桶が一斉に割れた朝、判明した真実「彼女の魔力は、強すぎた」
広場に朝日が差し込むと、村人の悲鳴が上がった。
「ひび割れてる! 全部だ!」
「一番も二番も、七番まで全部か!」
「昨日はあんなに綺麗に固まってたのに」
「触ったら崩れるんじゃないか、これ」
「触るな! まだ見ただけにしとけ!」
「おい、誰か村長呼んでこい! 大変なことになってるぞ!」
「もう来てる! 見ての通りだ、声を落とせ!」
ケンジは駆け寄り、一番の桶をのぞきこんだ。
灰色の表面に、蜘蛛の巣のような細い亀裂が走っている。
朝露を吸った亀裂の線が、光を受けて銀色に光っていた。
「……全部か」
「全部です! 見てください、ここも、ここも!」
「二番なんて、指の幅ほど開いてます!」
「三番も四番も同じですよ、ほら!」
「五番と六番はどうなんだ、確かめたのか」
「確かめました、同じです! 全部!」
ケンジは指先で亀裂をなぞり、深さを確かめた。
浅い。だが表面全体に、まんべんなく走っている。
指を離すと、爪の間に灰色の粉がわずかに残った。
バルガスが桶を叩き、乾いた音を確かめる。
「割れてるが、崩れてはいないな」
「崩れてない、ってどういうことだ」
「割れたら終わりじゃないのか、これは」
「表面だけだ。中はまだ持ってる」
「表面だけでも、割れは割れだろう」
「壁にこの亀裂が入ったら、そこから水が染みる。冬には凍って広がる」
「凍って、広がる……そうなったら壁ごと終わりじゃないか」
「終わりだ。だから今、原因を潰しておく必要がある」
「原因もわからんのに、どうやって潰すんだ」
「今から調べる。だから桶を壊さずにおいてくれ」
ケンジは眉を寄せ、桶の縁を指でなぞった。
冷たいはずの泥が、まだどこかぬるい。
指先に残る熱の感触に、ケンジは思わず眉根を寄せた。
「リリアーナさんは」
村長が屋敷の方を指差す。
「部屋に閉じこもっちまって、朝から出てこないんです」
「様子は」
「声もかけたんですが、返事が細くて。よほど参ってる様子で」
「呼んでくれ」
「呼んだんですが、返事がなくて」
「無理にでも開けさせるべきか、それとも」
「いや、俺が行く」
「一人で大丈夫か、あの様子だぞ」
「大丈夫だ。桶の方、頼む」
ケンジは屋敷へ走った。
木の扉の前に立ち、拳で叩く。
板の冷たさが、拳の骨まで伝わってくる。
「リリアーナさん、開けてください」
返事はない。
「聞こえてますか。桶のことで話が」
扉の向こうから、くぐもった声が返った。
「……私が、壊しました」
「まだ壊したと決まったわけじゃ」
「決まってます。私が触った桶だけ、全部割れたんですよね」
「触った桶だけじゃない。全部です、七つとも」
「だから、です。全部に触ったから、全部が割れた」
「待ってください、そこは順番が逆かもしれない」
「逆じゃありません。私の力が、余計だったんです」
「余計だったかどうかは、まだ何も確かめてない段階です」
「確かめなくても、わかります。私が触らなければ、こんなことには」
「その言い方は、まだ早すぎる」
「早くありません。私はいつもこうです。触れば、駄目にする」
「駄目にする、と決めつける前に、俺に少し時間をください」
「時間をもらっても、結果は変わりません」
「変わるかもしれない。今はまだ、誰にもわからないことです」
ケンジは扉に背を預け、息を吐いた。
板越しに伝わる沈黙が、思ったより重い。
「今、桶を調べてます。少し待っててもらえますか」
答えはなかった。
廊下を戻りながら、ケンジは自分の手のひらを見つめた。
昨夜、灰色に染まった彼女の指先を思い出す。
広場に戻ると、バルガスが二番の桶を叩いていた。
「まだ持ってる。芯は固い」
「芯が固くても、表がこれじゃ使い物にならんぞ」
「使い物にならないとは、まだ言い切れない。原因次第だ」
「原因ってのは、そんなにすぐ見つかるものなのか」
「見つける。時間はかけない」
ケンジはしゃがみ、桶の側面に手のひらを当てた。
「……熱い」
「熱い? 昨日固まったばかりだぞ」
「まだ熱いんです。丸一日経ってるのに」
「石が熱を持つのは、当たり前じゃないのか。日に当たれば」
「日陰の桶も同じです。触ってみてください」
バルガスが手を当て、目を見開いた。
「本当だ。中から出てる熱だ」
「日向のと同じ熱さか」
「同じです。だから日差しのせいじゃない」
「日差しのせいじゃないなら、何のせいだ」
「そうです。固まる時に、熱が出るんです」
「泥が固まるだけで、熱が出るのか」
「出ます。急に固まるほど、一気に出る」
「一気に出ると、何が悪い」
「外側から先に冷めるんです。中はまだ熱いまま」
「それで」
「中と外で、縮み方が違ってくる。引っ張り合って、割れる」
村人の一人が首をかしげた。
「縮み方が違うだけで、石が割れるのか」
「割れます。熱いガラスに水をかけたら割れるのと同じです」
「ガラス……なるほど、急に冷えるとまずいってことか」
「急に固まるのも、同じくらいまずいんです」
「じゃあ、ゆっくり固めりゃよかったのか」
「そうです。ゆっくりなら、中と外の熱がならされる」
「ゆっくりって、どのくらいだ。半日か、それとも三日か」
「本来は三日かけて出る熱です。それを、昨夜は一晩で出した」
バルガスが桶を見回し、腕を組んだ。
「じゃあ、あの嬢ちゃんの力は」
「速すぎるんです。普通なら三日かけて出る熱を、一晩で出してる」
「速いのは、良いことだと思ってたが」
「速いだけじゃ駄目なんです。ゆっくり出さないと、割れる」
「なら、あの力は使わない方がいいってことか」
「そうじゃない。使い方を変えればいい」
ケンジは立ち上がり、屋敷を振り返った。
朝の光が屋敷の壁を白く照らし、閉じた扉の輪郭だけが影になっている。
「リリアーナさんの力が弱いんじゃない。逆です」
「逆?」
「強すぎるんです。だから、扱い方がいる」
「扱い方だと? そんなもの、今から間に合うのか」
「間に合わせる。四十日あれば、手順ぐらい作れる」
ケンジはもう一度屋敷へ走り、扉の前に立った。
「リリアーナさん」
「……」
「原因、わかりました。熱です」
かすかに、衣擦れの音がした。
「熱、ですか」
「あなたが触ると、固まる熱が一気に出る。それで内と外に差ができて、割れる」
「それは……私のせいですよね」
「せいじゃない。あなたの力が強すぎるだけです」
「強すぎるのも、駄目ってことじゃないですか」
「駄目じゃない。使い方がなかっただけです」
「使い方が、なかった……本当に、それだけなんですか」
「それだけです。桶を叩いて確かめた。芯は誰よりも固い」
扉の閂が、ゆっくりと外れる音がした。
ケンジは扉を開け、彼女と目を合わせた。
伏せられたままの目元と、握りしめられた袖口が見える。
「あなたの力は欠陥じゃない。手順がまだ無いだけだ」
リリアーナが顔を上げる。
「手順……」
「温度を測りながら、少しずつ触ってもらう。一度に全部じゃなく」
「少しずつなら、割れませんか」
「割れない。中と外の差が、大きくならないから」
「本当に、それだけで」
「言葉じゃなく、今から見せます。八番の桶が、まだ空いてる」
ケンジはリリアーナを連れて広場に戻り、空の桶の前にしゃがんだ。
「触るのは、指一本だけです。数を三つ数える間だけ」
「それだけで、いいんですか」
「それだけです。長く触れないでください」
リリアーナが指を伸ばし、桶の縁に触れて、すぐに離す。
バルガスが桶に手を当てた。
「……ぬるいだけだな。さっきの熱さとは違う」
「まだ半分も熱が出てない証拠です。しばらく待ちます」
村人たちが遠巻きに集まり、桶を見つめた。
「まだひびは入ってないな」
「まだですよ、これからです」
「本当に大丈夫なのか」
「待ってください、まだ途中です」
日が傾く間、誰も桶から目を離さなかった。
半刻ののち、ケンジは桶の側面に触れ、頷いた。
「熱が引いてきた。もう一度、同じだけ触れてください」
リリアーナが再び指を触れさせ、すぐに離す。
「これで終わりですか」
「終わりです。あとは待つだけです」
夕暮れ、ケンジが桶の表面を指でなぞった。
灰色の面に、亀裂は一本も走っていない。
バルガスが鉄槌の柄で桶を軽く叩き、耳を澄ませた。
「……澄んだ音だ。割れてる音じゃない」
「ひびがない! 本当にないぞ、これ!」
「八番だけ、朝からずっと無事ってことか」
「無事です。少しずつ触れば、割れない」
村人たちの間から、安堵の声が漏れた。
リリアーナが桶を見つめ、声を落とす。
「本当に、私のやり方が悪かっただけなんですね」
「やり方です。あなたの力のせいじゃなかった」
リリアーナの表情が、わずかに緩んだ。
「……できます、それなら」
ケンジはそこで言葉を止め、彼女の腕に目を落とした。
「あと、ひとつ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「その灰色、どこまで広がってますか」
リリアーナの手が、袖口をきつく握りしめた。
答えは、返らなかった。




