「安全な壁は、たった七つ」――急造の代償に村が割れた
朝の光が、壁の亀裂を白く浮かび上がらせていた。
湿った石灰の匂いが、まだ夜露を含んだ壁面から立ちのぼる。
バルガスが鑿の先で、そのひとすじをなぞる。
指の腹に伝わる感触に、彼の眉間が深く刻まれていく。
亀裂の縁はわずかに白く粉を吹き、鑿の先端に細かな粉塵がまとわりついた。
朝露に濡れた石灰の粒が、風に乗って鼻先をかすめる。
遠くの火口からは、いつもと変わらぬ噴煙が細く伸びていた。
「これだけじゃないぞ」
「え」
「三区画先にも、同じ筋がある。四区画先にもだ」
「……全部、確認したんですか」
「昨夜のうちに、俺なりに歩いてみた。眠れなかったのは俺も同じだ」
「一晩でどこまで見たんです」
「見られるだけ見た。松明片手にな」
「見落としは、ないと言い切れますか」
「言い切れん。だからお前らにも歩かせる」
「歩くって、村全部をですか」
「全部だ。端から端まで、俺の目で確かめる」
「棟梁一人じゃ日が暮れます」
「だから今からお前らも付き合え」
バルガスが鉄槌を振り上げ、壁面すれすれに叩きつけた。
轟音が朝の広場に響き渡り、鳩の群れが一斉に屋根から飛び立つ。
砕けた欠片が二つ、三つと足元に転がり落ちた。
「四日で建てた壁が、四十年もたんのか!」
「棟梁、待ってください」
「待てるか! お前らが急がせたのはリリアーナ様の力だ。その力が入った場所から、順にひびが入ってる。違うか」
「……違いません」
「なら答えろ。この村の壁、どこまでが速さで、どこまでが強さだ」
「今は、まだ」
「まだじゃ困る! 今すぐ知りたいんだ、俺は!」
「わかってます。だから今すぐ動きます」
「動くだけじゃ足りん。形にして残せ」
「形にして残すって、どうやってです」
「番号をつけて、台帳に日付を書く。誰が見ても分かるようにする」
「それだけで、直せるんですか」
「直せません。ですが、どこが危ないかは分かるようになります」
「分かってどうなる」
「危ない場所から順に、直す計画が立てられます」
ケンジは口をつぐんだ。
バルガスの鑿が、壁からゆっくり離れていく。
握った拳の震えだけが、まだ怒りを物語っていた。
「印をつけろ」
「印、ですか」
「触媒で打った区画に、全部印をつけろ。どれが四日で建った壁か、後から誰にでも分かるようにしろ」
「番号を振って、台帳に打設日も記録します」
「それでいい。今日中に村中を歩け」
「村中、全部ですか」
「全部だ。俺も歩く。手を抜いたら承知しない」
「棟梁も歩くんですか」
「当たり前だ。自分の壁だぞ、他人任せにできるか」
「印の色は、決めてあるんですか」
「赤で丸く囲め。遠くからでも分かるようにな」
「赤だけで、足りますか」
「足りなきゃ増やす。まずは赤だ」
その日、村人総出で壁沿いに列を作った。
赤い顔料を含んだ刷毛が、壁の粗い表面に円を描いていく。
トトが木杭を打ち込み、白い印を刻んでいく。
杭を打つ音が壁沿いに連なり、乾いた木霊が朝の空気に響いた。
「三番、四番……印、つけました」
「五番はどっちだ、速い方か遅い方か」
「速い方です。リリアーナ様が触れた場所です」
「じゃあ台帳のこっち側に書いとけ」
「六番は誰も触れてません、普通に固めた場所です」
「そっちは別の欄だ、間違えるな」
「七番はどっちか分からないんですけど」
「分からないなら聞いてこい。適当に書くな」
「誰に聞けばいいんです」
「バルガス棟梁だ。あの人は全部覚えてる」
「棟梁、八番はどっちですか」
「見りゃわかるだろう、色が違う」
「色、同じに見えるんですが」
「近づいて触ってみろ。冷たい方が触媒だ」
夕方までに、印は壁の半分近くに及んだ。
台帳を覗き込んだ村長の顔が、みるみる青ざめていく。
インクの滲んだ数字の列が、ページの上でびっしりと重なっていた。
「これ、全部……速い方じゃないか」
「はい。ほとんどが、リリアーナ様の力を借りた区画です」
「安全な方は、いくつある」
「数えたところ、七区画だけです」
「七つだけか。四十以上ある区画のうちの、たった七つか」
「はい。数え間違いではありません」
「もう一度数え直してくれ。信じたくない」
「三度数えました。七つです」
村長がしばらく黙り込み、指先で台帳の数字をなぞった。
「七つしかない壁で、これから先どうしろというんだ」
「今すぐ直す策は、まだありません」
「ないのか。ないなら、何のために歩き回った」
「一つだけ、今日決められることがあります」
「今日、決められること?」
「その七区画を、避難の集合地点にしましょう」
「集合地点、だと」
「スタンピードが来たとき、まずここに人を集めます。ここだけは崩れません」
バルガスが鑿を握り直し、赤い杭の列を見渡した。
「印を緑に変えろ。赤は危険、緑は避難所だ」
「緑の印、今から回ります」
「トト、お前が先に立て。急げ」
「はい! 三番から緑に塗り直します!」
村長が、初めて息をひとつ吐き出した。
「……直せなくても、決めることは残っていたんだな」
「はい。守れる場所だけは、今日決まりました」
「たった七つだが」
「たった七つでも、ゼロとは違います」
広場がざわめき始めた。
「七つしかないなら、直すのに何年かかるんだ」
「知るか、そんなの! 冬までにスタンピードが来るんだぞ!」
「速い壁だろうと、あるだけマシだ! ないよりずっといい!」
「もつ壁じゃなきゃ意味がない! 崩れて死ぬくらいなら最初から柵の方がマシだ!」
「柵で死んだ奴を何人見た! 忘れたのか!」
「忘れてない! だが速さを優先した結果がこれだろう!」
「じゃあ最初からどうしろって言うんだ!」
「せめて、危ない場所くらい分けて考えろって言ってるんだ!」
村人たちが二手に分かれ、言い合いが激しくなっていく。
土埃が足元に舞い上がり、怒声のたびに乾いた地面を叩く音が響いた。
怒鳴り声が交錯するたび、広場の隅で子供たちが親の袖を引いた。
「ケンジ殿、あんたはどう思うんだ!」
「もつ壁を作り直すべきだ、俺はそう思います」
「作り直す間にスタンピードが来たらどうする! 責任取れるのか!」
「……」
「答えられないなら黙ってろ! 現場のことは現場が決める!」
「せめて、優先順位だけでも」
「優先順位なんて後回しでいい、今欲しいのは答えだ!」
ケンジは反論の言葉を探した。
だが喉の奥で言葉が絡まり、出てこない。
村人たちの視線が、初めて明確な拒絶の色を帯びていた。
目を伏せたケンジの肩に、リリアーナがそっと触れかけて、寸前で手を止める。
灰色の指先が、彼の肩の輪郭をなぞるように空を切った。
「ケンジさん」
「大丈夫だ。……大丈夫、じゃないな」
「初めてですね、こんな風に言い返されるの」
「ああ。心当たりが、なさすぎて言葉が出ない」
「反論、できないんですか」
「できない。あいつらの言い分も、間違ってはいないからだ」
「間違ってないのに、悔しいんですか」
「悔しい。答えを持ってるはずなのに、今は出せない」
「答えは、いつ出せるようになりますか」
「わからない。だが、探すのをやめるつもりはない」
「探す間、私はそばにいていいですか」
「……いてくれ。頼む」
そこへ、荷車を引いた商人が村の入口から声をかけてきた。
車輪の軋む音が、静まりきらない広場の空気を割って近づいてくる。
荷車には、色とりどりの布や小瓶が所狭しと積まれていた。
「賑やかですねえ、皆さん。壁の話ですか」
「ええ、まあ」
「王都でも似たような話、聞きましたよ。あちらは魔導師様の魔力で、一晩で壁を建て直してるそうです」
「……一晩、ですか」
「ええ。さすが王都は違いますなあ、うちらの村とは規模が」
「一晩で、どのくらいの範囲を直すんです」
「さあ、そこまでは。ただ噂じゃ、崩れたそばから魔力で塗り固めてるとか」
「魔力だけで、そんなに保つんですか」
「さあ、そこまでは私も。噂ですから」
「……そうですか」
ケンジの顔から、すっと血の気が引いていく。
商人はそれに気づかぬまま、荷車の轍を鳴らして遠ざかっていった。
夕暮れの光が、緑と赤の杭の列を長い影にして壁沿いに並べていた。




