婚約編② 甘えてしまった理由――隣で眠れる距離
日曜日の昼食を終え、エリスとリナはメイドとともに買い物へ出かけていった。
アルトは仕事で他国へ出張中で、屋敷には桜とクロトの二人だけが残っている。
桜は居室で、来週に行われる動作訓練の勉強会の資料を読み込んでいた。文章に違和感がないか、構成に問題がないかを確かめながら、ときどき手を止めては隣にいるクロトへ視線を向ける。
クロトは桜と同じ長椅子に腰かけ、本を読んでいる合間に、桜の問いかけに短く答えていた。
「……ここ、少し言い回し変えた方がいいですか」
「もう少し簡潔でもいいかもしれません」
短いやり取りが、自然に続く。
しばらくして、ふと桜は手を止めた。
「クロトさん、本当にお出かけしなくて良かったんですか」
視線を向ける。
クロトは本から目を離さず、わずかに答える。
「一人の方が集中できますか」
桜は首を振り、少しだけ苦笑した。
「いえ、そうじゃなくて……せっかくのお休みなのに、私の仕事のお手伝いをお願いしてしまって、悪いなって」
その言葉に、クロトがようやく顔を上げる。
「サクラといられれば、私はそれで十分なので」
あまりにも自然に言われて、桜は一瞬言葉を失った。
「……はぁ、その……ありがとうございます」
顔が、じわりと熱くなる。なんで、こういうことをさらっと言うんだろう。
思わず視線を逸らす。
ふと気づくと、最初にあった距離はほとんどなくなっていた。
相変わらず胸は落ち着かない。でも、それ以上に、傍にいることの安心の方が強くて。
……もう少しだけ。
そう思って、小さく息を吸う。
「あの……少し、もたれてもいいですか」
クロトがわずかに目を細め、少しだけ間を置いてから答える。
「どうぞ」
そのまま、自然に肩を引き寄せられる。
(……え)
ちょっともたれるだけのつもりだったのに、一気に距離が近づき、鼓動が早くなるのが分かる。
それでも桜は、クロトの胸にもたれて、離れようとは思わなかった。
温かくて、落ち着く……。
そのまま、力が抜けていく。
昨日、遅くまで資料を作っていたせいもあって、じわりと眠気が押し寄せる。
抗う間もなく、意識が沈んでいった。
――どれくらい経ったのか。
「サクラちゃん、寝てる」
声が落ちて、はっと目を開ける。
目の前には、リナの顔があった。
「え、あ……」
ぼんやりしたまま顔を上げると、視界の先にクロトの顔がある。
その瞬間、状況を思い出す。
「あ、え、あの……っ」
慌てて身体を離す。一気に顔が熱くなる。
その瞬間、ほんのわずかに、クロトの腕が動いた。
引き止めるほどではない、ほんの一瞬だけ。
――そのままでもよかったのに。
そう思ったことだけは、確かだった。
ただ、それを口にすることはなく、クロトは何事もなかったかのように視線を戻した。
「ご、ごめんね、えっと……昨日ちょっと遅くて」
言葉がうまくつながらない。
「ほら、リナ。サクラさん疲れてるんだから、起こしてはダメでしょ」
少し離れた場所で、エリスが穏やかに言った。
「はーい」
リナが素直に返事をする。
そのやり取りを聞きながら、桜はまだ落ち着かないまま息を整えた。
でも、さっきまで感じていた温もりは、まだ残っている。
ちらりと視線を向けると、クロトは黙ってこちらを見ていた。
そして――その少し後ろで、エリスと目が合う。
一瞬だけ、やわらかく微笑まれる。
何も言われていないのに、全部見られていたのだと分かる。
「……っ」
一気に顔が赤くなり、思わず視線を逸らす。
「サクラさん、無理はなさらないでくださいね。昨日も遅かったのでしょう」
その言葉に、恥ずかしさが少しだけ和らぐ。
「……はい。ちょっとだけ」
小さくうなずく。
リナが嬉しそうに買ってきた髪飾りを見せ始める。
その話に応じながら、ふと思う。
――あのまま、眠ってしまったんだ。
穏やかな表情でリナの話を聞いているクロトを、ちらりと見る。
さっきの温もりを、つい思い出してしまう。
また、いつか……。
そう願ってしまったことに、少しだけ顔が熱くなった。




