第8章 青の優しさ
5月。
蒼太は、まだ着慣れないスーツに身を包んでいた。
今日は、蒼太が密かに第一志望だと考えていた
Hスポーツの最終面接の日。
家を出る前、いつものように引き出しを開ける。
そこには、丁寧にしまわれた
パートナーシップ宣誓証明書。
(うん……大丈夫)
深く息を吸って、胸の奥で言い聞かせる。
(……行こう)
気持ちを引き締め、玄関を出た。
いつもと同じ道。
蒼太は、いつものように
野球部のグラウンドの横を通り、バス停へ向かう。
――すると。
グラウンドでは、いつもの光景。
青と、佐々木コーチが練習を見ている。
そのとき。
スーツ姿の蒼太に気づいた青が、
勢いよくこちらへ走ってくる。
「蒼太! 今日、最終面接だよな。頑張れよ!」
「あ、青さん……うん。頑張る。
じゃあ、行ってきます」
「ああ。いってらっしゃい!」
青はそう言うと、
また駆け足で佐々木コーチのもとへ戻っていった。
佐々木コーチは、こちらに気づき、
遠くから軽く手を振ってくれる。
蒼太は、小さく会釈を返した。
(……いいな)
野球部。
グラウンドに響く掛け声。
白球を追いかける球児たち。
そして、青と佐々木コーチ。
その光景を眺めながら、
蒼太の胸に、ぽつりと浮かぶ感情。
(こんなに近いのに……)
(……どうして、こんなに遠いんだろう)
一瞬、視線が下がる。
――だめだ。
(だめだ、だめだ)
今日は最終面接の日だ。
考えるべきことは、ちゃんと別にある。
(切り替えなきゃ)
バスが到着する。
蒼太は一度だけグラウンドを振り返り、
そして、静かにバスへ乗り込んだ。
* * *
夕方。
Hスポーツ本社のビルから、
蒼太が一人、外へ出てきた。
西日に照らされたその表情は、
どこか晴れやかで、余計な力が抜けている。
――手応えは、あった。
胸の奥に、はっきりとした感触が残っている。
面接では、事前に何度も整理してきたことを、
一つひとつ、落ち着いて言葉にできた。
志望動機。
将来の目標。
中学・高校時代、野球部で過ごした日々。
そして――
自分にとって「野球」が何だったのか。
飾らず、逃げず、
そのままの思いを、真っ直ぐに面接官へ伝えた。
相手の表情も、反応も、悪くなかった。
質問は深く、でも真剣で、
きちんと“話を聞こうとしてくれている”と感じられた。
ビルを振り返り、蒼太は小さく息を吐く。
(……大丈夫)
(ちゃんと……やれた)
そう思えたこと自体が、
今日一日をやり切った証のように思えた。
* * *
5月31日。
その日、蒼太は朝から落ち着かなかった。
今日は――
最終面接を受けた
Hスポーツ の合否結果が通知される日。
スマートフォンを何度も手に取り、
画面を点けては、また伏せる。
(……まだかな?)
面接は、うまくいったと思う。
言いたいことは、全部言えた。
逃げずに、誤魔化さずに、出し切った。
(「合否は5月31日までに、メールで通知します」……っ
て言ってた)
だから、今日は必ず結果が来る。
来ないはずがない。
(大丈夫……ちゃんと、やれたはず)
そう言い聞かせる一方で、
別の考えが、どうしても頭をもたげてくる。
(……でも)
(……もし、落ちてたら)
(もし、ダメだったら……)
胸の奥が、きゅっと縮まる。
最終面接まで進めたのは、
結局 Hスポーツ一社だけ だった。
他にも、埼玉県を地盤とする中堅どころの企業に
いくつかエントリーはした。
けれど、
書類で落ちたり、一次で終わったり――
結果は、どれも思わしくなかった。
(……だからこそ)
今日の通知が、
蒼太にとってすべてだった。
その後も蒼太は、
学校にいるあいだ、
ずっとスマートフォンを手放せなかった。
講義。
昼食。
また講義。
そのたびに画面を確認する。
――通知は、来ない。
(……おかしいな?)
(絶対、今日に結果が来るはずなのに……)
講義が終わり、校舎を出ても、
帰り道でも、
メールの通知音は鳴らなかった。
そのまま、何もないまま家に着く。
時計を見ると、5時を少し過ぎている。
(……やっぱり、今日だよな)
そう思った、その瞬間。
ピロリン。
乾いた通知音が、部屋に響いた。
「あ……」
反射的にスマートフォンを掴む。
(来た!)
画面を見る。
差出人――
Hスポーツ。
蒼太の鼓動が、一気に速くなる。
(……やっぱり)
指先が、わずかに震える。
メールを開いた。
――そこに書かれていたのは、
丁寧で、淡々とした、不採用の通知だった。
『この度は、Hスポーツ株式会社の採用選考に
ご応募いただき、誠にありがとうございました。
慎重に選考を重ねさせていただきました結果、
誠に残念ではございますが、
今回はご期待に添いかねる結果となりました。
末筆ながら、
岡谷様の今後のご活躍とご健勝を、
心よりお祈り申し上げます』
いわゆる「お祈りメール」。
「……そんな」
声にならない声が、喉から漏れる。
(……完璧だったはずだ)
(……感触は、良かった)
(……全部、出し切った)
(……言いたいことは、全部――言えた)
それなのに。
(……ちゃんとできたはずなのに)
理由は、どこにも書かれていない。
蒼太は、スマートフォンを握ったまま、
玄関先で、ただ立ち尽くしていた。
・
・
カチ、カチ、カチ、カチ。
部屋に、時計の音だけが響いている。
……。
蒼太は、はっとして顔を上げた。
(……あ)
時計を見る。
18時。
(……30分近く、ぼーっとしてたんだ)
でも、不思議と焦りはなかった。
(……仕方ないよな)
(……結果が、すべてだ)
面接はやり切った。
それでもダメだった。
(きっと、僕に足りないところがあったんだ……)
(何かが、足りなかった……)
(それが……答えなんだ)
自分に言い聞かせるように、
胸の奥で、静かに整理する。
――そのとき。
(……あ)
(今日、夕飯の当番だ)
(ご飯、作らなきゃ……)
何かをしていないと、
このまま、また止まってしまいそうだった。
(ご飯でも作って、気分落ち着かせよう……)
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
……。
(……ない)
中は、ほとんど空だった。
(あ……そうだ!)
(今日、買い物して帰るつもりだった……)
結果が気になって、
スーパーに寄るのを、すっかり忘れていた。
(……行かなきゃ)
(……買い物、行かなきゃ)
自分に言い聞かせるように呟き、
蒼太は重い腰を上げた。
いつものスーパー。
カゴを持って、売り場を歩く。
(……今日、何作ろう)
しばらく立ち止まる。
……。
(……あれ?)
何も、思い浮かばない。
(……僕)
(今まで、……どうやって献立考えてたんだっけ?)
いつもなら、
自然に浮かんでいたはずのメニューが、
今日は、ひとつも出てこない。
(……分からない)
(……何も、考えられない)
カゴは、空っぽのまま。
蒼太は、その場で立ち尽くした。
(……どうしよう)
そのとき、
蒼太はふと、母のことを思い出した。
(……母さん)
(母さんは……。
こんなにつらいとき、
……どうやって買い物をしていたんだろう?
(どんな気持ちで、毎日スーパーを歩いて、
何を作ろうか、考えていたんだろう……)
(……僕は)
* * *
19時30分
玄関のドアが開く音がした。
青が、帰ってきた。
「ただいま」
「あ……青さん。おかえりなさい」
自分でもわかるほど、
声に元気がなかった。
青は靴を脱ぎながら、ちらりとこちらを見る。
「蒼太、どうした?
なんか……元気なさそうだけど」
青がリビングに入ってきて、
テーブルの上に目を向ける。
――そして、はっとした。
テーブルの上に並んでいたのは、
惣菜のパック。
からあげ。
煮物。
焼き魚。
サラダ。
いくつかには、
赤い値引きシールが貼られている。
それは――
蒼太が夕食に惣菜を用意した、
初めての日だった。
「…………」
青は、テーブルに並んだ惣菜を目に向ける。
一一そして、無表情で、その光景を見ていた。
「あ……青さん」
蒼太は、慌てて口を開いた。
「ごめんなさい。
今日、ちゃんと作ろうと思ったんだけど……」
「……何を作ればいいのか……分からなくて……。
それで……」
視線を落とす。
「今日は、こんな惣菜になっちゃって……
ごめんなさい」
「……大丈夫だよ」
青は、ゆっくりそう言った。
一瞬の沈黙。
青が、小さく続ける。
「今日は、5月31日だな」
青は、何も聞かなくても分かったように、
一度、目を伏せた。
「……Hスポーツ。……落ちたんだな」
「……うん」
短い返事。
それだけで、
今日一日の重さが、
全部そこに詰まっていた。
しばしの沈黙。
「あ……やっぱり、ごめんなさい」
視線を落としたまま、続ける。
「僕……やっぱり、これからご飯作るよ」
キッチンに置かれた袋に手を伸ばす。
「このソーセージ使って、何か手を加えれば……
ちゃんとした料理になると思うから」
そう言って、
蒼太は少し慌てた様子で、準備に取りかかろうとした。
その背中に――
「蒼太」
蒼太が振り返る。
「今日は、食べに行こう」
「……え?」
「うん。たまには、外食しよう」
穏やかな声だった。
「ほら、蒼太。用意して」
「……うん」
二人は車に乗り込む。
エンジンがかかり、静かに走り出す。
「何、食べたい?」
「……うーん」
少し考えて、
でも、すぐに言葉が止まる。
「……何でも、いい……」
「ははっ」
青は小さく笑った。
「言うと思った」
「……ごめんな、蒼太。今こんな気分じゃ……
考えられないよな」
「……」
一瞬の間。
「……じゃあ」
小さな声で、ぽつりと。
「……寿司」
自分でも、
どうしてそう言ったのか分からなかった。
でも、口から出た。
「……寿司が、食べたい」
「……うん」
青は、少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、
すぐに、柔らかく笑った。
「わかった……。じゃあ、行こうか」
それ以上、青は何も言わなかった。
ただ、
ハンドルを握る手だけが、
いつもより少しだけ、優しかった。
青と蒼太は、近くの回転寿司の店に入った。
少しだけ値段の高い、落ち着いた雰囲気の店だ。
蒼太は、黙々と寿司を口に運ぶ。
――でも。
(……おいしいはずなのに)
(……なんか、味がしない)
シャリを噛んでも、
ネタの旨みが、うまく頭に届かない。
(……青さん)
(何か、言ってくるかな……?)
ふと、隣を見る。
青は、いつもと変わらない様子で、
普通に寿司を食べていた。
Hスポーツのことも、
就活のことも――
何ひとつ、聞いてこない。
その代わり。
「蒼太、このネタ好きだろ?」
「これ、うまいぞ。食べるか?」
皿を一枚、差し出してくる。
「今日さ、練習で新一年生がな……」
「そういえば、今日の授業でこんなことがあってさ…」
話題は、いつも通り。
他愛もない話ばかり。
蒼太の“就活”には、
一切、触れない。
蒼太は、
それに合わせるように、
いつも通り、相槌を打つ。
――そのとき。
胸の奥が、
じんわりと、温かくなった。
(……あ)
(青さん……)
(……ありがとう)
(……どうして、こんなに……優しい人なんだろう)
もう一度、寿司を口に運ぶ。
……。
(あ!)
(……味がする)
さっきまで感じなかった味覚が、
少しずつ、戻ってきていた。
そして、帰宅。
玄関のドアを閉めた瞬間、
蒼太は小さく息を吐いた。
「ああ〜、おいしかったな寿司。
たまには、こういうのもいいな」
「うん……ほんとに、おいしかった」
靴を脱ぎながら、
青が何気なく言う。
「蒼太、明日、休みだろ?」
「……うん。バイトも休み」
一瞬、蒼太は言葉を選ぶ。
「でも……ちょっと、
これからのことを考えないと……」
「ああ。俺さ、試験前で。
明日は野球部の練習ないんだ」
蒼太が顔を上げる。
「明日、出かけないか」
「……え?」
「いいだろ?」
「最近、あんまり出かけられなかったし……
たまには、息抜き」
青は少し照れたように、付け足す。
「……俺も、蒼太とゆっくり過ごしたいし」
「……」
一拍置いて、
小さく、でもはっきり。
「……うん」
「ありがとう。青さん」
「……え?何が?」
「……ううん」
蒼太は首を振る。
(……やっぱり)
(青さんのこういうとこ……)
(……好きだな)
言葉にはしなかった。
でも、その気持ちは、
今夜の空気の中で、
ちゃんと、温かく残っていた。




