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「もう十分だろう」と村議会に迫られた俺、七十枚の記録板で黙らせる

「もう十分だろう、ケンジ殿」


集会所の中央に、ケンジは一人で立っていた。


薄暗い灯りの下、板張りの床がぎしりと軋む。


村人たちが半円に並び、値踏みするような目を向けてくる。


蝋燭の芯が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いていた。


煙が天井近くに薄くたなびき、灯りの輪の外はほとんど闇に沈んでいる。


「これ以上、村の人間を危険にさらす気か」


「トトの足が動かなかったら、どうするつもりだった」


「動いたから、良かったじゃないですか」


「動かなかったらどうするつもりだったか、と聞いている」


「それは……」


「答えられまい。お前の壁は賭けだ」


「賭けに、村中を付き合わせているんだ」


「リリアーナ様の腕もだ。もう見ていられん」


「あの方は、自分で選んで触れたんです」


「選ばせた奴の責任を、聞いてるんだ」


「他人事みたいに言うんじゃない、あんたの技術のせいだろう」


「答えろ、ケンジ。まだ続けるつもりか」


「続けるとしか、言えないんですか」


「言えるものなら、こっちが聞きたいくらいだ」


「不安なのは、俺たちも同じなんです」


「不安なら、なおさらやめておけって話だ」


「不安だからこそ、確かめておきたいんです」


誰かの手が板壁を叩いた。


その音に、居並ぶ村人たちの視線がいっそう鋭くなる。


すすり泣くような子どもの声が、後方の暗がりから小さく漏れた。


村長が咳払いをひとつ挟んだ。


「ケンジ殿、言い分があるなら聞こう。これが最後の機会だ」


「時間はどれだけもらえますか」


「今、ここでだ。それ以上は待てん」


「一晩ではだめですか」


「一晩あれば、何が変わる。今すぐ答えろ」


「分かりました」


ケンジは背負っていた麻袋を床に下ろす。


紐を解く指先が、かすかに震えていた。


喉の奥が渇いて、唾を飲み込む音が自分の耳にまで届く。


「これを見てください」


木の記録板が、どさりと山になって床に広がった。


乾いた木の音が、静まった集会所に響く。


板の角に刻まれた数字が、灯りを受けて鈍く光っていた。


「なんだ、これは」


「打った日、区画の番号、触媒を使ったか使わなかったか、崩れた場所——全部書いてあります」


「板切れが何の証拠になる」


「証拠にならないなら、あんたの目で確かめてください。七十枚あります。数えてもらって構いません」


「七十枚も、いつの間に」


「毎日、打つたびに書いてました。誰にも見せずに」


村人の一人がしゃがみ込み、板を一枚拾い上げる。


指先でなぞるように、刻まれた数字を読んでいく。


隣の男もつられてしゃがみ、別の板を手に取った。


「本当だ……日付が全部違う」


「一枚一枚、別の日に打ったってことか」


「そうです。区画ごとに、打った日も条件も変えてます」


「赤い印は触媒で固めた区画、緑は普通に固めた区画です」


「それがどうした」


「赤は全部、どこかにひびが入ってます。緑は一つも入ってない」


「一つもか」


「一つもです。四十以上あるうち、緑は七つしかありません。でも、その七つは崩れていない」


「じゃあ、なぜ最初からそっちを選ばなかった」


「速さを優先しました。それが、間違いでした」


「崩れたのは、七番だけだったろう」


「あれは触媒とは無関係です。丸太で潰した試験荷重の傷です。区別してください」


「早く固めた方が壊れやすいってことか」


「そうです。だから、決めました」


ケンジは村人たちを見渡した。


板の山に、灯りの影が長く伸びている。


息を吸う間、集会所の誰も口を開かなかった。


「触媒は、もう使いません」


どよめきが広がる。


「使わなきゃ、もっと時間がかかるだろうが」


「かかります。今までの倍、二十日は」


「悠長なこと言ってる場合か! スタンピードが——」


「間に合わせます。でも、遅くても確実な方を選びます」


「確実だという保証はどこにある」


「保証は、これです」


ケンジは足元の板を一枚拾い上げ、頭上に掲げた。


木目の間に刻まれた数字が、灯りの下でくっきりと浮かぶ。


「この七枚です。崩れなかった区画は、全部これと同じ手順で打ってます」


「同じ手順というのは、どこまで同じなんだ」


「配合の割合、練る時間、型枠から外すまでの日数——全部、板に書いた通りです」


「魔法で早く固める方が良いに決まってる」


「魔法は、リリアーナ様にしか使えません」


言葉が、集会所に染み込んでいく。


村人の何人かが、顔を見合わせた。


「これは違います。誰が打っても、同じ壁になる」


「誰でも、だと」


「女でも、子どもでも、できるのか」


「型枠に流して、決まった時間待つだけです。才能はいりません」


「本当に、俺にもできるのか」


「できます。手順さえ守れば」


「手順を間違えたら」


「間違えたら分かるように、記録を取ります。今日みたいに、板に残します」


「記録が、そんなに大事か」


「大事です。誰か一人の勘に頼った瞬間、その人がいなくなれば壁も終わる」


「誰かって、リリアーナ様のことか」


「俺のことでもあります。俺がいなくなっても、板さえ残れば壁は建てられる」


バルガスが、腕を組んでいた両手を解いた。


木の椅子が、彼の体重を受けてぎしりと鳴る。


「型枠は、俺が組む」


全員の視線が石工の棟梁に集まる。


「棟梁——」


「誰が組んでも同じ形になる型枠だ。俺が図面を引く」


「本気ですか、バルガス様」


「本気じゃなきゃ、こんな面倒な口は挟まん」


「今まで散々、泥の塊と呼んでいたのに」


「呼んでたさ。だが鉄槌で砕けなかった塊を、俺は忘れちゃいない」


「あれ一つで、考えが変わったんですか」


「一つじゃない。七十枚だ。数がものを言うと、さっきそいつが言ったばかりだろう」


低い笑いが、村人たちの間に漏れた。


張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


誰かが小さく肩の力を抜くのが、灯りの下でも見て取れた。


リリアーナが一歩、前に出た。


石化した右腕を、もう片方の手でそっと抱えている。


灯りに照らされた指先が、灰色に鈍く光った。


「では、私は」


声が、少し震えていた。


「私は、もう要らないのですか」


集会所が静まり返る。


誰かが息を呑む音だけが、かすかに聞こえた。


ケンジは彼女の目を、まっすぐ見た。


「要ります」


「でも、触媒は——」


「あなたが要らない壁を作ります」


「それは、矛盾していませんか」


「矛盾じゃありません。あなたの手を、壁のために差し出す必要をなくすだけです」


リリアーナの瞳が揺れた。


「それが、あなたを助けるってことです」


「私を、助ける……」


「あなたの手を借りなくても村が守れるなら、あなたはもう、腕を差し出さなくていい」


「借りない方が、私のためだと」


「そうです。あなたの腕は、あなたのものだ。壁のために使うものじゃない」


「私は、何のために——」


「そばにいてくれるだけで、十分です」


「それだけで、いいんですか」


「それだけがいいんです」


「役に立たなくても、ですか」


「役に立つ立たないの話じゃない。あなたがあなたのままでいることの話です」


誰も、言葉を挟めずにいる。


村長が、深く息を吐く。


板の山を一瞥し、それから顔を上げた。


「分かった。ケンジ殿の方針で続ける。異論のある者は」


手を挙げる者は、いなかった。


「よし。可決だ」


安堵のため息が、集会所いっぱいに広がっていく。


バルガスがケンジの肩を叩いた。


分厚い手のひらの重みに、ケンジは思わずよろめく。


「明日から図面を引くぞ、覚悟しとけ」


「望むところです」


「口だけじゃないだろうな」


「口だけなら、板は七十枚も書けません」


「減らず口だけは一人前だ」


「棟梁譲りです」


そのとき、扉が勢いよく開いた。


外気が吹き込み、灯りの炎が大きく揺れる。


「大変です!」


見張りの男が、息を切らして飛び込んでくる。


膝に手をつき、肩で息をしていた。


「魔物です! 火口の方角から、群れが——」


「落ち着け。予定はまだ先だろう」


「違うんです、村長!」


男の声が、裏返った。


「予定より、十日早い!」


集会所の空気が、一瞬で凍りついた。

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