーシャは目印っていってた……」
「わかった」
チクローポは水着を手にとって自分の宇宙服にある雑嚢にしまった。
それから透明ドームの壁にある気密扉を開けると、エイミーのトランクを手にして彼女を支えながらドームの壁の向こうへと足を進めた。
チクローポは気密室に入ると、そこでいったんエイミーを床に座らせて、通ってきた気密扉を閉めてロックし、空気を排出しはじめた。
両側の気密扉にある緑色のランプが赤になると、チクローポはもう一方の扉を開いて、ふたたびエイミーを支えながら宇宙空間に足を踏み出した。
それから、ドームの壁を背もたれにしてエイミーを座らせると、宇宙服にある超短距離無線を作動させ、さらに酸素供給装置のノブを濃い目に調整した。
「パヴリーン聞こえるか?」
その呼びかけがあまりにも耳に近いところで聞こえたせいか、あるいは衰弱にあわせて供給された酸素を吸ったせいか、エイミーは正気に戻った。
「聞こえるよ、ティーポ。ここは宇宙?」
エイミーは辺りを見回しこれが本物の宇宙なんだとばかりに、ぽかんとした顔をしていた。
「ガニメデだ」
「それでどうするの?」
「また歩く」
「どれくらい?」
「さあな」
それを聞くと、彼女はこれまでの辛い逃避行を思い出したのか、嫌そうにいった。
「ねえ、それで本当に助かるの?」
「じき酸素が切れる」
「じゃあ急がないとじゃない……」
エイミーはまたすこし恐怖を感じたのか身体をぴくりとさせて、凭れていたドームから背中を剥がした。
「前より楽だ」
「どうして?」
「0.14Gだからだ」
ようやくそれで納得したのか、彼女は僅かに平静を取り戻した。
「パヴリーン、立てるか?」
「うん」
「ジャンプする」
「……」
チクローポは彼女の腰を掴むとジャンプした。
「遊園地みたい」
「そうか」
それから、ジャンプを繰り返してチクローポが目星をつけた場所に向かった。
「どこいくの?」
「南の基地だ」
「ずっとこれで?」
「違う」
「ふーん」
エイミーは繰り返えされるジャンプのなかで、はじめて体験した真空の宇宙を眺めて、思うがままに質問した。
チクローポはいちいちそれに答えて、彼女の状態を気にかけながら、酸素の供給量を逐次調整していた。薄すぎても濃すぎても危険だったからだ。
だが、酸素の調整だけではどうにもならず、エイミーの意識は朦朧としたままだったが、なんとか会話はできていた。
「パンタミーマ」
「ミーシャがどうしたの? ティーポの奥さんでしょ。それに、もうすぐ子ども産むよ」
「目印は?」
「目印ってなに? 赤ちゃんが生まれる目印なんて聞いたことないよ?」
「船の名前は?」
「顔見知りは信用できるっていってた。わたしもそう思う」
「そうか」
チクローポはそれで見当をつけたのか、ジャンプする方角を変えた。
しかし、確証を掴みたいのか、重ねてエイミーに訊いた。
「船の名前は?」
「わたしが乗ってきたのは《リヴァール号》っていう、オンボロ船だよ。ティーポも一緒だったじゃない。それにミーシャもいたし、ディジアもいたよ。みんなのとこに帰りたいな……」
「そうか」
「帰りたくないの? ティーポは?」
「いずれな」
「あ! いまなんか光った!」
「どこだ?」
エイミーは目をきらきら輝かしながら、その方角を指さした。
チクローポがそこに視線を注いでも、それらしき光を見つけられなかったが、彼はそれを信じてまたジャンプする方角を変えた。
「船の名前は?」
「なんども訊かないでよ。さっきもいったよ。《リヴァール号》だよ。――あのね、あの船は変な機関なんだよ。ティーポ、知ってた?」
「ピラフか?」
「違うよ《ピラータ》だよ。オンボロ船どころかガラクタだって、ミーシャがいってた」
「そうか」
それでようやく確信したのか、チクローポはある一点へ向かいはじめた。
そして、目当ての場所と思える場所でジャンプをやめた。
「もう終わり? でも身体がふわふわしてる」
「吐きそうか?」
「平気だよ、これくらい。宇宙機構でも椅子に座ってくるくるしたもん」
チクローポはそこに立ったまま辺りを見回し、身を隠せる岩を見つけると、そこにエイミーを座らせた。
それから、彼もそこで片膝立ちになって、星空を見上げながらなにかを待っていた。




