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四日で繋がった奇跡の壁、笑う彼女の手はもう石だった

第四区画に、リリアーナの指先が触れた。


灰色の生コンが、みるみる艶を失って固まっていく。


指先から広がる灰色の輪が、型枠の隅まで一息に染み渡っていった。


型枠の木肌に、灰色の湯気じみた冷気が這い上がる。


土と鉄の匂いに混じって、かすかに焦げたような匂いが鼻を突いた。


「もう一列いけます」


「無茶するな。休め」


「休んでいる暇はありません。あと三日でここが終わらないと」


「終わらせるために、お前が倒れたら意味がない」


「倒れません。まだ、動けます」


「まだ動けるという言葉を、俺は何度聞いた」


「今度は本当です」


「本当だと言ったのは、昨日も一昨日も同じだったな」


「昨日と今日は違います。今日はまだ立っていられます」


「立っていられるのと、無事なのは別だ」


「別でも、今は立っていられる方を数えてください」


「数える基準を、お前が決めるな」


「じゃあ誰が決めるんです」


「俺が決める。医者じゃなくても、顔色くらいは見れる」


「顔色は化粧で誤魔化せます」


「化粧なんてしてないだろう、お前は」


「……していません」


「休むという選択肢を、お前はいつも忘れる」


「忘れてはいません。選ばないだけです」


「選ばないんじゃなくて、選べないんだろう」


「同じことです」


「同じじゃない。選べないなら、俺が選んでやる」


「あなたが選んでも、私の手は止まりません」


型枠の奥から、バルガスの怒鳴り声が飛んだ。


「次、流すぞ! リリアーナ様、頼む!」


「はい!」


「待て、間隔を空けろと言ったはずだ」


「言われました。でも今日中にここを固めないと、明日の分に間に合いません」


「間に合わなくていい。命の方が大事だ」


「命は大丈夫です。私は、痛くも痒くもありませんから」


「痛くないから平気だという理屈は、俺は認めない」


「認めてもらえなくても、手は止めません」


「止めないと言うたびに、お前の顔は白くなっていく」


「気のせいです」


「気のせいで済ませていい顔色じゃない」


「顔色の話はもういい。次を流すぞ、いいな」


「いいですか、ケンジさん」


「良くない。だが止めても聞かないんだろう、お前は」


「聞きません」


「だったら、せめて次で最後にしろ」


「わかりました。次で最後にします」


その一言に、ケンジは口をつぐんだ。


灰色に染まった指先を、リリアーナは手袋の下に隠している。


隠しても隠しきれない冷たさが、握った拳の輪郭から伝わってくるようだった。


指の関節のあたりだけ、手袋の布がわずかに突っ張っている。


薄布越しに骨の形が浮くほど、その突っ張りは強い。


ケンジはそれ以上、何も言えなかった。


四日目の朝、広場は歓声に包まれた。


石垣の隙間という隙間に灰色の壁が立ち上がり、村を囲む輪郭がひとつながりになっている。


朝日を浴びた壁面は、まだ湿り気を残して鈍く光っていた。


冷えた朝の空気に、乾ききらない灰の匂いが立ちのぼる。


遠くの山肌からは、いつもと変わらぬ噴煙が細く伸びていた。


「見ろ! 繋がったぞ!」


「四日だ! 四日でここまで来た!」


「二十日かかるはずだったんじゃないのか!」


「奇跡だ、これは奇跡だよ!」


「奇跡じゃない、リリアーナ様の力だ!」


「ケンジ殿の技術と、あの方の力だ! 両方あってこそだ!」


「どっちが欠けても、こうはならなかったな」


「違いない、違いない!」


「これなら、あと十日もかからず全部繋がるんじゃないか?」


「かからないとも。この調子なら村中が壁の中だ!」


「村長は何と言ってる、これを見たら」


「村長も声を失っておられたわ、たぶん」


「無理もない、二十日が四日だぞ」


「これでスタンピードにも間に合うんじゃないか」


「まだ気を抜くな、残りの区画もある」


「わかってる、わかってる、今日くらいは喜ばせろ」


「子供らにも触らせてやれ、これが村を守る壁だ!」


「触ったら崩れないだろうな?」


「崩れるかよ、鉄槌でも割れなかったんだぞ!」


子供たちが壁に駆け寄り、灰色の表面を叩いて笑い声を上げる。


小さな手のひらの跡が、いくつも壁に重なっていった。


叩くたびに乾いた音が返り、子供たちはその硬さを競うように何度も殴りつける。


「痛い! でも壊れない!」


「もっと強く叩いてみろよ!」


夕方には広場に焚き火が組まれ、酒樽の栓が抜かれた。


「今夜は祝いだ! 飲め、食え!」


「バルガス棟梁、今日ばかりは黙って座っていてくれ!」


「うるさい、俺だって飲むぞ!」


「棟梁が笑ってるところ、初めて見た気がするな」


「そういうことは言わなくていい」


「照れてるのか、棟梁」


「照れてない。酒が回ってるだけだ」


木杯がぶつかる音と、笑い声が広場を満たしていく。


火の粉が夜空へ舞い上がり、星の間に紛れて消えていった。


肉を焼く脂の匂いと、酒精の匂いが夜風に混ざる。


子供たちの笑い声だけが、遠くの闇にまで届いていた。


「小僧」


「なんです」


バルガスがケンジの背中を、太い手のひらで叩いた。


痛いほどの力に、ケンジは思わず咳き込む。


「認めるぞ。最初は泥遊びだと思ってた。悪かったな」


「今更ですか」


「今更でいい。壁を見たら誰だって黙る」


「まだ全区画終わってません。喜ぶのは早い」


「わかってる。だが今夜くらい浮かれさせろ」


「……好きにしてください」


「お前も飲め。硬い顔ばかりしてないでな」


「顔のことまで棟梁に言われる筋合いはないんですが」


「筋合いは俺が勝手に作った。文句あるか」


「文句は言いませんが、納得もしていません」


「納得しなくていい。飲め」


「小僧、もう一杯どうだ」


「もう十分いただきました」


「十分の意味を知らんのか、お前は」


「知ってます。だからこれ以上は」


「つべこべ言うな、注いでやる」


「……もう、好きにしてください」


宴の熱気から離れ、ケンジは完成したばかりの壁際に歩いた。


篝火の明かりが届かない場所で、指先を灰色の表面に這わせる。


ざらついた粒の感触の中に、思いがけず滑らかな帯が混じっていた。


夜風が頬を撫で、宴の喧騒が急に遠くなった気がする。


指先に伝わる温度は、まだ養生中の熱をわずかに残していた。


硬化の最中にしか感じられない、この微かなぬくもりをケンジは知っている。


途中で、指が止まった。


爪の先ほどの筋が、表面をひとすじ横切っている。


月明かりに透かすと、その筋は蜘蛛の糸よりも細く見えた。


「……ひび」


声が、自分でも思ったより小さく漏れた。


急いだ硬化の熱が、内側と外側にどれほどの差を残したか。


考えを巡らせていた背後で、足音が止まる。


「ケンジさん」


振り向くと、リリアーナが立っていた。


焚き火を背にした逆光で、表情の輪郭だけが淡く浮かんでいる。


「見てたのか、俺のこと」


「探しに来ました。宴に戻ってこないので」


「壁を、見てた。ひびがある」


「……ひび、ですか。どこにです」


「小さい。今はまだ、髪の毛みたいな筋だ」


「それは、危ないものなんですか」


「わからない。だが、原因の見当はつく」


「原因って、何です」


「急ぎすぎた熱だ。中と外の縮み方が、揃わなかった」


「直せますか」


「わからない。だが、原因の見当はつく」


「同じことを、二回言いました」


「……そうだな」


「珍しいですね、ケンジさんが同じ答えを繰り返すの」


「今は、それしか言えない」


「じゃあ、この壁は崩れるんですか」


「今すぐには崩れない。だが、放っておけばいずれ弱くなる」


「弱くなったら、また私が触れればいいですか」


「駄目だ。それだけは駄目だ」


「どうしてです。触れれば、また固まります」


「固まっても、同じひびがまた入る。根本は解決しない」


「根本を解決する方法は、あるんですか」


「今は、まだ見えていない」


「見えていないのに、私に触れるなと言うんですか」


「言う。見えていないからこそ、同じ手は使わせない」


「じゃあ、次のひびが入ったら、どうするんです」


「そうならないやり方を、俺が探す」


リリアーナが手袋を、ゆっくりと外し始めた。


指先から手首へ、灰色の光沢が月明かりに浮かび上がっていく。


「ケンジさん。私、聞きたいことがあります」


「なんだ」


「私の手、どこまで灰色になっていると思いますか」


答える前に、彼女は右手を篝火の方へ差し出した。


手首の先が、根元まで灰色の石になっている。


指の関節に、細い亀裂が幾筋も走っていた。


篝火の光を受けて、その表面は鈍い艶を帯びている。


ケンジは息を呑み、言葉を失った。


「……お前」


「大丈夫です。痛くありません」


「大丈夫なわけがあるか、それは」


「壁は建ちました。四日で。誰も死んでいません」


「そういう問題じゃない」


「わかっています。でも」


「わかっているなら、なぜ止めなかった」


「止めたら、間に合わなかったからです」


「間に合わせるために、これを差し出したのか」


「差し出したんじゃありません。使っただけです」


「使っただけで、こんなになるのか」


「なります。触れるたびに、少しずつ」


「少しずつって、前から知っていたのか」


「知っていました。言えば、止められると思って」


リリアーナは、石になった指先を軽く曲げてみせた。


関節の軋む音が、焚き火の爆ぜる音に紛れてかすかに聞こえた。


「まだ、動きます」


篝火の爆ぜる音だけが、二人の間に落ちる。


「まだ、触れます」


彼女は、笑っていた。

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