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無から無へ  作者: イプシロン
Ⅱ 開戦
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14/55

#14 アレース――恐怖と狼狽

 《リヴァール号》が地球を旅立ってから二週間が過ぎたころ、舷窓から赤い惑星火星が、小さくではあるが、はっきりと見えはじめた。

 職業柄からか、あるいは天体に興味をもつ乗客たちなのか定かではなかったが、望遠展望室に足を運ぶ人が増えた。

 ようやく個室の船室を得て、多少安らぐ時間のできたエイミーもまたその一人だった。

 それゆえだろうか、終始忙しそうにしているパンタミーマを誘うのは気が引けたのか、彼女はチクローポを誘おうと、隣室の扉の前に立っていた。

 何度かノックしたあと、なんの返答もないまま扉が開いた。

「パヴリーン。用は?」

 英語でも、イタリア語でも、チクローポは相変わらず必要以上を口にしなかった。

「あの……火星が見えるようになったみたいなので、よかったら展望室で眺めながらお話でもできたらって思って……」

「三分待てる?」

「はい、もちろん」

 チクローポは身振りで「じゃあ待ってて」とサインを送ると、扉を閉めてしまった。

(悪い人じゃないのはわかってるけど……ミーシャがいってたとおり、無愛想が玉に傷……)

 エイミーはそう独り言ちてからくるりと身体の向きを変えると、扉に寄りかかって待った。

 三分経ってもなにも起こらなかった。

 五分が過ぎたころ、二人連れの乗客がエイミーの前を通り過ぎていった。

「俺もさ、確認したわけじゃない。あくまでも噂だけど、どうやら事実らしいんだ」

「だからって、別に攻撃されるわけじゃないだろ? その謎の宇宙船に?」

「どうだかな。北か南どころか、船籍さえ不明らしい。海賊だって話もあるぞ」

「海賊? ここは地球に近い火星域だぞ。海賊にお目にかかれる宙域じゃないだろ?」

「それはそうだけどな。けど、すこしずつ後ろから近づいて来てるらしい」

「展望室の望遠鏡で見えるらしくて船中で噂になってる」

「気にしても仕方ないだろ。どうせ殺られるときは……」

「まあな……でも……」

 エイミーには盗み聞きするつもりなどなかったが、耳は自然に話を追いかけていた。

 そのとき、トレッキングシューズが床を踏む音が扉の向こうから近づいてきた。

 しかし、彼女はそれに気づかなかった。

 チクローポは重くなった扉を力任せに開けようとした。

「わあ!」

 どこからそんな声が出るのかという声をあげて、エイミーが前のめりに転んだ。

 扉を閉めたあと、チクローポはすぐに彼女の手を掴んで立たせた。

「なにしてる?」

「え、ちょっといろいろあって転びました」

 エイミーはすぐに助けおこされたことに、嬉しさ半分恥ずかしさ半分の顔で答えた。

「おもしろいな」

 それだけいうと、チクローポは「こっち」と通路の先を指さして歩きはじめた。

「え、展望室はそっちじゃないです」

「近道」

 エイミーは唖然とはしたが、急いで後を追った。

 緑色の戦闘服(コンバット)の上着(・ジャケット)大きな背中に阻まれて前がほとんど見えなかった。

 仕方なくエイミーはその背中を眺めながら歩きつづけた。

 途中、両側から壁が迫っている狭い場所を横歩きしたりして、チクローポの後を付いていった。

 そんなとき、エイミーは緑の大きな背中になにかが付着しているのに気づいた。

「チクローポさん、ちょっと止まって」

 彼はなにもいわずにそのとおりにした。

 エイミーは手を伸ばすと、ジャケットに付いていたなにかを摘み取った。

「髪の毛」

「そうか」

 エイミーがそれを目の前に掲げて見ると、それは金と銀と茶色が混ざりあっていた。

(ミーシャの?……)

 とは思ったものの、大きな背中がどんどん先に行っているのに気づき、髪の毛を指から離してチクローポの後を追った。

 そうして展望室につくと、二人はチクローポの選んだ特等席に腰を下ろした。

「ここが一番」

 そういったきり、彼はそこからの景観を眺めもせず、望遠鏡に触れることもなく、エイミーの一挙手一投足に視線を注いでいた。

 そのエイミーは高倍率の双眼望遠鏡に目を当てて火星を見ては質問し、自然と湧きあがってくることをチクローポに訊ねた。

 ほとんどの答えは、イエスかノー、あるいはどちらでもないか、わからないというものだったが、彼女はしだいにその無愛想さに慣れていった。

 そんなとき、エイミーは扉の前を通り過ぎた二人の会話を思い出し、双眼望遠鏡を船体の後方に向けた。

「見るな」

「え?」

 意外に強い口調でいったチクローポの言葉に、エイミーはぎょっとして、双眼望遠鏡から目を離して、チクローポを見つめた。

「噂の船は見るな」

「じゃあ知ってたんですか? わたしさっき、扉の前で待っていたときに、たまたま通りがかった人たちが話してるのを耳にして、それで知ったんですけど、その謎の船ってそんなに危ないんですか?」

 一気に好奇心に火が点いたのか、エイミーは早口にそういった。

「こっちから見える以上に、あっちからは見えてる。お前パヴリーンだろ。顔を知られて逃げ切れるのか? 死ぬぞ」

 チクローポの声には殺気に似た切迫感があった。

 だがそれは、威嚇や脅しではないことがエイミーにもすぐにわかった。

「ねえティーポ、あなたが知っているパヴリーンてなんなんですか?」

 彼は口を噤んだままウインクした。

「ティーポって呼んだの不愉快でしたか?」

「それはない。心配してるから警告した」

「警告?……。わたし、この船に乗ってから警告されっぱなしなんです。ミーシャにはそれで何度も助けられてきました。多分この先も彼女に助けられるんじゃないかって……。でも、ティーポの警告はそれとは違う気がするんです。どう考えたらいいのかわからなくて……正直混乱してます」

 チクローポは鼻を摘んでから、エイミーをじっと見つめながら話しはじめた。

「ニオイだ。文屋であれ映像屋であれ同じ報道のニオイがする。だからだろ、俺とあんたがこうなったのは。それぐらいなら大したことじゃない。だけど、俺は疫病神だ。そのニオイがつくと、パヴリーン、お前本当に死ぬぞ。パヴリーンがロシア語なのはわかるだろ? それをフランス語にするとどうなる? ――その先は自分で考えろ」

「……」

(パヴリーンのフランス語はパン。パンといえばギリシャ神話の原初の神かな? ということは……神に触れようとするものは死ぬってこと?……)

「神?」

 エイミーは囁き声で訊いた。

 チクローポは黙って頷いた。

「でも疫病神と救いの神は違いますよね?」

「変わらん」

「そんな……だったら、わたしたち、というか人間はなんで祈るの?」

「さあな。――パヴリーン。俺がなんであいつのことをパンティーと呼んでるかわかるか?」

 エイミーは頭をフル回転させて考えたが、色とりどりの女性用下着ばかりが眼前に浮かんでは消えていっただけだった。

 仕方なく、彼女は降参を宣言した。

「わかりません……」

 チクローポは目尻に笑い皺を作ってからいった。

「あいつは人の急所に触れすぎる」

「じゃあ、冗談や揶揄ってたわけじゃないんですね? ミーシャはその渾名の意味を知ってるんですか?」

「さあな」

 それだけ語り終えると、チクローポはまた寡黙になった。

 エイミーの耳の奥では、機関室でパンタミーマにいった言葉が再生されていた。

 ――人のこと好きになろうとして好きになるわけじゃないでしょ? それと同じだもん。わたしだって――。

(あれって、ミーシャの急所を突いたことになるのかな? でも、お互い様だろうし、人を好きになることって悪いことじゃない……。でも、わたしがディッキーやリッキーに強い憧れを抱いたばかりに、ディッキーたちはわたしの前から姿を消したの?……)

「だからなんですか? ティーポが彼女を遠ざけるのは?」

「死なせたくない」

 チクローポは窓の外に小さく見える火星を見つめながらそういった。

(やっぱりそういうものなのかな?……だったら、ディッキーたちは誰にも邪魔されない場所を見つけられたのかな?……でも、そんな場所ってあるものなの?……)

「……」

 その僅かな時間は、エイミーにとって衝撃的だった。

 よくよく考えれば、どれもこれも極端すぎるとさえ思えたが、チクローポのように寡黙な人間が語ることは、どうしても胸に重く響かざるを得なかったのかもしれない。

 あるいはまた、恐怖(ダイモス)狼狽(フォボス)という二つの衛星を従える、軍神アレースの影響だったのかもしれない。

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