「全部を均等に見るから足りなくなる」アラフォー技士は『重点検査』の思考で護衛不足の慣例を打ち破る
村長宅の板の間に、地図が広げられていた。
油の染みた紙の上で、街道を示す線が北へ向かって伸びている。
バルガスの太い指が、王都までの道のりをなぞる。
節くれ立った指先が、地図の端で止まった。
卓を囲むのは、村長とバルガス、そしてトトの三人だけではない。
戸口近くにリリアーナが控え、灯心草の灯りが彼女の白い頬を淡く照らす。
「四人、要る。護衛の数はな」
「出せるのは、自警団の二人だけです」
村長の声が、震えながら板の間に落ちる。
「防壁の補修に、男手は全部取られてる。これ以上は割けん」
「それは分かってる。分かってるが、道理として四人は要るんだ」
「二人で王都まで行けというのか」
「行けと言われても、いないものはいないんです」
「いないものは出せん。だが足りないまま送り出せば、それこそ危うい」
トトが、荷物の点検リストを抱えたまま二人を見比べていた。
紙面の数字を目で追う指先が、落ち着かなげに動いている。
「先生、どうにかならないんですか」
ケンジは答えず、地図の上に指を置いた。
道のりの端から端まで、ゆっくりと指先が滑っていく。
紙の目が、指の腹に引っかかって小さく音を立てた。
「四人要るって、誰が決めた」
「昔からの慣例だ。魔物が出るかもしれん道を、二人で行くのは無謀すぎる」
「かもしれん、で四人分の人手を固定してるってことか」
「慣例には慣例の理由がある」
「慣例を疑うのは、村の指導者としてどうかと思いますが」村長が、眉をひそめて割り込む。
「疑ってるんじゃない。中身を確かめてるだけです」
「理由は聞いた。中身を聞いてる。魔物が出るのは、道のりのどこだ。全部か」
「……全部ではない」
バルガスが、地図の一点を睨む。
眉間に寄った皺が、そのまま声の低さに変わった。
「目撃が集中してるのは、峠の一日だけだ。あそこだけは別格に危ない」
「峠以外は」
「峠以外は、比べればまだましだ」
「なら聞くが、峠以外の日で魔物に襲われた記録はあるか」
「……ここ数年は、ない」
「じゃあ道中ずっと同じだけ危ないって考え方が、そもそも間違ってる」
村長が、顔を上げた。
「では、どうしろと」
「危ないのは峠の一日だけだ。そこだけ人を厚くして、あとは今の二人で回せばいい」
「峠の一日だけ、厚くする……」
バルガスが、腕を組んだまま黙り込む。
太い腕が、胸の前できしむように動いた。
「供試体の検査と同じだ。怪しい区画だけ重点的に見る。全部を均等に見ようとするから人手が足りなくなる」
「疑わしい所だけ、念入りにか」
「そうだ。全区間に四人分の警戒を配るより、峠に集中させたほうが実質の安全は変わらない」
「均等に配るのは、安心のためだろう。実際に守れてるかどうかとは別だ」
トトが、目を丸くした。
抱えていたリストが、思わず胸元でずれる。
「それ、検査のときにいつも言ってることだ」
「そうだ。技術も護衛も、考え方は同じだよ」
「じゃあ、残りの区間を薄くしても平気なんですか」
「薄くするんじゃない。今までと同じ二人で回すだけだ。今までそこで何も起きてないなら、変える理由がない」
「……なるほど」
バルガスが、しばらく地図を睨んだまま黙っていた。
指先が、峠を示す一点の上で何度か往復する。
「弟子を一人、峠の一日だけ出す」
「本当か」
「あいつなら太刀筋も見える。だが」
バルガスの声が、低く沈む。
「一番手のいい奴を抜けば、南区画の補修は遅れる」
「どれくらい」
「……三日だ。四十日に間に合うかどうかも、危うくなる」
村長が、息を呑んだ。
喉の奥で鳴った音が、板の間の静けさに響く。
「それでも、出すと」
「王都に技術を届けられなきゃ、南区画どころか村ごと終わる。三日は呑む」
「三日、必ず取り戻す。約束できるか」
「約束はできん。だができる限りは詰める」
「三日か……」トトが、リストを胸に抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が王都から戻ったら、埋め合わせを考える」
「先生が戻ってくる前提で話すなよ」バルガスが、低く笑った。
板戸が、静かに開いた。
隙間から差し込んだ光が、土間の埃を白く浮かび上がらせる。
若い石工が、緊張した面持ちで敷居をまたぐ。
拳を握った手が、袖の内側でかすかに震えていた。
「峠の一日だけなら、俺が行きます」
「南は、すまん」
「南は……すみません、遅れます。それでも、行かせてください」
「怖くはないのか」
「怖いです。でも師匠が選んでくれた以上、断る理由がない」
「名前は」
「ドルフです」
「ドルフ、峠の魔物について知ってることは」
「群れじゃなく、単独で出るとバルガスの兄貴から聞いてます。動きは速いが、力押しはしてこないと」
「上等だ。頼りにする」
バルガスが、弟子の肩に手を置いた。
厚い掌が、若者の肩をひとつ強く叩く。
「無理はするな。峠を越えたら、すぐ村へ戻れ」
「わかってます」
リリアーナが、副書の束を抱えたまま前に出た。
布で覆われた右手が、束の端をそっと支えている。
「峠での宿と通行の手配は、私が」
「令嬢が、そこまでやる必要は」
「必要かどうかは、私が決めます」
「伯爵家の紋章があれば、峠の関所も優先で通せます。弟子さんの足を止めさせません」
「紋章一枚で、そこまで動くのか」
「動かします。動かなければ、紋章の意味がありません」
「しかし紋章を使えば、伯爵家に借りができます。父君は何と」
「父には後で報告します。今は、弟子さんを一日でも早く峠へ通すことのほうが大事です」
「令嬢自らが動いてくれるなら、峠での足止めは心配いらんな」
ケンジは、地図から目を上げた。
窓の外、傾きかけた日差しが板の間の隅まで届いていた。
「これで四人分の体制になる」
「頭数は変わらんのにか」
「頭数じゃない。危ない場所にだけ、厚みを寄せただけだ」
「記録板は僕が預かります。毎日、数えます」
「頼む。お前の記録は、俺の目より正確だ」
村長が、ようやく肩の力を抜いた。
強張っていた背中が、椅子の背もたれに沈み込む。
「これで、支度が整いますな」
「明日には出発できる」
「では、私はすぐに通行証の手配に」
リリアーナが、袖の中の右手をかばうようにして一礼した。
その夜、荷造りを終えたリリアーナの部屋に、小さな灯りが揺れていた。
蝋燭の炎が、壁に長い影をゆっくりと伸ばしている。
蝋の匂いが、荷袋の革と混じって鼻先をかすめる。
「先生は、きっと止める」
リリアーナは、結晶を包んだ布の結び目をもう一度確かめた。
布に包まれた白い結晶が、荷袋の底へ静かに沈められる。
指先が触れた布の内側で、結晶がひとつ、脈打つように光った気がした。
袖の中の右手が、それを支える指先だけをそっと覗かせていた。
「……持っていきます」
灯りが、彼女の横顔をわずかに照らしていた。
窓の外では、峠へ続く道が闇の中に静かに横たわっている。




