試験荷重で壁は崩れ、リリアーナの腕は肘まで石になった
試験荷重の準備は、朝一番に始まった。
バルガスが太い丸太を担架のように担ぎ、七番区画の前に横たえる。
湿った木の匂いが、砂埃の混じる朝の空気に混ざっていく。
「ここに乗せて、上から押す。それだけの話だ」
「それだけで、強度が分かるんですか」
「分かる。壊れなきゃ合格、壊れりゃ不合格だ」
「単純ですね」
「単純だから信用できる」
「複雑な検査だと、何がまずいんです」
「複雑だと誰も同じ判断ができん。俺一人しか読めん検査に意味はない」
「基準は誰が決めるんです」
「今日、俺たちが決める。壊れた場所が基準だ」
「壊れてから決めるんですか」
「壊れなきゃ分からんことだ、仕方ない」
丸太の両端に村人が取りつき、じわりと壁面へ押し当てていく。
「三番から五番、いきます」
「ゆっくりだ、急ぐな」
「棟梁、これ以上は」
「まだいける、押せ」
「本当に大丈夫なんですか、その判断」
「大丈夫と思うから続けさせてる。疑うなら手を止めろ」
軋む音が壁の内側から響いた。
低く、長く尾を引く音。
「待て、止めろ!」
「棟梁、今の音——」
「止めろと言ってる、離れろ!」
その声が終わる前に、壁が崩れた。
粉塵が視界を覆い、悲鳴が交錯する。
「うわああ!」
「トト、逃げろ!」
灰色の煙の向こうで、人影が転がるのが見えた。
若い村人がひとり、瓦礫の下に半身を沈めていた。
「あ、足が……! 足が動かない!」
「トト! しっかりしろ!」
「動くか、動かせるか!」
「動きません……! 石が乗ってて、動かないです……!」
「動かすな、あと少し崩れたら潰れる!」
「じゃあどうすればいいんですか! 見てるだけですか!」
「見てるだけじゃない、考えてる。少し待て」
「待てって、トトの足はどうなるんです!」
「木材を持ってこい、支保が組める分だけ全部だ!」
「間に合いますか、それ!」
「分からん、だがやるしかない!」
ケンジは瓦礫の傾きを見た。
支えを失えば、上の層がそのまま落ちる形だった。
石と石の間に走る亀裂が、じわりと広がっていく。
「支保がいる、今すぐ木材を——」
「間に合わない! 見てください、あそこ、もう傾いてます!」
「どいて——私が触ります!」
「リリアーナ様、待って——」
「待てません、今しかないんです!」
「その手で触れたら、また——」
「分かってます。それでも、今しかないんです」
手袋が地面に落ちた。
灰色がかった指先が、崩れかけた石の塊に触れる。
冷たい石の感触が、指先から手のひらへ広がっていく。
「動くな、頼む。まだ、頼む……!」
ピシ、と音がした。
彼女の手のひらから、白い筋が瓦礫の断面へ這っていく。
その筋は蜘蛛の巣のように枝分かれし、瓦礫全体を覆っていった。
「固まって……お願い、動かないで!」
軋みが止まった。
崩れかけていた層が、彼女の触れた場所を軸に静止する。
「止まった、止まりました!」
「今です! 支保を!」
「バルガス、そっちから!」
「おう!」
「もう一本、反対側にも!」
「持ってきてる、あと少し待て!」
「あとどれくらいですか、トト、持ちこたえられますか!」
「持ちます……! 早くしてください……!」
丸太が二本、瓦礫の隙間に差し込まれた。
木材がきしみながら、瓦礫の重みを受け止めていく。
「トト、聞こえるか、足を引くぞ」
「はい……! お願いします……!」
「痛かったら言え、無理はするな」
「言ってる余裕、ないです……!」
「せーの!」
引き抜かれた足に血がにじんでいたが、骨は折れていないようだった。
「動くか、トト」
「動きます……! 動きます、痛いけど、動きます!」
「本当に動いてるな? 無理して言ってないか」
「本当です! ちゃんと、足首も曲がります!」
「歩けるか、支えはいるか」
「支えがあれば……多分、歩けます」
村人たちが安堵の声を上げる中、ケンジはリリアーナへ振り向いた。
「よかった、これで——」
言葉が途中で止まった。
手首から先だけだったはずの灰色が、肘まで這い上がっている。
朝の光の下で、その灰色は静かに、確かに、そこにあった。
「リリアーナ、その腕」
「大丈夫です、痛みはありません」
「痛みの問題じゃない! なんでそこまで触れた!」
「触れないと、止まりませんでした」
「他に方法があったはずだ、俺が支保を——」
「間に合いませんでした。あなたも、そう言ったはずです」
「それとこれとは——」
「同じです。あなたが迷っている間に、トトさんは潰れていました」
「だからって、腕一本差し出していいわけじゃない」
「差し出したくて、差し出したんです」
ケンジは反論の言葉を探したが、見つからなかった。
リリアーナは石になった腕をそっと持ち上げ、微笑む。
「これで、まだ役に立てます」
「その笑い方はやめてくれ」
「え」
「役に立つために壊れるな!」
広場が静まり返った。
「……壊れても、役に立てるなら」
「立てなくていい! お前が無事な方が、俺には大事だ!」
「無事な私に、何ができるんですか」
「何もできなくていい。それでも——」
言葉がそこで止まった。
リリアーナの目が、初めて何かに気づいたように揺れる。
「……ケンジさん」
「もう、勝手に触るな。頼むから」
「約束は、できません」
「なぜだ」
「次も、同じ場面が来たら、私はまた触ります」
彼女は答えず、石化した腕を胸元に抱え込んだ。
村長が瓦礫の跡を見渡しながら、こちらへ歩いてくる。
砕けた石の欠片を踏む足音が、静まった広場に響いた。
「トトは無事か」
「はい、命に別状ありません」
「壁は……また崩れたのか」
「一部です。ですが、リリアーナ様が止めてくださいました」
「止めた代償が、それか」
「はい」
村長は固まった瓦礫にしばらく目をやり、それから深く息を吐いた。
「これ以上、続けさせていいものか、俺にも分からん」
「村長」
「明日、村会だ。壁を続けるかを決める」
「村会、ですか」
「これ以上、犠牲を出すわけにはいかん。お前も出てこい、ケンジ殿」
「分かりました」
「リリアーナ様も、できれば」
「……出ます。私のことですから」
村長が去った後も、広場には粉塵の匂いが残っていた。
砕けた石の欠片が、まだ白い粉を薄く吹いていた。
夕暮れが壁の上端を赤く染める中、リリアーナは一人でその影を見上げていた。
石になった右腕を、もう片方の手でそっと支えている。
その背中に、ケンジはしばらく声をかけられずにいた。
風が壁沿いを吹き抜け、彼女の髪だけを静かに揺らしていた。




