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婚約編③ 触れてしまった理由――はじめての距離

土曜日の夕食は、全員がそろっていた。


アルトとエリス、リナに加え、クロトと桜。

普段より少しだけ賑やかな食卓に、穏やかな時間が流れている。


話題に上がっているのは、2人で進めている結婚式の準備のことだった。


「……来賓の人数、また増えましたね」


桜が小さく息をつくと、


「王宮側からも、参列の申し出が来ています」


と、クロトが簡潔に答える。


準備を進めるほどに、式の規模は少しずつ大きくなっていた。


「……ひっそり行えたらと、話してたんですけどね」


桜はクロトの方を見て苦笑する。


その言葉に、クロトもわずかに眉を寄せた。


「正直、目立つのは私もサクラも得意ではありませんしね」


ぽつりとこぼれた本音に、アルトが肩をすくめる。


「サクラは元巫女で、お前は副師団長だ。そもそも、その規模でも小さいくらいだろう」


あっさりと言い切られ、桜は少しだけ言葉に詰まった。


「……分かってはいるんですけど」


「避けられないことは分かってるよ」


クロトも、少しだけ不満をにじませながら返す。


2人とも理解はしている。

それでも、どうしてもため息が混じってしまう。


その様子を見て、エリスがやわらかく微笑んだ。


「本当に大変ね。でも、仕方のないことだわ」


「そうですね……」


桜は苦笑しながらうなずき、少しだけ空気がゆるむ。


その流れのまま、ふと桜が言いづらそうに口を開いた。


「ドレスも、その……私専用で仕立ててもらっていて、やっぱり1回しか着ないのに、もったいないなって思ってしまって。……もちろん、すごく嬉しいんですけど」


その言葉に、クロトの手がわずかに止まる。


「サクラ」


低い声で呼ばれ、視線が合った。


「前にも言いましたが、それだけは譲れません」


迷いのない口調だった。


「一度きりのことですから」


それ以上は言わない。

けれど、その一言で十分だった。


桜は少し顔を赤くしながら、小さくうなずく。


「……その、分かってます。あの……ありがとうございます」


そのとき――


「サクラちゃんのドレス、かわいかった!」


リナがぱっと声を上げた。


「え?」


思わず振り向く。


「この前、おうちに来た人が見せてくれたやつ! 絵で描いてあったドレス!」


「あ……あのときの」


思い当たって、少しだけ顔が熱くなる。


「うん! きらきらしてて、すごくきれいだった!」


無邪気な言葉に、思わず頬がゆるんだ。


「……ありがとう」


そのやり取りに、食卓の空気がふっと和らぐ。


会話はそのまま続き、穏やかな時間のまま夕食は終わりを迎えた。


部屋に戻り、湯を使ったあと。


髪を乾かしながら、桜は小さく息をつく。


今日の会話が、頭から離れない。


結婚式まで、あと2か月。

準備は順調に進んでいる。


何も問題はないはずなのに、胸の奥がどうにも落ち着かなかった。


嬉しいはずなのに、どこかそわそわする。


「……少し、散歩に行こうかな」


誰に言うでもなく呟いて、部屋を出る。


夜の空気に触れたくて、庭園へと続く道を歩いた。


扉を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でる。


昼間とは違う、落ち着いた庭。

人の気配はなく、灯りだけが控えめに周囲を照らしていた。


石畳の上に、足音が小さく響く。


何を考えるでもなく、ただ歩く。


そうしているうちに少しずつ呼吸は整っていったが、それでも胸の奥のざわつきは消えてくれない。


(……どうしたんだろう、私)


夜空を見上げて、深く息を吸い込む。


「どうしましたか」


不意に背後から声がして、桜ははっと振り向いた。


そこにいたのは、クロトだった。


「クロトさん……」


姿を見た瞬間、不思議なくらい胸のざわつきがやわらいでいく。


クロトは桜の表情を見て、穏やかな声で続ける。


「眠れませんか」


「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」


うまく言葉がまとまらないまま、桜は少し視線を落とす。


それでも、何も聞かずに隣に立ってくれる気配があって、ぽつりと本音がこぼれる。


「なんていうか、その……結婚が、近づいてきてるなぁって、今日、思って」


少しだけ言葉を切る。


「すごく嬉しいし、楽しみなんですけど……その、少し落ち着かなくて」


言いながら、自分でもうまく説明できていない気がした。


けれど、クロトは困ったような顔もせず、ただ受け止める。


「そうですか」


その一言だけで、少しだけ肩の力が抜けた。


桜はためらいながら、そっと尋ねる。


「クロトさんは、その……そういうの、ないですか?」


クロトは少しだけ苦笑した。


「もともとは、私がサクラに傍にいてほしくて、早めの結婚を望んだことですから」


どこか申し訳なさそうな響きが混じる。


そして、少し間を置いてから続けた。


「……もし不安なら、少し遅らせますか。今なら、まだ――」


言い切る前に、桜は思わずクロトの手首をつかんでいた。


「ち、違うんです」


自分でも驚くくらい、慌てた声が出る。


「そういうんじゃなくて……その……今のままで、大丈夫です」


言葉の終わりは小さくなったけれど、それだけははっきり伝えたかった。


クロトは少し目を見開き、それからふっと笑みを浮かべる。


「……わかりました」


その声がやさしくて、余計に恥ずかしくなる。


そこでようやく、桜は自分がクロトの手首をつかんだままだったことに気づいた。


思っていたより、距離が近い。


クロトもそれに気づいたように、ふと視線を落とす。


その仕草で、さらに距離を意識してしまう。


思わず、息を止めた。


けれど――


離そうとは、思わなかった。


クロトが、ゆっくりと距離を詰める。


近づいてくるのが分かって、鼓動が跳ね上がる。


それに引き寄せられるように、思考が途切れて――


そのまま、そっと唇が触れた。


ほんの一瞬。


それだけのはずなのに。


離れたあと、遅れて一気に顔が熱くなる。


「……っ」


思わず、両手で口元を押さえる。


何が起きたのか分かっているのに、身体がまったくついてこなかった。


視線も合わせられず、桜はその場で真っ赤になって固まってしまう。


「……大丈夫ですか」


クロトの声に、桜ははっとして顔を上げた。


けれど、うまく言葉が出てこない。


小さく首を振る。


それでも、少し迷ってから、かすれた声で答えた。


「あの、でも……頑張ります」


言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなる。


けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。


クロトは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと小さく笑みを浮かべる。


「……そうですか」


否定も、訂正もせず、そのまま受け止める。


そして、当たり前のように腕を差し出した。


「部屋に戻りますか」


桜はその何気ない仕草に、ほっとして手を伸ばす。


そっとその腕に触れた瞬間、胸の奥に残っていたざわつきが、すっとほどけていくのを感じた。


そのまま2人で並んで歩き出す。


夜の庭を抜け、屋敷の灯りへと戻っていく。


その足取りは、もう先ほどまでのようには揺れていなかった。

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