#24 アニマル――生物
そのとき、エイミー・ゾイ・オイというひとつ人格の中で、エイミーの部分はほとんど死んでいた。
残ったゾイ・オイ、すなわち家族との絆も、いま集中治療室のベッドに横たわる彼女からは断ち切られていた。
祖母エポラール、父サム、そして母エラステーらは地球にあって、彼女から二億五千万キロの彼方にあった。
仮に彼女が地球の家族と電話で話すとなると、
「おはよう」といい「おはよう」が返ってくるまでには、約二十八分を必要とする。
「ちょっと出かけてくる」といってから「うんわかった」と相槌がうたれるまで、これもまた約二十八分かかることになる。
数センチのアクリルガラスを通して、その彼女を見つめながら、
ドクター・パンチャはいった。
「意識は一応戻ったがね、微睡んでるだけじゃ。――いまが一番急性ストレス反応の酷い時期じゃから、できる限り刺激を与えないでそっと見守るしかない」
「それでその後は」
パンタミーマが訊いた。
「そのまま反応が治まらないこともある。緩和していく場合もある。だがそうじゃとしても、その期間は儂らには測れない。――彼女しだいじゃ……」
ぽつりと付け足されたひとことは、それまでに積み重ねられたドクター・パンチャの臨床経験からの言葉だった。
「ねえ、なにかできることはないのかい?」
パンタミーマの声には、たった数センチのアクリルガラスが、二人を永遠に隔ててしまったかのような嘆きがあった。
「でも、なにかできることがあるはずだろ? 違うのかい?」
ドクター・パンチャは静かに首を振った。
「あの死んでしまった男な。ディジアがこの船に乗ったその日から、毎晩、一日も欠かさず看護についたんじゃ。彼はそれ以前にストレス反応は乗り越えてたんじゃが、障害が残っててな、それでああなった……。そういう面もある……」
「よしてくれよ、あの男の話は! 噂になってるの知ってんだろ? 怨霊がどうのって話……。だから聞きたくないんだ……」
パンタミーマはそういいながら、アクリルガラスを突き破らんばかりに、目を閉じて横たわっているエイミーを見つめていた。
「すまない……そういうつもりじゃなかったんじゃが……」
そういったあと、ドクター・パンチャは様子を見るために、エイミーに視線を向けた。
すると、彼女はゆっくりと瞼を開いたあと、二人のいるほうに首を回しはじめた。
「目が覚めたようじゃ。刺激せんほうがいい。さあ、もういこう」
「エイミー……」
名残り惜しそうに彼女の名前を呼んだパンタミーマの吐息が、アクリルガラスを曇らせていた。
「さあさ、早く……」
「……」
そのエイミーの――というより彼女の症状はこうだった。
目を覚ましていても、瞬きひとつせず一点を見つめつづけていたり、そうかと思えばやたらに瞬きをしたかと思えば、目を大きく見開いて落ち着かない表情で、視線をあちらへこちらへと彷徨わせる。あるいはまた、驚きと恐れからだろうか、視点も定まらぬまま瞳をぶるぶると震えさせたりしていた。
かと思えば、なにが気になるのか、布団にある小さな染みや汚れをずっと指でなぞりつづけたり、自分の身体の部位や寝間着のボタンを、ずっと観察したりいじりつづけたりした。そうしてまた、言葉にならぬ声で壁に向かって話しかけたり、いもしない声の主を探し求めて、じっと耳を傾けたり目で居場所を確かめようとしたり、といった奇行を見せていた。
彼女の視線に捉えらるない場所からそれを見たパンタミーマは、自分の目を疑った。
そして、胸の底に黒い焦げ痕のような自責の念が広がっていった。
昼間は相変わらず、病人仲間や看護師に向かって軽口を叩いていたが、船内時間の夜になって明かりが消えると、パンタミーマは一人ベッドで苦悩しはじめた。
(あたしは順調に回復してて、後遺症の心配なんて爪の先ほどもないってのに、エイミーは……。ティーポも思った以上に傷の回復が早いって聞いてるけど、なんだか素直に喜べない。でも、それもおかしい。――ドクター・パンチャから口止めされてるけど、ディジアは片耳の聴力を失ったっていうし……。どうしてこうなんだ。どうしてみんなで幸せになれないんだ。――あのときもそうだった。あたしの身体は勝手に動いちまった。そんで、ティーポのところに駆けてった。でも、別にあいつだけが大切ってわけじゃなかったんだ。みんな大切なんだ。けどさ……あたしの身体はひとつしかないし、いけるとこは一箇所なんだから、どうしようもないじゃないか……でもさ……)
パンタミーマの深夜の苦悩を嗅ぎつけたのか、ドクター・パンチャは導眠剤を処方した。
彼女はそれを素直に受け入れて、眠れぬ夜の時間をすくなくするように努力した。
眠れないからといって、定量以上に薬を飲むこともなかった。
こうしたことが、一週間もつづいたころ、エイミーの急性ストレス反応に緩和の兆しが見えはじめた。
とはいっても、それは微かなものであり、予断を許せなかったことに変わりはなかった。
奇行のなかにあったわずかな光は意外といえば、意外なものだった。
それは、ドクター・パンチャが確証など毛頭ないまま、すこしずつすこしずつ試した、あらゆる治療法のひとつだった。
彼女が興味を抱きはじめたのは、立体音像動物図鑑だった。
半日、ときには一日中にわたって彼女はそれを眺めている間、比較的落ち着いていたのだった。
犬や猫からはじまり、牛、馬、羊、鳥、そして珍しい種や、既に絶滅した動物たちを、彼女は飽かずに眺めつづけた。
その光景は異様であった。
気に入った動物を見つけた彼女は、まるでその動物そのものになろうとするかのように、鳴き声はもちろん、さかんに動作の真似をした。
言語に障害が残っていたからだろうか、動物の名前を認識できなかったからかもしれない。
その奇怪な行動を見たパンタミーマは、あまりにも以前と異なるエイミーの姿にショックを受け、一度はその場を逃げ出してしまったことさえあった。
あるときには、症状が落ち着いているということで、治療室への入室を許可されたパンタミーマは、動物になりきった彼女に襲われ、擦り傷と打撲を負ったこともあった。
「大丈夫、大丈夫。子どものころの喧嘩なんて、血まみれになったもんだ」
といって顔では笑っていたが、胸の奥でパンタミーマは泣き崩れていた。
ようやく傷の回復に目処がついたチクローポも、隠れるようにして治療室を訪れたが、しばらく様子を窺っただけで、近寄ることも話しかけることもなかった。
それからしばらくして、彼女は猿に興味をみせはじめた。
ウーウー、キーキーと叫んだり、ホーホーと群れで鳴く猿に合わせて声をあげるエイミーの姿を見たパンタミーマは、胸の底の焦げた部分に穴が空いてしまったような痛みに呻いた。
しかし、言語の障害もだいぶ緩和してきたのか、すこしずつ会話ができるようにもなっていた。
そしてあるとき、彼女は自分がヒトであることを認識しはじめた。
しかし、そこで大きな壁にぶつかってしまった。
「あなたは誰ですか?」
という質問ができなかったからだった。
なぜなら、爆死したヴォロンターリオが最期に絶叫した言葉こそ、彼女が自分を認識するための言葉だったのだから。
その名前は、即座に彼女のなかに居座っている、恐怖の悪魔を呼び出すことだったからだ。
「名前なんて、ただの記号だと思ってた。でも違うんだな。まさかこんなことを考える日がくるなんて、1インチだって思ってもみなかった」
という嘆息を漏らしたのはパンタミーマだった。
火星の衛星ダイモスから遠ざかって、二週間が過ぎたころの出来事だった。
行く手には、太陽光を受けて輝く小惑星ベスタが放つ、小さな篝火が見えはじめていた。




