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壁の次は、田だ――十年不作の村に、技士が「堰」を仕込む

「壁のおかげで、もう魔物は怖くない」


村人の声が、朝日の中で軽やかに響いた。


「怖くない、ですか」


「ああ、あんたのおかげだ、ケンジさん」


「それは、ありがたいですけど」


「けど、なんです。今度は何が気になるんですか」


「素直に喜べない顔してますよ、ケンジさん」


「喜んでますよ。ただ、気になる場所があるだけです」


ケンジは畑の方角へ目をやった。


朝露に濡れた壁とは対照的に、その先の土は白っぽく乾いている。


「あの田んぼ、ずっとあの色ですか」


村人の顔から、笑みがすっと引いていく。


「……気づかれましたか」


「気づくも何も、色がまるで違いますから」


干上がった田に、ひび割れが蜘蛛の巣のように走っている。


しゃがみ込んだ子供が、乾いた土くれを指先で割っていた。


パキ、と乾いた音が響く。


土埃が風に流され、鼻先まで届いてきた。


「バルガスさん、これ、いつからです」


「今に始まったことじゃねえ。毎年だ」


「毎年って、雨季も乾季もですか」


「雨季は川が溢れて畑を洗う、乾季はこの通り干上がる」


「両方って、どういうことですか。矛盾してませんか」


「矛盾なんかしてねえ。土が悪いんだよ、火山灰混じりでな」


「火山灰混じりだと、何がまずいんですか」


「水を溜めておけねえ、突っ切っちまうんだ。かと思えば急に溢れる」


「溢れて、突っ切って、それで収穫は」


「良かった年なんざ、この十年ねえよ」


「十年も、ですか」


「十年だ。壁のことばかり気にして、こっちは諦めてた」


「諦めてたって、簡単に言いますけど、辛かったんじゃないですか」


「辛いも何も、慣れちまえば愚痴も出なくなる。それが一番まずいんだよ」


ケンジは干上がった水路の跡を指でなぞった。


底に、砂利と灰が固まって層を作っている。


ひんやりとした感触の奥に、ざらついた灰の粒が残っていた。


指先に灰の粉が付き、こすると白く筋を引いた。


「これ、何層にもなってますね」


「毎年積もって、毎年削れての繰り返しだ」


「削れて積もってって、水路の役目、果たせてないですよね」


「果たせてたら、こんな話してねえよ」


「壁の心配ばかりしてて、これは見えてませんでした」


「壁があれば安心だと、みんな思っちまってる」


「思ってるだけで、腹は満たされませんよね」


「その通りだ。だが今更どうしろってんだよ」


「上流を見せてもらえますか。水の流れ方を知りたいんです」


「上流なんぞ見て、何が変わるんだよ」


「見てみないと、分かりません」


「見てすぐ分かるようなもんじゃねえと思うがな」


「分からないから見るんです。座って悩んでても、水は流れません」


「屁理屈だな、それ」


「屁理屈でも、足を動かした方が早いです」



リリアーナが先に立ち、川沿いの獣道を登っていく。


草を踏む音と、下草の露が裾を濡らす感触だけが続いていた。


「この先です、ケンジさん。だんだん岩が増えてきます」


「岩が増えるって、地質が変わるんですか」


「私にもよく分かりません。ただ、昔から言われてます」


「言われてるって、何をです」


「あの辺りだけ、水の音が違うって」


「音が違うって、どんな風にですか」


「行けば分かります。言葉にするより、聞いた方が早いので」


「随分、思わせぶりですね」


「思わせぶりじゃなくて、本当に説明が難しいんです」


水音が次第に大きくなり、岩肌が露わになっていく。


見上げるほどの岩盤が、川の両岸から迫り出していた。


飛沫が陽光を弾き、細かな虹の粒になって舞っている。


冷たい水しぶきが頬に当たり、思わず目を細めた。


「ここです。この先は流れが狭くなってます」


「狭くなってる、ということは」


ケンジは岩の表面に手を這わせた。


硬く、目の詰まった手触りが返ってくる。


指の腹に伝わる冷たさの奥に、規則正しい層の凹凸があった。


「これ、火山岩ですよね」


「はい、この辺り一帯そうです」


「硬い岩盤が両岸にある。これなら、堰を作れます」


「堰って、川を塞ぐんですか」


「塞ぐんじゃなく、ここで水を溜めて、必要な分だけ流すんです」


「溜めた水はどうするんですか」


「水路を掘って畑まで引きます。雨季は溢れる前に溜め、乾季はそこから配る」


「そんなことが、本当にできるんですか」


「壁と同じです。手順さえ守れば」


「手順さえ守れば、って、簡単に言いますけど」


「簡単じゃないから、また日数がかかります」


「日数がかかるのは、もう慣れました」


「慣れましたって、あっさり言いますね」


「あなたの二十日を、この目で見ましたから」



バルガスは腕を組んだまま、川面を睨んでいた。


「また同じ手か、ケンジさん」


「同じ手って、悪いことですか」


「悪いとは言ってねえ。だが今度は畑と村の命運が懸かってる」


「壁だって命運が懸かってましたよ」


「壁は魔物相手だ、分かりやすい。水は違う、じわじわ効いてくる」


「じわじわだから、後回しにされてきたんですよね」


「痛いとこ突くじゃねえか」


「突きたくて突いてるわけじゃないです。事実を言っただけです」


「事実ついでに聞くが、いつまでにやるつもりだ」


「次の田植えまでに、一段だけでも水を溜めたいです」


「田植えまで、あと何日だ」


「暦だと、十五日後です」


「十五日で堰なんぞ組めるわけねえだろうが」


「全部は無理です。でも、試しの一段だけなら」


「試しの一段で、何が変わるんだよ」


「間に合わなきゃ、今年もまた種籾を食い潰すことになりますよね」


「……その通りだ。今年も駄目なら、来年の種すら残らねえ」


「だから十五日なんです。悠長にはできません」


「十五日で組むにも、石も人手も足りるかどうか」


「石は、崩れた触媒区画の瓦礫を使います」


「あの瓦礫を、今更使えるのか」


「硬化はしてます。砕いて積み直せば、十分もちます」


「人手はどうする」


「壁を組んだ村人が、もう手順を知ってます」


「知ってるのと、また体を動かすのは別だろうが」


「動いてくれますか、バルガスさん」


バルガスは川面から目を離さないまま、短く息を吐いた。


「……動く。今更後には引けねえ」


村人たちは瓦礫を運び、川べりに小さな型枠を組んでいった。


砕いた石を積み、隙間に砂利を詰め、突き固めていく。


型枠の脇では、子供たちまでが小石を運んで手伝っていた。


「これで、本当に水を止められるんですか」


「止めるんじゃなくて、溜めて、少しずつ流すんです」


「溜めた水は、どこへ流すんですか」


「あの水路の跡へ、まっすぐです」


「まっすぐって、掘っただけの溝ですよ」


「掘っただけでも、水は流れたがるんです」


積み終えた石の上に、ケンジが自作の水位計をそっと差し込む。


木片に刻んだ目盛りが、朝日を受けて白く浮かんだ。


数日後、堰の一段に水が溜まり、目盛りの半ばまで水面が上がっていた。


せき止められた水が、堰の切れ目から水路跡へと流れ込んでいく。


「水路に、水が来てます!」


子供の声が、乾いた畑に響いた。


「本当か、見てみろ!」


ひび割れていた水路の底を、細い水の筋が伝っていく。


乾いた土が、黒く色を変えながら水を吸い込んでいった。


「土が……変わってく」


「湿ってる、本当に湿ってます!」


子供がしゃがみ込み、割っていた土くれに指を這わせた。


「さっきまで、あんなに乾いてたのに」


「これが、堰の水です」


「たった一段で、こんなに変わるんですか」


「一段だから、これだけです。全部組めば、畑中に届きます」


バルガスが水路の水を、自分の指ですくい上げた。


濡れた指先を、しばらく黙って見つめている。


「見たぞ、ケンジさん。今度はこの目で見た」


「壁の記憶じゃなくて、ですか」


「壁の記憶もある。だが今のは、この目で見た今の水だ」


「それで、答えは」


「やるしかねえ。全部組む」


村長が村人たちを引き連れて、川岸まで下りてきた。


「バルガス、お前がそう言うなら」


「俺が保証する。この人の手順は、嘘をつかねえ。もう見た通りだ」


「なら、決まりだな。灌漑の堰、本組みに入るぞ」


村人たちから、控えめなどよめきが上がった。



着工初日、村の入り口に荷車が一台停まっていた。


車輪の軋む音が、砂利道の向こうから近づいてくる。


「旦那、ここがコンクリートの村ですかい」


「行商の方ですか。何か御用で」


「用ってほどじゃねえですが、王都でも噂を聞きましてね」


「噂って、僕のことですか」


「壁を素手で砕けなくした男がいるってね」


「大げさに伝わってるんですね、それ」


「大げさついでに、もう一つ教えてあげますよ」


「もう一つ、なんですか」


「王都でも噂を聞いて、人をよこすらしいですよ」


「人をよこすって、誰がです。何のためにです」


行商人は荷車を引き、もう歩き出していた。


「さあ、そこまでは。あっしも又聞きでね」


「待ってください、詳しく——」


車輪の音が、砂利を踏んで遠ざかっていく。


ケンジは追いかけようとして、足を止めた。


「……誰が、来るんだ」


川風だけが、答えの代わりに吹き抜けていった。

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