表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/16

第7章 優しい香りに包まれながら



夜のカフェ。20時過ぎ。




閉店後の店内は、


昼間の喧騒が嘘のように静かだった。


コーヒーの残り香だけが、


まだ空気に漂っている。




蒼太は店長と二人で、


クローズ作業をしていた。


モップを手に、ゆっくりと床を拭いていく。




その背中に、店長が声をかける。




「岡谷くん、今日はありがとう……」




蒼太は顔を上げずに答えた。




「いえ、大丈夫です。


今日は時間、空いてたんで」




「ほんと助かったよ。


今日さ、どうしてもシフト埋まらなくて」




店長は苦笑しながら言う。




「就活で忙しいのに、急に悪かったね」




蒼太の手が、ほんの一瞬だけ止まった。




「……いえ、大丈夫です」




モップを動かしながら、静かに答える。




「……そういえばさ」




店長は少し間を置いてから、続けた。




「岡谷くん、……就活どう?」




蒼太の視線が、床に落ちる。




「……いろいろ、考えてはいるんですけど」




言葉を選びながら、そう答えた。




店長は、それ以上踏み込まず、


軽くうなずく。




「……そっか」




少し考えるような間。




「……じゃあさ」




店長は、


いつもより少しだけ真面目な声で言った。




「……岡谷くん、


このカフェの正社員になるっていうのは、


どう?」




蒼太は思わず顔を上げた。




「……正社員、ですか?」




「うん」




店長は、淡々と続ける。




「岡谷くん、真面目だしさ。


接客もいいし、お客さんからの評判もいい」




「ホールもキッチンも両方できるし、


仕事もちゃんとしてる」




少し照れたように、笑う。




「岡谷くん、優しいからさ。


バイトの子たちにも慕われると思うよ」




蒼太は、言葉を失ったまま聞いていた。




「……それに、うちはチェーンだけど、


基本は関東だけなんだ」




「東京、神奈川、埼玉、千葉。


転勤もその範囲だし、希望もちゃんと聞いてくれる」




店長は、押しつけるでもなく、


ただ“選択肢”として差し出すように言う。




「岡谷くんにとって、


悪い話じゃないと思うんだけどな」




蒼太は、しばらく黙ったあと、


正直に口を開いた。




「……ありがとうございます、店長。


正直……すごく、嬉しいです」




少しだけ、声が震えた。




「……救い、です」




店長は目を丸くして、すぐに笑った。




「おおげさだなぁ」




肩をすくめる。




「いきなり決めろなんて言わないよ。


……時間はあるんだから」




「ちょっとだけ……考えてみて。


俺は、待ってるから」




「……はい」




その一言に、蒼太は深く頭を下げた。





薄明かりの店内


片付けが終わり、店内の灯りを落とす頃。




蒼太は、思い切って声をかけた。




「……あの……店長」




「ん? なに、岡谷くん」




少し迷ってから、蒼太は尋ねる。




「……店長は……


どうして、カフェの店長になろうと思ったんですか」




店長は一瞬きょとんとして、


それから、少し懐かしそうに笑った。




「うーん……そうだな」




「そうだ、岡谷くん、ちょっと時間ある?


もしよかったら、少し話そうか」









片付けが終わり、店内



蒼太は、カフェのカウンターに腰を下ろしていた。




店長はキッチンに立ち、


慣れた手つきでフライパンを振るい、


同時にコーヒーを淹れていく。




店内に、いつもとは少し違う匂いが広がった。




(……いい匂い)




でも、どこか違う。




やがて店長は、


ふわりと卵に包まれたオムライスを皿にのせ、


蒼太の前に置いた。




「はい、どうぞ」




「ありがとうございます。いただきます。」




蒼太は、スプーンですくい、口に運ぶ。




「……なに、これ……」




思わず目を見開いた。




「うま……」




はっきりと、いつもの味とは違う。




「これ……いつもの……


お店のオムライスじゃないですよね」




店長は、少し照れたように笑う。




「うん。俺のオリジナル」




「……すごいです。


こんなおいしいオムライス、初めてです」




「はいはい、大げさ」




そう言いながらも、どこか嬉しそうだった。




続いて、店長はコーヒーを淹れ、


蒼太の前にそっと置く。




「これも、よかったら」




立ちのぼる香りに、蒼太は小さく息を吸った。




「……いい香り」




一口、飲む。




「……え? なにこれ……すごく、おいしい」




蒼太が顔を上げると、


店長は少し得意げに言った。




「ああ、それは店の豆じゃない。


俺が選んだやつ」




「……やっぱり」




「いいだろ」




「はい。


こんな美味しいコーヒー、あるんですね……」




店長は、少し間を置いてから口を開いた。




「俺さ、昔からコーヒーが好きで……


学生の頃から、ずっとカフェでバイトしてた」




「……で、いつかは自分の店を持ちたいなって


思って……それで、ここに就職したんだ」




「……そうだったんですね」




蒼太は、静かにうなずく。




「でも、こんな料理とコーヒー出せるなら、


絶対、繁盛しますよ」




「ありがとう」




店長は、カウンター越しに遠くを見るような目をした。




「まあ、今すぐ叶えたい夢ってわけでもないけどね……」




「子どももまだ小さいし、


……今はちょっと無理だなって思ってる」




蒼太は、黙って聞いていた。




「でもさ」




店長は、穏やかに続ける。




「いつか叶えられたらいいな、とは思ってる」




「今は忙しいし、


正直しんどいこともあるけど……


この先に、自分の夢がつながってるって


思えるなら、全然つらくない」




「だから、今の仕事も好きだし……、


……今の生活も、つらいって思ったこと、


ないんだよ」




蒼太は、しばらく言葉を探してから、


ぽつりと呟いた。




「……店長、かっこいいです」




「はいはい、また大げさ」




そう言いながらも、


店長の表情は、どこか誇らしげだった。





帰り際、店内の照明が落とされる。




店長が、カウンターの向こうから声をかけた。




「岡谷くん、今日は遅くなって悪かったね。


……ありがとう」




蒼太は、少し照れたように首を振る。




「いえ……店長の話、聞けてよかったです」




「こちらこそ、ありがとう」




店長は、穏やかに笑う。




「こういう話、聞いてくれる学生って、


実はあんまりいなくてさ……」




「俺のことを聞いてくれる人、


ほとんどいなかったから……」




少しだけ間を置いて、続ける。




「だから……岡谷くんが聞いてくれて、


すごく嬉しかったよ」




「じゃあ、お疲れさま」




「はい。お疲れさまでした」




蒼太は深く一礼して、店を後にした。




蒼太は、


夢を語るときの店長の顔――


幸せそうで、嬉しそうなその表情が、


なぜか頭から離れなかった。




コーヒーの優しい香りに包まれながら、


蒼太は、静かに家路についた。



* * *




日曜日の夜。




蒼太は、今日は学校とバイトが休みだった。


青も、野球部の練習が夕方には終わり、


いつもより少し早く帰宅していた。




二人で、いつも通り夕食を済ませる。




特別な会話はない。


でも、それが心地いい。




食後、青はリビングでノートパソコンを開いた。


画面に向かう横顔を見ると、


おそらく授業の準備をしているのだろう、


と分かる。




新居には、それぞれの個室がある。


仕事をするなら、


自分の部屋に行ってもいいはずなのに――




青は、蒼太がいるときは、


いつの間にか自然とリビングにいる。




「一緒にいよう」と言うわけでもない。


ただ、そこにいる。




その距離感が、蒼太には分かっていた。




(……優しいな)




胸の奥が、じんわりと温かくなる。




何もしていなくても、


同じ空間で、同じ時間を過ごしている。




それだけで、


十分すぎるほどだった。





蒼太は、洗い物をしながら考えていた。




先日――


店長と話をした、あの夜のこと。




夢を語っていたときの、


あの嬉しそうな顔が、ふと浮かぶ。




(……そういえば)




何気なく通っていたバイト先の店長。



ただの「店長」だと思っていた人も、


ちゃんと自分の目標と、夢を持って生きている。




(……当たり前、なんだよな)




世の中には、たくさんの人がいる。


その一人ひとりが、


それぞれの場所で、


それぞれの夢や目標を抱えている。




大きくても、小さくても。


今すぐ叶わなくても。




(……じゃあ)




(……僕は、どうなんだろう?)




水の音の向こうで、


そんな問いが、静かに胸に浮かぶ。




本当の夢。


本当に、やりたいこと。




(……まだ、分からないな)




蒼太は、手を止めずに、


黙々と洗い物を続けた。




答えは出ない。


でも、不思議と焦りはなかった。




考え続けている、その時間そのものが、


少しだけ、前に進んでいる証のような気がした。





蒼太は洗い物を終え、


リビングのソファに腰を下ろした。




ノートパソコンに向かっていた青が、


ふと顔を上げる。




「……蒼太、就活どうだ?」




少しだけ心配そうな表情で、こちらを見る。




「あ、うん……」




蒼太は一瞬迷ってから、正直に話し始めた。




「この前、カフェのバイトに行ったときに……


店長から、正社員にならないかって声を


かけられて……」





「……」




「僕、やっぱりカフェの仕事、好きだし。


転勤も関東近辺で、


希望も出せるみたいで……


条件的には、結構いいかなって思って……」




一通り話し終えると、


蒼太は青の反応を窺った。




「そっか……いいんじゃないか」




思ったよりも、青の返事はあっさりだった。




蒼太は思わず目を見開く。




「え、いいの?」




「蒼太、前からカフェの仕事好きだって


言ってたろ」




青は、落ち着いた声で続ける。




「それに、店長からそういう話が出るって


ことは、普段から真面目に仕事してきた結果だ」




「条件も悪くなさそうだし、


ちゃんと考えた上なら、俺はいいと思う」




蒼太は、少し戸惑いながらも、うなずいた。




「……うん。


 悪くない、とは思ってる」




すると青が、ふと思い出したように言う。




「……そういえば、


前にスポーツメーカーの話もしてなかったか?」




「あ、うん」




蒼太は少し姿勢を正す。




「いろいろ調べてて……


 一番いいなって思ったのが、


 埼玉に本社がある Hスポーツ って会社……」




「今、二次選考まで進んでて、


 通ったら次が最終面接……」




「……Hスポーツか」




青は、少し考えるようにうなずいた。




「そこ、悪くないと思うぞ。


営業の人、うちの野球部にもたまに


顔出してるし」




「蒼太、人当たりいいから、


営業の仕事も向いてると思う」




そして、いつもの少し柔らかい声で言った。




「まあ、焦らなくていい。


……ゆっくり考えればいいさ」




「頑張れ、蒼太」




「……うん」




蒼太は、ほっと息を吐いて微笑んだ。




「ありがとう、青さん」





布団に入って、明かりを落とす。




天井を見つめながら、


蒼太は、さっきの会話を思い返していた。




(……青さん、やっぱり優しいな)




就活の話をしても、


否定しない。


決めつけない。




「焦らなくていい」


その一言が、胸に残っている。




(……ちゃんと、話を聞いてくれる)




それだけで、


どれだけ救われているか。




でも――




(……それでも)




(僕、本当にこのままでいいのかな?)




安心している自分と、


どこかで立ち止まっている自分。




胸の奥に、静かな問いが浮かぶ。




本当にやりたいこと。


将来の夢。




(……まだ、分からない)




答えは出ない。


でも、不安で押し潰される感じもしなかった。




考え続けていいんだと、


初めて思えたから。




蒼太は、ゆっくりと目を閉じた。




その問いを胸に抱いたまま、


静かな夜が、そっと更けていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ