「才能はいらない」と言った翌夜、七つの桶が彼女の指先で全部固まっていた
広場の隅に、木桶が七つ並んでいた。
朝の光が桶の縁を白く縁取り、まだ乾ききらない灰色の泥がぬらりと光っている。
子供が木札に小刀で線を刻みながら、声を張り上げる。
「四番! 四番できた!」
「五番はまだか」
「まだだよ、灰が足りない!」
「隣から借りてこいよ、急げ!」
「借りるって、誰の灰だ」
「婆ちゃんちの、昨日焼いた分だよ」
「勝手に持ってっていいのか、それ」
「今聞いてくる! 五番待ってて!」
子供たちの声が重なり合い、広場の空気が朝市のようにざわめいた。
ケンジは列の端にしゃがみ、二番の桶に指を入れた。
「……崩れた」
指先に触れた感触が、想像していた硬さとまるで違う。
粉のような手応えのなさに、ケンジは眉をひそめた。
バルガスが振り返る。
「崩れた? 昨日の泥と同じものだろう」
「同じ手順です。でも同じ結果じゃない」
「同じ手順で、違う結果だと? そんな馬鹿な話があるか」
「あるんです。今、目の前で起きてる」
「意味がわからん。同じことをやれば、同じものができるはずだろう」
「灰の採取場所を変えたんです。西の谷から運んだ分だけ」
「灰なんて、灰だろう。どこで採ろうと同じじゃないのか」
「違うんです。混じっている石の種類が、場所によって少しずつ違う」
「石の種類が違うだけで、固まらなくなるのか」
「なる。ほんの少しの違いが、結果を全部変えることがある」
「じゃあ東の谷の灰は、なんで固まったんだ」
「それを、これから七通り試して確かめるんです」
指の間からぼろぼろとこぼれる灰色の欠片を、ケンジは掌に受けた。
こぼれた欠片が風に流され、地面の炭の粉と混じって消えていく。
リリアーナが横からのぞきこむ。
「これは、失敗ですよね」
「失敗です。でも大事な失敗だ」
「大事な失敗、ってどういうことですか」
「一回できたことが、次もできるとは限らない。それがわかっただけでも収穫です」
「収穫……崩れたのに、ですか」
「崩れたから、わかったんです。何も試さなければ、一生気づかなかった」
「気づかないまま、壁を作っていたら」
「壁の隙間だけ、あちこち崩れてたでしょうね。原因もわからないまま」
バルガスが鼻を鳴らした。
「一回できたなら、それでいいだろう。壁の隙間を埋めるだけなら」
「壁は一回作って終わりじゃない。四十日後の襲撃で壊れたら、また作り直す」
「そのたびに、今日みたいに崩れたらどうする気だ」
「だから今日、確かめておくんです。何がうまくいって、何がだめだったか」
「確かめるって、どうやって」
「配合を七通り変えて、桶を七つ作る。それぞれ番号を打って、日付を刻む」
村人の一人が首をかしげた。
「番号なんて打って、何の意味があるんだ」
「三日後にどれが割れて、どれが割れないか見る。それで、どの配合が正解かわかる」
「正解がわかったら」
「正解の配合だけを、壁全部に使う。当てずっぽうじゃなくなる」
「当てずっぽうじゃなくなる、って言うが、今までだって当てずっぽうでうまくいったじゃないか」
「うまくいったのは一回だけです。運が良かっただけかもしれない」
「運じゃ駄目なのか」
「駄目です。壁は運で持たせるものじゃない」
「運で持たない壁って、じゃあ何で持たせるんだ」
「記録です。何番の配合が、何日経って、どうなったか。それを見て決める壁です」
バルガスが腕を組み、七つの桶を見回した。
「石工が、壺焼きの真似事か」
「真似事じゃない。これは記録です」
「記録なんぞ、俺の頭に叩き込んである。何百枚積んだ石垣も、癖まで覚えてるぞ」
「あんたの頭に、ですよね」
「当然だろう。俺の腕だ」
「あんたが倒れたら、その記録はどこに残るんです」
バルガスの眉が、ぴくりと動いた。
「……何が言いたい」
「記録は、俺が死んでも残る。木札に刻んだ数字は、誰にでも読める」
「俺の腕は、そこらの木札より確かだぞ」
「確かです。でも次の代の石工は、あんたの腕を継げない。木札なら継げる」
村人たちが顔を見合わせた。
「次の代……村長のとこの倅にも、わかるってことか」
「わかります。番号と日付を読んで、桶を叩いて硬さを確かめればいい」
「それだけで、いいのか」
「それだけでいい。難しい術も、才能もいらない」
「才能がいらない、ねえ」
バルガスがしばらく黙り、やがて自分の鑿を桶の縁に当てた。
「……一番、と刻めばいいのか」
「刻んでください。灰は東の谷、石灰石は昨日と同じ焼き方です」
「二番は」
「西の谷の灰です。今崩れたやつと同じ配合で、もう一度作ります」
「同じ配合で、また崩れたらどうする」
「崩れたら、西の谷の灰は使えないと確定する。それも記録です」
「失敗しても、記録になるのか」
「失敗こそ記録です。うまくいった話しか残さないのは、記録とは呼ばない」
「三番から七番は」
「灰の比率を少しずつ変えます。多い順、少ない順で試せば、真ん中が見えてくる」
子供たちが桶の周りに群がり、番号札を一つずつ立てていく。
「三番できた! 四番も!」
「五番、灰が足りないってさっき言ってたろ」
「足りたよ、隣の家から借りた!」
「六番はどこの灰使うんだ」
「川向こうの灰だ、爺さんが持ってきた」
「七番は誰の担当だ」
「俺だよ! 一番端っこの、一番でかい桶!」
日が傾く頃には、七つの桶がすべて番号と日付を刻まれて並んでいた。
ケンジは木板にその一覧を書き写し、村長の家の壁に掛けた。
「明日の朝、また見に来ます。誰でも見られる場所に置いてください」
「誰でも、ですか」
「誰でも。これは俺だけのものじゃない」
「あんたが留守にしてても、村の連中だけで確かめられるってことか」
「そうです。それが目的です」
夜、村が寝静まった頃、ケンジは水を確かめに広場へ戻った。
七つの桶の前に、フードを目深にかぶった人影がしゃがみこんでいる。
「リリアーナさん?」
彼女は振り向かず、七番目の桶にそっと指を触れさせていた。
月明かりが、彼女の指先の灰色をうっすらと照らし出す。
「これで、明日には全部わかります」
「わかるって……」
「全部、確かめておきました。硬くなっているか、いないか」
ケンジは桶を順に見た。一番から七番まで、崩れていたはずの二番までもが、灰色の光沢を帯びて硬く固まっている。
小さな軋みが桶の間から連続して聞こえ、まだ熱を帯びた表面がわずかに白く煙っていた。
「待て」
「はい?」
「……全部に触ったのか」
リリアーナが小さく頷き、灰色を帯びた指先を月明かりにかざした。
ケンジの顔から、血の気が引いていった。




