煤けた原本と在庫の照合。「数字は嘘をつかない」品質管理技士が暴き出す、筆頭魔導師による『三分の一』の中抜き劇
療養中のクラインの寝台に、原本の束が広げられている。
「日没まで……六時間、あるな」
包帯を巻いた腕で、クラインが紙をめくろうとして顔をしかめた。
「無理に動くな。俺がやる」
「でも、量が」
「量は多いが、時間は決まってる。文句を言ってる暇はない」
「六時間で、全部読めますか」
「読めるかじゃない。読むんだ」
紙束は、片手では持ちきれないほどの厚みがある。表面はどれも煤で黒ずみ、端が焦げて丸まっていた。
リリアーナが布を絞り、煤の付いた紙を拭う。指先が灰色のまま、紙の端をなぞった。
黒い水が布に染み込み、下から茶色く変色した紙面が現れる。
「痛くはないんですか、その手」
「これくらいでは、何も感じません」
「感じないのが、逆に心配なんだが」
「今は、それどころではありません」
「それどころじゃない、で押し通す癖、直した方がいいぞ」
「直す時間があれば、直します」
「減らず口だけは達者だな」
「褒め言葉として受け取ります」
ケンジが一枚を光にかざし、目を細める。煤の粉が舞い、鼻先に灰の匂いが漂った。
窓から差し込む光の角度に紙を傾けると、インクの凹凸が影になって浮かび上がる。
「ここ、数字が二重に書かれてる」
「二重って、書き損じですか」
「いや。上から別の数字が重ねてある。誰かが書き直した跡だ」
「書き直したのは、いつです」
「わからん。だが元の数字が透けて見える。三の下に、二が隠れてる」
「三十が、本当は二十だったってことですか」
「まだ断定はできない。他のページと突き合わせてからだ」
「一枚だけで決めつけるのは、危険だと」
「そうだ。焦って結論を出すと、後で全部覆る」
「慎重すぎませんか、この状況で」
「慎重すぎて困ることはない。逆はある」
クラインが咳き込みながら、紙束を引き寄せる。喉の奥から絞り出すような、乾いた音が響いた。
「俺も読みます。目は使えますから」
「無理はするなと言っただろう」
「寝てるだけの方が、無理です」
「意地を張って倒れたら、余計に時間を食う」
「倒れません。それより、手を動かした方が早い」
「頑固なところは、誰に似たんだ」
「さあ。師匠にでしょうか」
「俺のせいにするな」
紙をめくる音と、布で拭う音だけが続く。窓の外の光は、まだ高い位置にあった。
三人の呼吸だけが、部屋の静けさを埋めていく。
「……これは、七番の樽の記録だ」
ケンジが一枚を掲げる。文字の輪郭が、ようやく読める形になっていた。
「発注、三十とある」
「三十、確かにそう書いてありますね」
「筆跡は同じか」
「同じです。崩し方まで、ガレン様の癖が出てます」
「癖まで見分けられるのか」
「毎日、あの方の署名を見てましたから。嫌でも覚えます」
そこへ、伝令の少年が息を切らして駆け込んできた。
「トトさんから、照合データです! あと二十三日、村の在庫は!」
「ご苦労。中身を」
クラインが封を切り、紙を広げる。目を走らせた瞬間、表情が固まった。
指先が紙の上で止まり、細かく震え始める。
「……合わないぞ」
「何がだ」
「七番の樽、王都の原本では発注三十。でも村では、二十しか届いてないと書いてある」
「トトの数え間違いじゃないのか」
「トトが間違えるとは思えません。あの子は几帳面です」
「几帳面でも、人間だ。数え違いくらいはある」
「断言できるんですか、会ったこともないのに」
「断言はしてない。可能性を潰してるだけだ」
「潰すにしても、根拠が薄くないですか」
「薄いから、これから確かめる」
ケンジは二枚の紙を並べ、じっと見比べた。指先が数字の上を、行き来する。
紙面と紙面の間を、視線が三度、四度と往復した。
「……いや、違う」
「違うって、何が」
「これは数え間違いじゃない」
「じゃあ何なんですか、この十の差は」
「単位の取り方が、そもそも違う。王都の原本は発注した時点の数を書く。村は、実際に届いた数を数える」
「同じ数字を、別の時点で数えてるってことですか」
「そうだ。だから本来は、二つの数字は一致しなきゃおかしい。発注した分だけ、届くはずだからな」
「それが一致してないなら」
クラインの声が、震える。
「途中で、誰かが抜いたってことか」
「そう考えるのが筋だ」
「でも、証拠と言い切れますか。ただの記録違いかもしれない」
「一件なら記録違いで片付く。だが」
ケンジは紙を一枚ずつめくり、指で数字をなぞっていく。乾いた紙の音が、部屋に規則正しく響いた。
一枚めくるごとに、小さな沈黙が挟まる。
「八番も、十番も、同じ幅で足りない」
「同じ幅、ですか」
「毎回、注文の三分の一が消えてる。偶然でこの幅が揃うか?」
「三分の一……毎回、同じ割合で」
リリアーナが息を呑む。
「これが、全部同じ人の手なら」
「発注書を書いた人間が、最初から差を作ってる。多く注文したように書いて、実際は少なく発注し、差額を懐に入れた」
「待ってください、間違ってたら」
クラインが紙を握る手に力を込める。包帯の上から、うっすら赤みが滲んだ。
「間違ってたら、俺たちの立証は根底から崩れます」
「わかってる」
「わかってて、言うんですか」
「言う。これだけ幅が揃ってる時点で、事故じゃない」
「確信、あるんですか」
「確信はある。だが最後に決めるのは、審問の場だ」
「俺たちが決めることじゃない、と」
「俺たちは材料を揃える。決めるのは、もっと上だ」
「材料を揃えるだけで、済むと思いますか」
「済ませなきゃならない。それが俺たちの役目だ」
沈黙が落ちる。リリアーナが石化した右腕をそっとかばいながら、紙束の残りを引き寄せた。
灰色の指先が、紙の縁でかすかに止まる。
「まだ、残りがあります」
「読もう。日没まで」
「はい」
紙をめくる音が再び満ちる。窓の外、光が少しずつ傾いていく。
「あとどれくらい、残ってますか」
「半分もない。急げば間に合う」
「急ぎすぎて、見落としませんか」
「見落とすくらいなら、最初から確信なんて持たない」
「その自信、どこから来るんです」
「自信じゃない。数字を信じてるだけだ」
「……全部、同じだ」
最後の一枚を置き、ケンジが息を吐く。
「七番、八番、十番、十二番。全部、三分の一前後が抜けてる」
クラインが呆然と紙束を見渡す。指先が、乾いた紙の表面をなぞる。
「毎回、同じ手口で」
「発注数を水増しして、実際より多く注文したように見せかけ、差額を着服してた」
「なぜ……なぜ、そんなことを」
「理由なんて、決まってる」
ケンジの声が、静かに硬くなる。
「私腹を肥やすためだ。それと、自分の失策を隠すためだろうな」
「筆頭様が、そんな理由で……」
クラインの声が掠れる。
「大それた陰謀か何かだと思ってました。でも、こんな……」
「単純な理由だったとはな」
「単純だからこそ、隠しやすかったのかもしれません」
「誰も、疑わなかったんですか、今まで」
「疑う理由がなかった。発注書は、いつも筆頭様の署名入りだったから」
リリアーナが灰色の指先を握りしめる。
「これで、審問に持ち込めますか」
「持ち込める。数字は嘘をつかない」
窓の外の光が、赤く染まり始めていた。
「あとは、これをどう突きつけるかだ」




