「たかが水」で壁の強度は半分になる――雨に浮かれる村人を止め、ケンジは一日分を全廃棄した
広場に木槌の音が響いていた。
濡れた石と木がぶつかる、乾いた音の連なり。
朝の空気にまだ湿りけはなく、土埃と灰の匂いが混じって漂っている。
「流れるぞー! みんな手を止めるな!」
「桶はこっちだ! 空にしたらすぐ戻せ!」
「型枠の隙間、もう埋まったか?」
「埋まった! 次いくぞ!」
「こっちもまだだ、急げ!」
「わかってる、あと少しだ!」
「隣の区画はどうなってる、遅れてないか?」
「遅れてない、こっちも詰めてる!」
「そっちの型枠、木槌の音が軽くないか? もっと締め固めろ!」
「軽いか? 俺には十分に思えるが」
「十分じゃない。隙間が残れば、そこから弱くなる」
石垣の隙間に、灰色の生コンが次々と流し込まれていく。
とろりとした重さで型枠の角を埋めていくその様子に、村人たちの声が弾んだ。
子供たちが桶を運び、大人たちが木槌で締め固める。
まるで祭りのような熱気が、朝の広場を包んでいた。
木槌が石を叩くたび、水しぶきがわずかに跳ねる。
ケンジは配合を確かめながら、水を加える量に目を光らせる。
「水はそこまで。それ以上は足すな」
「わかってる、わかってる」
「本当にわかってるか? 目分量じゃ駄目だぞ」
「毎回同じ桶で量ってる、心配しすぎだ」
「心配しすぎなくらいで、ちょうどいいんだ」
「そんなにうるさく言うほどのことか、たかが水だぞ」
「たかが水で、壁の強さが半分になる。だから言ってる」
「半分にって、大げさだろう」
「大げさじゃない。目盛り一本分の狂いで、強さは簡単に落ちる」
ぽつり、と頬に何かが当たった。
見上げると、灰色の雲が空を覆っている。
「雨か」
「ただの通り雨だろう、すぐ止む」
「雨か! みんな急げー!」
「屋根のある方から先に済ませろ!」
「型枠、濡れて滑るぞ、足元に気をつけろ!」
「桶の蓋、閉められるか? 中に雨が入る前に!」
「間に合わない、もう半分濡れてる!」
雨粒が地面を叩き始め、桶の水面に波紋が広がった。
小さな輪が幾つも重なり、灰色の泥の表面を揺らしていく。
村人の一人が、桶を覗き込んで声を上げる。
「おお、水が増えて楽になったぞ!」
「本当だ、練るのが軽い!」
「これなら流し込むのも早いな!」
「棒が軽く動く、こりゃ助かる」
「雨のおかげで仕事が捗るなんてな」
「今日中に終わるかもしれん、これは」
「こんなに楽なら、最初から水を多めにすればよかったんじゃないか?」
ケンジの顔から、血の気が引いた。
木の棒を握る村人の手元を見つめ、喉の奥が詰まる。
「待て。止めろ!」
「なんだよ、せっかく捗ってるのに」
「止めるんだ! それ以上、水を吸わせるな!」
「水が多い方がいいんだろ、さっき自分で言ってたじゃないか」
「言ってない。俺が決めた量以外は駄目だ」
「今更そんなこと言われても、もう半分流し込んだぞ」
「半分でも止める。それ以上は使えなくなる」
「使えなくなるって、目の前で固まってるじゃないか」
「固まっても、強さが出ない。中身がスカスカになる」
「スカスカでも、壁は壁だろう。もったいないじゃないか」
「もったいなくても、割れる壁は壁じゃない」
「そんな極端な。ちょっと薄まっただけで済むんじゃないのか」
「ちょっとが命取りになる。水は多すぎても少なすぎても駄目なんだ」
「じゃあどのくらいならいいんだ、ちょっとくらい増えても平気だろう」
「平気じゃない。決めた量を、決めた通りに使うから強くなる」
「決めた量って、誰が決めたんだ。お前の勘だろう」
「勘じゃない。何十回も試して出した数字だ」
村人たちがざわめき、手が止まらない者もいる。
雨脚に混じって、桶をかき回す音だけが続いていた。
ケンジは駆け寄り、桶の生コンを両手ですくった。
指の間に伝わる、いつもより滑らかで頼りない感触。
丸めて、力を込める。
指の間から、灰色の泥がぼろぼろと崩れ落ちた。
崩れた欠片が、雨に濡れた地面に散らばっていく。
「見ろ。これが、水を吸いすぎた泥だ」
「……崩れてる」
「さっきまで、あんなに滑らかだったのに」
「滑らかなのは水が多いからだ。固まった後は、これになる」
「じゃあ、さっき流し込んだ分は」
「同じことになる。今は見えないだけだ」
「見えないなら、まだいけるんじゃないのか」
「見えないから怖いんだ。壁になってから割れたら、直せない」
「直せないって、そんなにあっさり言うなよ」
「あっさりじゃない。城の防壁と同じ扱いだと言ってるんだ」
「城の防壁と同じって、そこまで重い話なのか、これは」
「重い話だ。魔物が突っ込んでくる壁だぞ」
「魔物が突っ込む瞬間に、これが崩れたらどうなる」
「そこにいる人間ごと、終わりだ」
村長が青ざめた顔で、ケンジとバルガスを交互に見る。
「棟梁、どう思う」
バルガスは黙って、地面に転がる崩れた泥だんごを見ていた。
雨が、彼の太い腕を濡らしていく。
節くれだった指先が、崩れた泥のかけらをそっと拾い上げた。
指の腹でこすると、泥は粉のようにあっけなく散った。
「……ケンジ」
「なんだ」
「お前、これを城の防壁と同じ扱いにするんだな」
「同じだ。手を抜いたら、そこから崩れる」
「後から直せるものと、直せないものの違いだな」
「そうだ。壁は、あとから直せない」
「なら答えは一つだな」
バルガスは鉄槌を振り上げ、地面に突き立てた。
ドン、と鈍い音が広場に響く。
雨音の中でも、その一撃だけは村中に届いた。
「聞け! 棟梁の言うことを聞け!」
「バルガスさん、でも」
「今日の分は捨てる。ケンジの言う通りにする」
「一日分をか? 冬までもう時間がないのに」
「時間がないからこそだ。割れる壁を建てて、意味があるか」
「……ないな」
「ないんだよ。だから今日は、諦める」
「棟梁がそう言うなら、俺たちは従うしかないか」
「従うしかない。お前らの目より、あいつの目の方を俺は信じる」
「棟梁がそこまで言うなら、仕方ない」
「わかった。やめよう、今日は」
村人たちが顔を見合わせ、やがて手を止めた。
雨脚が強まり、桶の中の生コンが灰色の流れになって溢れ出す。
土に染み込んでいくそれを、誰も止めなかった。
ケンジはずぶ濡れのまま、空になっていく型枠を見つめる。
雨粒が睫毛を伝い、視界を滲ませていた。
「悪い。今日の分は、全部無駄になる」
「無駄じゃない。お前が止めなきゃ、もっと悪い壁が建ってた」
「それでも、時間は戻らない」
「戻らないが、命よりはマシだ」
「命よりマシって、大げさすぎないか」
「大げさじゃない。崩れた壁の下には、いつも人がいる」
「……そうだったな」
「忘れるな。だから今日は、それでいい」
「次に雨が降ったら、どうすればいい」
「屋根を用意する。桶にも蓋をつける」
「それだけで防げるのか」
「防げる。今日わかったことを、次に活かせばいい」
夕方、雨が上がった。
橙色の光が、濡れた広場をゆっくりと照らしていく。
水たまりに沈んだ夕日が、崩れた生コンの跡を赤く染めていた。
村長がケンジの前に立ち、静かに口を開いた。
「……ケンジ殿」
「はい」
「あと三十日だ」
その一言だけを残し、村長は屋敷へと戻っていった。
ケンジは空の型枠に目を落とし、拳を握りしめる。
三十日という数字が、雨上がりの空気の中に重く残った。




