「備蓄の六割を供出せよ」防壁崩壊の危機。追放された技術者は村を守るため『己の頭脳』を身代わりに因縁の宮廷へ乗り込む
王家の紋章を掲げた早馬が、土埃を上げて広場に駆け込んできた。
蹄の音が土を叩くたび、篝火の支度をしていた村人たちの手が止まる。
馬の鼻先から漏れる荒い息が、朝の冷えた空気に白く尾を引いた。
汗に濡れた馬体から立つ湯気が、朝日を受けてうっすらと輝く。
祝いの飾りがまだ揺れる中、馬上の男が声を張り上げる。
「勅令! 備蓄する石灰・火山灰の六割を、五日以内に王都へ供出せよ!」
村人たちの歓声が、一瞬で凍りついた。
昨夜まで浮かれていた広場の空気が、音もなく冷え込んでいく。
誰かの手から落ちた薪が、乾いた音を立てて土の上に転がる。
「応じなければ、近衛が強制徴発する。以上だ」
「……六割、ですと」
村長の手から、収穫祝いの飾りが力なく垂れ下がる。
指の震えが、飾りの紐にまで伝わっていた。
「聞き間違いではありませんな。備蓄の、六割です」
「一言一句、繰り返す必要があるか」
「あと四十日しかないんです。次のスタンピードまで、あと四十日しかない」
「王命だ。事情は聞かん」
「事情も聞かずに、村を潰せと仰るのか」
「潰す潰さないは、お前たちの工夫次第だろう」
「せめて三日、いえ一日でも待っていただけませんか」
「一日たりとも待てん。王都の方が、四十日より切迫している」
バルガスが、崩れた防壁の跡へ視線を落とした。
第九話で崩れたままの石組みが、朝の光の中で黒い影を落としている。
「六割持ってかれたら、あの傷を塞ぐ石灰すら足りなくなるぞ」
「わしらが打ち直した分だけでも、石灰はもうぎりぎりなんだ」
「石灰も火山灰も、山から運ぶだけで半月かかる。今からじゃ間に合わん」
「知ったことか。王都の防壁も、待ったなしなのだ」
急使の声に、苛立ちが滲む。
「先生、このままじゃ壁が塞げないぞ」
トトが、震える声でケンジの袖を引いた。
「言い分があるなら、この場で早馬に乗って直訴でもするか」
「差し出がましいようですが」
ケンジが、村長とバルガスの間から前へ出た。
「材料じゃなく、俺自身を差し出すという手はどうでしょう」
「……何を言っている」
「ただの村の技術屋が、何を差し出せるというんだ」
「石灰は村の防壁に要ります。だが俺の頭の中にある手順は、荷車で運ばなくても紙一枚で運べる」
「手順ごときが、六割の石灰に代わるとでも」
「代わるかどうか、まず聞いてもらえますか」
急使の目が、ケンジを値踏みするように細まった。
「お前が、あの噂の技術者か」
「ハタノ・ケンジです。配合の記録と施工の手順書、そのすべてを写しにして王都へ届けます」
「前例のない話だ。王命は材料の供出であって、紙切れではない」
「材料だけ運んでも、正しく使える者が王都にいなければ意味がない。違いますか」
「屁理屈を」
「屁理屈かどうかは、この村を見てもらえばわかります」
村長が、震える声で割って入った。
「急使殿、この水路をご覧ください。先月、涸れていた畑にまで水が届いたんです」
「水路が、供出の話と何の関係がある」
「同じ配合、同じ手順で作った堰です。今この村にあるのは、運べる石灰の量じゃなく、運べる技術の量なんです」
急使の視線が、水路の先まで動く。
濁りのない水が、朝と変わらず畝の隅々を満たしていた。
日差しを受けた水面が、細かく揺れながら光を弾く。
昨日までは涸れていた畝の端まで、水音だけが規則正しく届いている。
「これが、噂になっていた灌漑か」
「まだ噂で終わらせるつもりですか」
「……たしかに、報告書にあった灌漑の一件か」
「王都にも、これと同じものを作れます。俺が行けば」
「行けば、で済む話か。お前が来なければ手順は紙切れのままだろう」
「紙切れにするかどうかは、そちらの扱い次第でもある」
「言うようになったな、田舎の技術屋が」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「だから俺自身が行く、と言っている」
沈黙が、しばらく広場に落ちた。
リリアーナが、布ごしの右手で副書の端をそっと握りしめる。
肘まで白く硬さを帯びたその手を、彼女は袖の中へそっと隠すように動かした。
バルガスも、息を詰めたまま急使の返答を待っていた。
「二割だ」
「……二割、ですか」
「これ以上は下げられん。石灰は二割、代わりにお前を連れて帰る。それが精一杯の譲歩だ」
「六割から二割まで下げてもらえるなら、十分すぎます」
「十分すぎる、だと」
「四割分の石灰があれば、防壁は補修できる。あとは俺が王都で結果を出すだけだ」
「本当にそれで足りるのか、先生」
「足りる。バルガスの手と、トトの記録があればな」
トトが、詰めていた息をようやく吐き出した。
急使が、懐から書状を取り出した。
羊皮紙の縁が、朝の風にわずかに震える。
「副書を今この場で書き直す。文言に間違いがないか、誰か確認できる者は」
「私が」
リリアーナが、布ごしにしか使えない右手をかばいながら進み出た。
「伯爵家の記録係として、書式の相違を確認します」
「令嬢が、自ら」
「六割という数字が二割に変わるだけで、村の四十日がまったく違うものになります。見落としは許されません」
「……好きにしろ」
急使の筆が、羊皮紙の上を滑る。
「二割」という数字が、墨で滲みながら刻まれていった。
リリアーナの視線が、一文字ずつ、その筆先を追っていく。
「これでよろしいですか」
「日付、供出品目、それから村長の署名欄……間違いありません」
「では、これが正式な副書だ」
急使が馬に乗り直し、手綱を握る。
「ハタノ・ケンジとやら、五日後には迎えの馬車をよこす。支度をしておけ」
「わかりました」
馬首を返しかけて、急使が振り返った。
「言い忘れていたが」
「まだ何か」
「この使命の差配は、宮廷筆頭魔導師ガレン様御自らの決裁による」
その名を聞いた瞬間、ケンジの表情がこわばった。
「……ガレン」
「知っているのか」
「いえ」
「妙な顔をするな。ではな」
急使は答えを待たず、土埃を残して駆け去っていった。
蹄の音が遠ざかり、やがて村の外れの木立に吸い込まれて消える。
広場に、静けさだけが戻る。
「先生、今の顔は」
バルガスが、怪訝そうにケンジを見た。
「何でもない」
「何でもない顔じゃなかったぞ」
「先生、ガレンって、そんなに怖い人なのか」
トトが、おそるおそる尋ねる。
「……昔、世話になった名前だ。それだけだ」
リリアーナが、副書を両手で――右手は布ごしに――抱えたまま、じっとケンジを見つめていた。
「先生。行かせて、本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかは、行ってみないとわからない」
「不安なんですね」
「不安じゃない、と言えば嘘になる」
「なら、私も一緒に」
「駄目だ。お前はここに残って、水路と畑を守れ」
ケンジは水路の先へ視線を移し、それきり口をつぐんだ。




