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無から無へ  作者: イプシロン
Ⅱ 開戦
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15/55

#15 エントラスト――弱音

 《リヴァール号》の望遠展望室でチクローポと交わした会話のせいか、エイミーは不安に駆られていた。

 前に進めば、恐怖(ダイモス)狼狽(フォボス)という二つの衛星を麾下にする軍神、アレースを象徴する火星がある。

 後ろからは、謎の宇宙船が迫ってきている噂。

 そしてチクローポは、エイミーに後ろを見るなといった。

(どちらを向いても怖れと恐れがある。だったら、せめて後ろは振り向かずにいろ……。それとも、未知のものを恐れるなってこと?……)

 彼はそういいたかったのだろうか? とエイミーは一人自分の客室で思い悩んだ。しかし、なにもせずにいることもまた、不安を募らせるのだった。

「こういうとき頼れるのは……」

 そう呟くと、うろうろと部屋を歩き回るのをやめ、肘掛け椅子にどっかりと腰を下ろし、首元にあるリストコムに手を触れた。

「ワイフィー、また調べて欲しいことがあるの。でも多分無駄だと思うけど……」

「なんでございましょうか? ワイフィー」

 奇妙で滑稽なやり取りをしたあと、頭のなかで調査するために纏めあげた項目を、エイミーは長々と囁き声にしはじめた。

 《リヴァール号》の設計開始から現在に至るまでの状況、未知ともいえる特殊な機関の形式について。望遠双眼鏡でちらりと目にした謎の宇宙船について。地球を発ってから出会った気になる人々の身辺の洗い出し。

 そして、得体の知れない自称カメラマンのチクローポについて。

 言葉にしてみるとかなりの量だった。

(あたし、本当に知らないことだらけね……)

 エイミーは茫然としながらも、積み重なった不安をワイフィーと共有できたことで、ほんのすこし気が晴れたようだった。

「でも、ティーポのことは多分、絶望的ね……。本名すらわからないし、ミーシャ以上になにも知らないんだもの……」

 彼女にとって、当面の大きな関心は、チクローポについてといえたが、そうなるとまたあの会話が蘇り、不安がぶりかえしてくるのだった。

「ああ、もういや!」

 エイミーは思わず両手に顔を埋めて声をあげた。

「誰かと話したい……」

 くぐもった声が漏れつづける。

「お婆ちゃんは遠くにいて無理。カールお爺は寓意のコメントもくれない。ディッキーもリッキーもどこかに行っちゃった。わたし誰を頼ればいいの……」

 それまで出会った人々の面影を思い出しては消去しつづけ、いまにも泣き出しそうになったとき、見慣れた顔がはっきりと脳裏に浮びあがってきた。

「ミーシャ、助けて……」

 そう声に出してみながら、エイミーは指先にコツコツと当たる感触に誘われるように、左耳で揺れていた緑色のLEDを改造したピアスに触れた。

「わたし、結局、誰かに守られてる……。でも、仕方ないじゃない。だってわたし神でもなんでもないもん……」

 そう呟くと、エイミーは立ち上がって部屋を出て、船内のギャレーをひとつひとつ見て回った。

「いた!」

「おう……でも、もう驚かない……」

 それは、パンタミーマらしくない返答だった。

「ねえ、そんなとこでしゃがんで、掃除でもしてるの?」

「見てわからない? 具合が悪いの」

 エイミーはつかつかと近づきながら、だらりと投げ出された彼女の腕に、赤い発疹があるのに気づいた。

「水疱瘡? だとしたら……」

 エイミーの手が素早く動いてパンタミーマの額に触れた。

「熱はないみたい」

「水疱瘡は子どもの頃にやった。だから違う。――あたしアレルギーがあるから、多分それ。あの臭い作業服着ると、だいたいこうなる」

「わかってるなら、無理して着なきゃいいのに」

「……」

 エイミーはパンタミーマが自分を機関室に案内するために、それを着たことに思い当たった。

「わたしのために着たんでしょ?」

「馬鹿いうな。規則だって説明したろ。それに、いつもの蕁麻疹だよ。痒くてしょうがないけどな」

 そう言い返しはしたものの、彼女の口ぶりには普段の快活さがほとんどなかった。

「薬は飲んだの?」

「うん。だからこうなの。眠くて怠い」

 パンタミーマはそういいながら、力尽きたのか床にべったりと座り込んでしまった。

 エイミーの脳裏に、リッキーが地下施設の部屋を歩きながら、婦人科検診に向かう光景が突然想起(フラッシュバック)した。

「ねえミーシャ、もしかすると大変な病気かもしれない。この船、医療設備もあるし、先生もいるんだから、ちゃんと診てもらったほうがいいよ。あたし付き添ってもいいよ」

「大袈裟。だからさ……」

「蕁麻疹じゃないと思う。――ねえ立てる? 無理そうなら人を呼んでくるけど」

「それだけは止めろ!」

 予想だにしないパンタミーマの強い口調に、エイミーはぴくりと身体を緊張させた。

「ミーシャ……」

「気持ち悪い……」

 一瞬、それがなにを指しているのか、エイミーにはわからなかったが、パンタミーマの青ざめた顔から吐き気だと察知した。

「吐きそう? 大丈夫?」

「さっきから、何度かゲーゲーしてるけど、なんも出ない……」

 エイミーはすっくと立ち上がってシンクを眺め回し、そこに吐き出された唾液の痕を見つけ、どう説得しようかと思案しながら、ふたたびしゃがみ込んだ。

「ねえミーシャ、先生に診てもらおうよ」

「やだ、あいつ藪医者」

「だったらさ……」

 そう呟いたとき、エイミーの脳裏に、ある人物の顔が浮かびあがっていた。

「わたしがこの船で出会った先生ならいい? その人、DNAとか免疫の権威なの。人柄も悪くないよ。うんと……例えばミーシャが触れて欲しくない部分とか、絶対に口外しない人だよ。それならどう? ――ダイモスで発見された、謎の宇宙船と異星人らしき遺体の調査隊に合流するっていってた。だから、信用できると思うけど……。それに、宇宙機構とは無縁の人だよ……」

「エイミー……あたし、ここんとこ働き過ぎたみたい。――だから、藪医者もしばらく休んでいいというかも……。駄目だこれ、まじでやばい……。ごめん、医務室に連れてって」

「謝らないでいいよ、ミーシャ。でも、立てるの?」

「根性だす……」

 といって履いていたヒール脱ぎ捨てると、足の指をむにゅむにゅと動かした。

 その言い回しと仕草に笑いが零れるのを我慢しながら、エイミーはパンタミーマを支えながら、ゆっくりと医務室へ向った。

 緩慢な足取りで通路を歩く二人を、通行人らが珍しいものを見る目でじろじろと眺めたが、エイミーはまったく気にしなかった。

 パンタミーマもまた、そんなことは眼中になく、身体を預けて擦れ合うエイミーの感触に、安心しきったような顔をしていた。

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