【崩落事故】「半歩奥だ」五年鍛えたコンクリート技士の耳と令嬢の正確な計測が、二次崩落を止め不正を暴く
鐘の音が、三度連打された。
「先遣隊、接触! 距離まだあります!」
見張りの声に重なって、ピシィ、と乾いた軋み音が響く。
金属を擦り合わせたような、耳障りな高音。
「……今のは」
ケンジが顔を上げる。音の出所は、記録庫裏の資材置き場——魔晶石で組んだ支柱区画だ。
「今の音、聞こえたか」
「鐘の音だろう」
「鐘じゃない。もう一つ、重なって鳴った」
「気のせいじゃないのか」
「気のせいなら、俺の耳はとっくに壊れてる」
焦げた埃の匂いが、風に乗って流れてくる。
「その匂いは」
「魔晶石が焼けてる匂いだ。過負荷を起こしてる証拠だ」
「過負荷って、どのくらい持つ」
「わからん。だから今すぐ確かめる」
「クライン、離れろ!」
「まだ書類が」
「後だ! あそこは持たない!」
「持たないって、根拠は」
「根拠を説明してる暇はない! いいから離れろ!」
クラインは記録庫から運び出した原本の束を抱えたまま、動けずにいる。
「音、聞こえたか」
「軋んだだけだろう」
「軋んだだけじゃない。あれは荷重が動いてる音だ」
「大げさな」
「大げさで済むなら、そうしてくれ」
「五年前も、そう言って結局本当に崩れたのか」
「今それを聞くか、お前」
言い終わる前に、区画の内側から低く重い音が響いた。地面そのものが呻くような、腹に響く音。
「うわ……っ!」
クラインの足元で地面が沈む。柱の一本が傾き、瓦礫が崩れ落ちてクラインを呑み込んだ。
土埃が一気に舞い上がり、視界が白く濁る。
「クライン!」
リリアーナが駆け寄ろうとする。
「近づくな! まだ崩れる!」
「でも、クラインが」
「見てる。見てるから待て」
「待てって、今にも」
「待てと言ったら待て。焦って踏み込めば、次はお前が埋まる」
近衛兵が二人、瓦礫の縁に走り寄る。片方が支保梁を担ぎ、手前の隙間へ差し込もうとした。
丸太の断面が、崩落の埃で白く粉を吹いている。
「そこじゃない!」
ケンジが叫び、腕を掴んで止める。
「なぜ止める、ここが一番広く空いてる」
「広いのは崩れた後だからだ。今、荷重が動いてるのは奥の柱の付け根だ」
「音でわかるのか、そんなことが」
「わかる。五年、聞いてきた耳だ」
「耳だけを信じろと言うのか、この状況で」
「他に何がある。目で見えるのは、もう崩れちまった後の形だけだ」
「半歩奥だと言うのか」
「半歩奥だ。そのまま入れれば、支えたつもりが逆に押し込む。二次崩落を早めるだけだ」
「間違ってたら、お前の指示のせいで死人が出るぞ」
「間違ってない。今この瞬間も、奥の柱は軋み続けてる」
近衛兵の顔が強張る。額に汗が浮き、瓦礫の隙間を睨んだまま動かない。
「……賭けるしかないな」
「賭けじゃない。音がそう言ってる」
「外れたら」
「外れたら、俺が真っ先に詫びる。今は動け」
支保梁の先が、半歩分ずれて差し込まれる。ギ、と軋んで、瓦礫の沈下が止まった。
「止まった……」
「まだ安心するな。リリアーナ様、亀裂の幅を読んでくれ」
「私が、ですか」
「今、それができるのはあんただけだ。声に出して、数字で頼む」
リリアーナが瓦礫の縁にしゃがみ、右手を伸ばす。石化した指先が、亀裂の際をなぞった。
指先の灰色が、砕けた石の色にほとんど溶け込んで見えた。
「二寸……いえ、まだ広がってます、三寸!」
「広がる速さは」
「ゆっくりです、でも止まってはいません」
「止まってないなら、まだ動いてるってことだ」
「あと二、三分ってところか」
「もっと短いかもしれません」
「短い方であてにする。なら急ぐ。今の支保が持ってるうちに引き出す」
近衛兵が瓦礫の隙間に腕を差し入れる。木片が肌を擦り、小さく呻く声が漏れた。
「入った、支えは持つ! 今のうちに引け!」
もう一人がクラインの腕を掴み、力任せに引きずり出す。埃と小石が滑り落ち、クラインの体が瓦礫の外へ転がった。
「……生きてるか」
ケンジが問う。
「生きて……ます、たぶん」
クラインが咳き込みながら答える。
「たぶんじゃ困る。動くか」
「動きます。打っただけです、たぶん」
「たぶんばかりだな、お前」
「今は許してください」
「許すかどうかは、ちゃんと立って見せてからだ」
支保梁がまだ軋んでいる。ケンジは音に耳を澄ませ、変化がないことを確かめた。
「……止まってる。もう崩れない」
「本当に、ですか」
「音が落ち着いた。荷重が支保に乗って、そこで止まってる」
「聞き分けられるものなんですね、そんなことまで」
「聞き分けられるようになるまで、五年かかった」
伝令の少年が息を切らして駆け込んでくる。
「村から連絡です、あと二十四日、異常なし!」
「わかった。今はこっちが手一杯だ、後で聞く」
伝令が頷いて去っていく。リリアーナの右腕が、まだ亀裂の方向を指したまま止まっていた。灰色の指先に、傷はない。
◇
瓦礫の上に座り込んだクラインが、握りしめていた紙束を見下ろす。手の甲が擦り傷で赤く滲んでいる。
「……これは」
「どうした」
「原本です。魔晶石の発注記録、改ざんされる前の」
「本物か」
「筆跡があります。ガレン様ご本人の」
「どこで見つけた」
「崩れた棚の下です。埋もれてたのを、瓦礫と一緒に引っ張り出しました」
「命がけで拾ったわけか」
「拾うつもりはなかったです。気づいたら、握ってました」
「間違いないんだな」
「間違いありません。何度も見た字です」
クラインの手が震える。
「これを……ずっと、隠して」
「隠して、どうするつもりだったんだろうな」
「わかりません。でも、隠す価値があると思ったから、隠したんでしょう」
そこへ、足音が近づいてきた。ガレンだった。惨状を一瞥し、眉をひそめる。
「これは、ひどい有様だな」
「筆頭様……」
「お前たちの改修工事のせいだろう。魔晶石区画に手を入れたと聞いている」
「違います。これは先遣隊の混乱に乗じた」
「言い訳は審問で聞こう」
「言い訳ではなく、事実です」
「事実かどうかは、こちらが決める」
ガレンの視線が、クラインの握る紙束をかすめる。だが表情は変わらない。
「四十八時間後、証拠とやらを見せてもらう。それまでに、この惨状の責任も含めてな」
踵を返し、従者を連れて去っていく。
「……見られたか」
「わからない。でも、これは離すな」
「離しません。何があっても」
リリアーナが二人を見つめる。
「クライン、無事でよかった」
「リリアーナ様の読み上げのおかげです」
「私は言われた通りに言っただけです」
「その言われた通りが、命を救ったんです」
「言われた通りにやることが、こんなに難しいとは知りませんでした」
「難しいことを、あんたはやった。それで十分だ」
「怖くなかったんですか、あの数字を読んでる間」
「怖かったです。声が震えないように、必死でした」
「震えてなかった。ちゃんと聞こえた」
「それなら、よかったです」
ケンジは支保梁にもう一度目をやり、静かに息を吐いた。
「今日はここまでだ。だが証拠は、こっちにもある」




