#15 エントラスト――弱音
《リヴァール号》の望遠展望室でチクローポと交わした会話のせいか、エイミーは不安に駆られていた。
前に進めば、恐怖と狼狽という二つの衛星を麾下にする軍神、アレースを象徴する火星がある。
後ろからは、謎の宇宙船が迫ってきている噂。
そしてチクローポは、エイミーに後ろを見るなといった。
(どちらを向いても怖れと恐れがある。だったら、せめて後ろは振り向かずにいろ……。それとも、未知のものを恐れるなってこと?……)
彼はそういいたかったのだろうか? とエイミーは一人自分の客室で思い悩んだ。しかし、なにもせずにいることもまた、不安を募らせるのだった。
「こういうとき頼れるのは……」
そう呟くと、うろうろと部屋を歩き回るのをやめ、肘掛け椅子にどっかりと腰を下ろし、首元にあるリストコムに手を触れた。
「ワイフィー、また調べて欲しいことがあるの。でも多分無駄だと思うけど……」
「なんでございましょうか? ワイフィー」
奇妙で滑稽なやり取りをしたあと、頭のなかで調査するために纏めあげた項目を、エイミーは長々と囁き声にしはじめた。
《リヴァール号》の設計開始から現在に至るまでの状況、未知ともいえる特殊な機関の形式について。望遠双眼鏡でちらりと目にした謎の宇宙船について。地球を発ってから出会った気になる人々の身辺の洗い出し。
そして、得体の知れない自称カメラマンのチクローポについて。
言葉にしてみるとかなりの量だった。
(あたし、本当に知らないことだらけね……)
エイミーは茫然としながらも、積み重なった不安をワイフィーと共有できたことで、ほんのすこし気が晴れたようだった。
「でも、ティーポのことは多分、絶望的ね……。本名すらわからないし、ミーシャ以上になにも知らないんだもの……」
彼女にとって、当面の大きな関心は、チクローポについてといえたが、そうなるとまたあの会話が蘇り、不安がぶりかえしてくるのだった。
「ああ、もういや!」
エイミーは思わず両手に顔を埋めて声をあげた。
「誰かと話したい……」
くぐもった声が漏れつづける。
「お婆ちゃんは遠くにいて無理。カールお爺は寓意のコメントもくれない。ディッキーもリッキーもどこかに行っちゃった。わたし誰を頼ればいいの……」
それまで出会った人々の面影を思い出しては消去しつづけ、いまにも泣き出しそうになったとき、見慣れた顔がはっきりと脳裏に浮びあがってきた。
「ミーシャ、助けて……」
そう声に出してみながら、エイミーは指先にコツコツと当たる感触に誘われるように、左耳で揺れていた緑色のLEDを改造したピアスに触れた。
「わたし、結局、誰かに守られてる……。でも、仕方ないじゃない。だってわたし神でもなんでもないもん……」
そう呟くと、エイミーは立ち上がって部屋を出て、船内のギャレーをひとつひとつ見て回った。
「いた!」
「おう……でも、もう驚かない……」
それは、パンタミーマらしくない返答だった。
「ねえ、そんなとこでしゃがんで、掃除でもしてるの?」
「見てわからない? 具合が悪いの」
エイミーはつかつかと近づきながら、だらりと投げ出された彼女の腕に、赤い発疹があるのに気づいた。
「水疱瘡? だとしたら……」
エイミーの手が素早く動いてパンタミーマの額に触れた。
「熱はないみたい」
「水疱瘡は子どもの頃にやった。だから違う。――あたしアレルギーがあるから、多分それ。あの臭い作業服着ると、だいたいこうなる」
「わかってるなら、無理して着なきゃいいのに」
「……」
エイミーはパンタミーマが自分を機関室に案内するために、それを着たことに思い当たった。
「わたしのために着たんでしょ?」
「馬鹿いうな。規則だって説明したろ。それに、いつもの蕁麻疹だよ。痒くてしょうがないけどな」
そう言い返しはしたものの、彼女の口ぶりには普段の快活さがほとんどなかった。
「薬は飲んだの?」
「うん。だからこうなの。眠くて怠い」
パンタミーマはそういいながら、力尽きたのか床にべったりと座り込んでしまった。
エイミーの脳裏に、リッキーが地下施設の部屋を歩きながら、婦人科検診に向かう光景が突然想起した。
「ねえミーシャ、もしかすると大変な病気かもしれない。この船、医療設備もあるし、先生もいるんだから、ちゃんと診てもらったほうがいいよ。あたし付き添ってもいいよ」
「大袈裟。だからさ……」
「蕁麻疹じゃないと思う。――ねえ立てる? 無理そうなら人を呼んでくるけど」
「それだけは止めろ!」
予想だにしないパンタミーマの強い口調に、エイミーはぴくりと身体を緊張させた。
「ミーシャ……」
「気持ち悪い……」
一瞬、それがなにを指しているのか、エイミーにはわからなかったが、パンタミーマの青ざめた顔から吐き気だと察知した。
「吐きそう? 大丈夫?」
「さっきから、何度かゲーゲーしてるけど、なんも出ない……」
エイミーはすっくと立ち上がってシンクを眺め回し、そこに吐き出された唾液の痕を見つけ、どう説得しようかと思案しながら、ふたたびしゃがみ込んだ。
「ねえミーシャ、先生に診てもらおうよ」
「やだ、あいつ藪医者」
「だったらさ……」
そう呟いたとき、エイミーの脳裏に、ある人物の顔が浮かびあがっていた。
「わたしがこの船で出会った先生ならいい? その人、DNAとか免疫の権威なの。人柄も悪くないよ。うんと……例えばミーシャが触れて欲しくない部分とか、絶対に口外しない人だよ。それならどう? ――ダイモスで発見された、謎の宇宙船と異星人らしき遺体の調査隊に合流するっていってた。だから、信用できると思うけど……。それに、宇宙機構とは無縁の人だよ……」
「エイミー……あたし、ここんとこ働き過ぎたみたい。――だから、藪医者もしばらく休んでいいというかも……。駄目だこれ、まじでやばい……。ごめん、医務室に連れてって」
「謝らないでいいよ、ミーシャ。でも、立てるの?」
「根性だす……」
といって履いていたヒール脱ぎ捨てると、足の指をむにゅむにゅと動かした。
その言い回しと仕草に笑いが零れるのを我慢しながら、エイミーはパンタミーマを支えながら、ゆっくりと医務室へ向った。
緩慢な足取りで通路を歩く二人を、通行人らが珍しいものを見る目でじろじろと眺めたが、エイミーはまったく気にしなかった。
パンタミーマもまた、そんなことは眼中になく、身体を預けて擦れ合うエイミーの感触に、安心しきったような顔をしていた。




