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11/28

崩落した壁の代わりに、棟梁が「丈夫な方へ来い」と魔物を誘い込んだ

火口の方角から、黒い帯が斜面を這い上がってくる。


数えることを拒むほどの数だった。


先頭の影が松明の光を弾き返し、濡れたような黒さで蠢いている。


低い唸り声が幾重にも重なり合い、地鳴りのような響きになって壁を包んでいく。


風向きが変わるたび、獣の臭気が濃くなったり薄れたりした。


「来た……! 数えきれん……!」


「怯むな! まず小型から食い止めるぞ!」


バルガスの怒声が壁の上に響く。


「小型と言うが、どれだけ来るんですか」


「知るか! 来た分だけ叩き落とせ!」


「叩き落とせって、そんな単純な話ですか」


「単純だから、今すぐできるんだろうが!」


「理屈はいいから手を動かせ、ケンジ!」


「分かってます、動いてます!」


犬ほどの魔物が先頭を切って壁に突っ込んできた。


爪が土に食い込む音、牙が石を噛む音が重なる。


板を張った足場が、その衝撃でびりびりと震えた。


足の裏に伝わる振動が、次から次へと途切れなく続いていく。


「手順区画、無傷です!」


「本当か、確かめたのか!」


「ひびの一本も入ってません!」


「緑の方は弾いてる、押し返してる!」


「触媒区画は——」


「亀裂だ! 昨日の亀裂が広がってる!」


「広がってるって、どのくらいだ!」


「指一本分は、もう!」


「まだ耐えてる、まだ崩れちゃいない!」


「耐えてるだけで、安心していいのか」


「安心なんかしてません、次を見てるだけです」


「ケンジさん、これで持ちこたえられますか」


「小型のうちは、まだです」


「まだって、この後もっと来るってことですか」


「はい。これは前座です」


「前座って、こんなのが前座か!」


「本番はこの後、中型です」


「中型って、どれくらいでかいんだ」


「牛くらいです、たぶん」


「たぶんって、行ってから確かめるつもりか!」


「たぶんしか言えないから、板に書いてきたんです」


「板に書いたって、今この場でどう役に立つんですか」


「配合と型枠の日数が分かってれば、崩れる場所の予想がつきます」


「予想がつくなら、先に言え!」


「言ってます、今言ってます!」


誰かが息を呑む音が、壁の上を伝っていく。


松明の炎が風にあおられ、右へ左へと大きく揺れた。


炎の影が板壁の木目を這い、消えてはまた伸びる。


焦げた油の匂いと、獣じみた魔物の臭気が入り混じって鼻を突いた。


「見ろ! あそこだ!」


牛ほどの体躯を持つ魔物が、地響きを立てて斜面を駆け下りてくる。


角を低く構え、まっすぐに壁へ向かってきた。


「触媒区画に向かってる、まずい!」


「避けられないのか!」


「避けるも何も、進路はあっちが決めてる!」


「もう遅い、直撃するぞ!」


「みんな下がれ、巻き込まれるぞ!」


「早く、板を持って離れろ!」


轟音とともに、赤い印の区画が内側へ沈み込んだ。


砕けた石片が飛び散り、粉塵が松明の炎を白く染める。


咳き込む声と、悲鳴に近い声が同時に上がった。


土埃の向こうで、崩れた壁の断面がぼんやりと浮かび上がっている。


砕けた断面には、赤い印を刻んだ板と同じひびの走り方が見えた。


「崩れた……!」


「触媒区画が、崩れた!」


「ケンジさん!」


「そこは——もたない!」


ケンジの声が裏返る。


崩落の穴から、次の魔物が牙を剥いて飛び込もうとしていた。


「穴が開いた、そこから中に入られる!」


「誰か塞げ! 早く!」


「間に合わない、距離が——」


「板で塞ぐか、いや無理だ、間に合いません!」


「俺が塞ぐ、いや違う——流れを変えろ!」


バルガスが鉄槌を頭上に掲げ、崩落の穴の脇へと躍り出た。


「聞け! 俺が組んだ型枠の方だ! そっちへ流せ!」


「棟梁、どういう——」


「緑の区画は割れてない、まだ立ってる! 松明でそっちへ追え!」


「魔物を誘導するってことですか」


「そうだ、崩れた穴に誘い込まれるくらいなら、丈夫な方にぶつけろ!」


「でも、そっちも耐えられるかどうか——」


「耐えると言ったのは、お前だろうが、ケンジ!」


「……言いました」


「なら信じろ! 松明持ちはこっちだ、穴の前を空けるな!」


「棟梁、指示は!」


「右から回して、左の松明で追い込め! 迷うな!」


「追い込んで、外れたらどうするんですか」


「外れたらまた追う、それだけだ! 突っ立ってる暇はないぞ!」


「分かりました、右から回します!」


村人たちが松明を掲げ、崩落の穴の左右に並んでいく。


炎の壁が、魔物の進路を少しずつ押し曲げていった。


濃い煙のにおいの中、松明を握る手の甲に汗が光っている。


「効いてる! 群れが逸れてる!」


「手順区画の方へ向かってる!」


「持ちこたえられるのか、あっちは!」


「七枚の板が嘘じゃなければ、な」


バルガスが低く笑い、鉄槌を握り直す。


「俺の型枠を信じてなかったのか、棟梁」


「信じてるさ。だから今、命を賭けてる」


「賭けって、また賭けの話ですか」


「今度の賭けは、勝ち目がある賭けだ」


「勝ち目があるって、根拠は」


「根拠はお前の板と、俺の腕だ。それで十分だろうが」


「十分だと言われても、まだ心臓が跳ねてます」


「跳ねてるくらいでちょうどいい。止まったら終わりだ」


地面が、これまでとは違う震え方を始めた。


一段と重く、腹の底に響く揺れだった。


足場を支える丸太が、きしみながら軋む。


「なんだ、この揺れは……」


「まさか——」


見張りの一人が、斜面の奥を指差して叫んだ。


「大型です! 家ほどの図体が、こっちに——!」


「どこへ向かってる!」


「手順区画です! まっすぐ、手順区画に向かってます!」


「よりによって、そっちか……!」


「よりによってじゃない、狙われたんだ、崩れた方が塞がれてるからだ!」


「じゃあ、防げるのか、あの型枠で!」


「防げるかどうかは、これから分かる!」


「分かるじゃ困る、今すぐ答えろ!」


「答えは、あれが壁にぶつかった瞬間に出ます」


ケンジは崩れた触媒区画の残骸を一瞥し、それから視線を上げた。


巨大な影が、月明かりの中を斜面伝いに近づいてくる。


その体軀は松明の炎を丸ごと吸い込むほどの黒さで、輪郭だけが月光に縁取られていた。


「バルガスさん、あの図面通りの型枠、本当にもちますか」


「もつかどうか、これから証明するんだろうが」


「証明、失敗したら」


「失敗する前提で聞くな。次の板に書くことを考えとけ」


「板に書く余裕なんて、今——」


「余裕がなくても書け。それが二十日かけた意味だろうが」


「二十日、無駄にはできませんね」


「無駄にする気なら、最初から手伝ってねえよ」


魔物の巨躯が咆哮を上げ、地を蹴った。


土煙が壁の松明を揺らし、影が壁面を這い上がってくる。


その影が、手順区画の表面にゆっくりと重なっていった。


激突の衝撃が、足の裏から脳天まで突き抜けた。


轟音は一度だけで、その後は不気味なほど静かだった。


土煙の向こうで、村人たちが誰も声を出せずにいる。


「壁は……」


「見えない、粉塵で何も見えません!」


「風を待て、風向きが変わるまで動くな!」


「待てって、そんな悠長な——」


「動いて崩れたら元も子もないでしょう!」


やがて風が斜面から吹き下ろし、白い粉塵を横へ流していく。


粉塵の切れ間に、緑の印を刻んだ壁面が姿を現した。


亀裂は、一本も走っていない。


「……立ってる」


「立ってます、崩れてません!」


「本当か、よく見ろ、隅まで見ろ!」


「隅まで見ました、ひびすらありません!」


魔物は壁の前でよろめき、後ずさるように向きを変えた。


角を低く下げたまま、群れの流れに押し戻されていく。


「効いてる、押し返してる!」


「弾き返したのか、あの型枠が!」


「弾き返したんじゃない、耐えたんです、ただそれだけです」


「ただそれだけで、大の男が肝を冷やすには十分だ」


バルガスが息を吐き、鉄槌を足元に下ろした。


「二十日かけた意味は、あったみたいだな」


「まだ終わってません、次が来ます」


「分かってる。だが今の一撃には勝った、それは動かん事実だ」


「勝ったって言って、いいんですか」


「言わなきゃ、村の連中が持たん。今だけは言わせろ」


歓声とも悲鳴ともつかない声が、壁の上に沸き起こった。


村人たちが松明を掲げ、崩れなかった壁を口々に指差している。


リリアーナが石化した右腕を抱えたまま、壁を見上げていた。


「これが……ケンジさんの、二十日」


「そうです。板一枚、一枚の積み重ねです」


「積み重ねが、あの図体を止めたんですね」


「止めたのは俺じゃない、緑の区画とバルガスさんの型枠です」


「あなたの記録がなければ、型枠は組めなかったはずです」


「それを言うなら、あなたが最初に触ってくれた区画があったから、比べられたんです」


火口の方角では、まだ黒い帯が斜面を這い続けている。


第二陣の唸り声が、風に乗って低く響いてきた。


「棟梁、休んでる暇はなさそうです」


「分かってる。だが一つ勝ったんだ、次も勝てる」

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