「防壁は三日で崩壊する」――帳簿の記録と単純な算術が暴いた、宮廷魔法の致命的な死角
記録庫の奥で、ケンジは帳簿の山に埋もれていた。
積まれた革表紙が、天井近くまで壁のように連なっている。
埃と羊皮紙の匂いが、鼻の奥にじんわりと染みてくる。
ページをめくるたび、乾いた紙の縁が指先を薄く切りそうになる。
指先に走る小さな痛みも、今は気にならない。
紙に走り書きする。
「十八、三日……」
ペン先が紙を引っ掻く音だけが、静まり返った書庫に響く。
インクが滲んで、数字の輪郭がわずかに滲んで広がった。
滲んだ数字を、ケンジは親指の腹で軽くこすって確かめる。
「その数え方、村と同じだな」
声に振り向くと、埃をかぶった上着のクラインが立っていた。
頬がこけ、以前の身なりの良さは影も残っていない。
目の下の隈が、蝋燭の灯りに濃く落ちている。
「クライン……お前、なんでここに」
「見ての通り雑用だ。記録の整理係に落とされた」
「王都に送還されたんじゃなかったのか」
「送還先が、この棚の番人だったってだけだ」
「皮肉なもんだな」
「笑いに来たなら帰れ」
「そうじゃない。手を貸してほしい」
「お前と話す資格は、俺にはない」
「資格の話はしてない。魔晶石の消費記録、日付順に並べてくれないか」
「なぜ俺に頼む。他にもいるだろう」
「記録の癖を知ってるのはお前だけだ。棚の並びも、書式のクセも」
「褒めてるつもりか」
「事実を言ってるだけだ」
クラインが黙って帳簿を睨む。
視線が紙面の数字の上を、行ったり来たりしている。
「……理由を聞いてもいいか」
「消費率と稼働日数を突き合わせたい。並んでなきゃ比べられない」
「比べて、何が出る」
「出るかどうかは、並べてみないと分からない」
「そんなことのために、俺を使うのか」
「使えるものは使う。他意はない」
「他意がないのが、一番腹立たしいな」
「文句なら並べながら言え」
「暇だからやる。お前のためじゃない」
「それでいい」
「一つだけ聞くぞ。並べ終わったら、何を確かめる気だ」
「石一個がどれだけ保つか。それを稼働日数にかけ合わせるだけだ」
「単純だな」
「単純だから、確かめられる」
クラインが棚から帳簿を抜き取り、机の上に日付順で広げていく。
紙が擦れる音だけが、しばらく続いた。
窓から差し込む光の筋に、埃が細かく舞っている。
光の筋の中を、埃がゆっくりと渦を巻きながら落ちていく。
「村の方はどうだ」
「あと三十三日だ」
「ずいぶん即答だな」
「毎日数えてるからな」
「数えて、何になる」
「数えなきゃ、いつ足りなくなるかも分からない」
「怖くないのか、それ」
「怖い。だから数える」
リリアーナが包みの結晶をそっと確かめ、小さく息をつく。
「変化はありません」
「なら、まだ猶予はある」
「猶予がある、と言い切れるのが羨ましいよ」
「言い切ってるわけじゃない。祈ってるだけだ」
トトが記録板を抱えたまま、二人のやり取りを黙って見ている。
並び終えた帳簿を、ケンジが端から追っていく。
指先が古い紙の縁をなぞり、数字の列の上で止まった。
紙の表面がざらつき、指先に細かい凹凸が伝わってくる。
「……十八個」
「何がだ」
「防壁の稼働に使ってる魔晶石、十八個で固定されてる。増えてない」
「それの何がおかしい」
「消費率を見ろ。一個あたりの持続時間が、ここに書いてある」
クラインが帳簿を覗き込む。
眉間に皺を寄せ、数字の列に顔を近づけていく。
「一個で……四時間半」
「十八個総出で回して、三日分だ。ぎりぎりの計算だぞ」
「三日じゃ、足りないだろ」
「足りない。斥候の報告じゃ包囲は七日以上続く」
クラインの顔から血の気が引いていく。
指先が帳簿の縁を、無意識に強く握りしめている。
「七日と、三日……差が四日もあるじゃないか」
「その四日、誰が埋める」
「誰も、埋めてない」
「だから記録庫にこもってた。誰かが気づいてないはずがないと思ってな」
「誰も、報告してないのか」
「報告しても握り潰されたか、報告するだけの根拠がなかったか」
「どっちにしても、ろくでもない話だな」
「根拠なら、今できたな」
「ああ。あとは、これを信じさせる相手を選ぶだけだ」
「相手を間違えたら」
「四日分の穴は、埋まらないままだ」
◇
近衛隊長の広間に、ケンジは記録板を掲げて立った。
石造りの広間に、自分の声が思いのほか反響する。
「十八個で三日分。包囲は七日以上続く見込みです。三日と七日、四日分足りません」
ヴォルフの目が数字の列を追う。
指先が行間を辿るたび、わずかに眉根が寄っていく。
「本当に、そんな単純な話なのか」
「単純だから、誰でも検証できます。クラインが並べ、俺が数えた。それだけです」
「二人の名で、責任を持てるということだな」
「持ちます」
戸口からガレンが割って入る。
装飾過多な法衣の裾が、床石を擦って乾いた音を立てる。
「田舎者の算術に付き合う暇はない」
「算術に、田舎も王都もありません」
「壁の魔力供給は私が設計した。素人の勘定で口を挟むな」
「勘定は勘です。記録は事実です」
ガレンの眉が跳ね上がる。
「事実だと。どの口が」
「その口です。反論があるなら、同じ記録を見てから仰ってください」
「隊長、こんな戯言に付き合う必要は」
ヴォルフが手を挙げ、ガレンを遮った。
「試験区画を一つ、限定的に認める」
「隊長!」
「数字が合っている以上、確かめない理由がない。結果が出るまでの話だ」
「区画一つで、何が分かるとお思いか」
「何も分からなければ、それも結果だ」
「後悔なさいますぞ」
「後悔は、確かめてからする」
ガレンが唇を噛み、踵を返して広間を出ていく。
法衣の裾がひるがえり、静けさだけが後に残った。
ケンジは息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。外れていたら、次はない」
「外れません」
「その言葉、覚えておく」
◇
広間を出た廊下で、ガレンの部下らしき男がすれ違いざまに声を落とした。
「筆頭様は、魔晶石の増産を秘密裏に進めているそうだ……表沙汰にはできない筋からな」
足音が遠ざかっていく。
ケンジとクラインは、思わず顔を見合わせた。
「秘密裏、ってどういうことだ」
「俺にも分からない。だが、堂々と言えない増産なんて……ロクなもんじゃないだろうな」
「増産できるなら、なぜ十八個のままなんだ」
「それが分かれば、苦労はしない」
「調べるのか」
「調べる。今度は、俺たちの手で」
廊下の奥で、部下の足音がもう聞こえなくなっている。




