第6章 蒼太の過去Ⅴ 危うい思考
蒼太 大学一年生 冬
蒼太は順調に大学生活を送っていた。
授業に出て、
バイトをして、
家事をして、
青と暮らす。
忙しいけれど、
どれも無理をしている感覚はなかった。
休みが合えば、
二人で近場へ出かけた。
少し遠くの温泉。
日帰りの小旅行。
何気ない街歩き。
どこにでもいる、
仲のいい恋人同士。
それが、蒼太の日常になっていた。
* * *
冬の山梨は、雪がちらついていた。
吐く息が白く、
空気が張りつめている。
蒼太は、
山梨県内にある総合病院のロビーに立っていた。
――母が、入院した。
そう聞いたとき、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
病室のドアを開ける。
母は、ベッドに座っていた。
少し痩せて、
顔色も、以前より白い。
けれど――
話し方も、仕草も、
いつも通りだった。
「あら、蒼太?来てくれたの」
「……母さん、大丈夫?」
母は、軽く肩をすくめる。
「大丈夫よ」
「見ての通り。元気、元気」
その言葉とは裏腹に、
頬のこけ方が、目につく。
「連絡もらって、びっくりしたよ。
急だったし……」
「うん、……ごめんね。
本当は、連絡するつもりなかったの。
……大したことないし、
心配かけたくなかったから」
少し言いづらそうに、続ける。
「でもね……。
……書類上、どうしても家族のサインが必要
で。それで……」
「……そうだったんだ」
「うん。
……本当に、心配しなくていいのよ」
「最近ちょっと疲れが溜まってて……
念のため検査しましょう、って。
先生も……、少し大げさなの」
そう言って、
母は気丈に笑った。
「………」
「もう、蒼太。
私、まだそんな年でもないし」
その笑顔が、
逆に胸に刺さる。
「……母さん」
「あ、蒼太。
……今日は、もう帰っていいわよ」
「え?でも……」
「授業もあるんでしょう?
……バイトも、忙しいんでしょう?」
「もう……大丈夫だから……」
そう言って、
母はやさしく微笑んだ。
「……うん」
「わかった。……じゃあ、帰るね」
「母さん……元気でね」
「ふふ。なに、それ……」
「一生の別れじゃないんだから。
……じゃあね」
手を軽く振る。
蒼太は、
それ以上、何も言えなかった。
病室を出る。
廊下の窓から見える外は、
細かな雪が舞っていた。
白く、静かに。
(……本当に、大丈夫なのかな?)
そう思った瞬間、
自分で、その考えを押し込める。
(心配しすぎだ……)
(母さん、元気そうだった……)
(……ちゃんと笑ってた)
そうやって、
いつものように「ちゃんと」しようとする。
でも――
胸の奥に残った違和感は、
消えなかった。
その夜、
蒼太は青のいる家へ帰る。
何事もなかった顔で。
本当の不安は、
まだ、言葉にしないまま。
* * *
蒼太 大学二年 10月
蒼太は、それなりに楽しくに生活していた。
生活費のために、できるだけバイトに入る。
授業も、手を抜かずに出ている。
成績は悪くない。むしろ、いい方だ。
青とも、変わらず仲良くしていた。
休日は青と草野球にも出かけた。
何も問題はない。
幸せな日常。
少なくとも、蒼太自身はそう思っていた。
その日、アパートに帰ると、
部屋は静かだった。
青は、バイトでまだ戻っていない。
キッチンのテーブルの上に、
見慣れない封筒が一通、置かれていた。
宛名は、自分。
差出人は――大学。
「……?」
胸の奥に、小さな違和感が走る。
成績通知でもない。
履修の案内でもない。
蒼太は、靴も脱ぎきらないまま、
封を切った。
中身を見た瞬間、
頭の中が、真っ白になった。
《授業料未納のお知らせ》
視界が、すっと遠くなる。
「……え……?」
紙を持つ指先が、冷たくなっていく。
「……なんで……?」
喉が、ひくりと鳴る。
授業料は、母が振り込むと言っていた。
一年のときも、ちゃんと、期日通りに。
「……振り込まれて……ない……?」
書かれている日付。
金額。
期限。
全部が、はっきりしている。
間違いようがない。
(……そんなはず、ない)
そう思おうとして、
すぐに、別の記憶が浮かんだ。
――最近、母から連絡がなかった。
電話も、メッセージも。
(忙しいのかな?)
(体調、大丈夫かな?)
そう考えて、
蒼太は、自分から連絡するのを控えていた。
連絡がない=『大丈夫』。
いつの間にか、
そう決めつけていた。
蒼太は、封筒を持ったまま、
ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
(……母さん)
(……何か、あった?)
でも、すぐに、
その考えを打ち消す。
(違う!)
(母さんは、大丈夫だ)
(いつもそう言ってた……)
――「大丈夫」
――「心配しないで」
それを、
何度も、何度も聞いてきた。
蒼太は、深く息を吸う。
(……まずは)
(……落ち着こう)
(……ちゃんと、考えよう)
そう自分に言い聞かせながら、
震えそうになる手で、スマホを取り出した。
(母さんに聞かなきゃわからない……)
呼び出し音が、
一回。
二回。
そしてしばらくすると、
メッセージに切り替わる。
『呼び出ししましたが、おでになりません。
またおかけ直しください』
(そんな……)
何回もかけ直すも、
同じメッセージが繰り返し流される。
「……母さん、何があったの?」
小さく、呟く。
(そうだ、LINE!)
蒼太は急いでLINEにメッセージを送る。
『母さん、大丈夫ですか?』
『大学から授業料のことで通知が届きました。
連絡ください』
既読はつかない……。
スマホを、テーブルに置く。
部屋は、相変わらず静かだ。
窓の外から、
秋の風の音が、かすかに聞こえる。
蒼太は、俯いたまま、
しばらく動けなかった。
(……青さん)
このことを、
どう伝えればいいのか。
――いや。
(……まだだ)
(……まだ、分からない)
(……母さんから、返事が来てから)
そう思いながらも、
胸の奥に、嫌な予感が、
静かに広がっていく。
(……どうしよう……)
その夜、青はいつも通り帰ってきた。
蒼太は、いつも通り迎え、
いつも通り夕飯を作り、
いつも通り一緒に食べた。
笑い、相槌を打ち、
何も変わっていない顔をする。
自分でも驚くほど、
自然に振る舞えていた。
(……まだ、結論づいてない)
(……何かの手違いかもしれない)
(……母さんから連絡が来れば、全部分かる)
そう念じるように、
蒼太は『いつも通り』を繰り返した。
夜になり、二人で布団に入る。
青は、すぐに眠った。
規則正しい寝息が、すぐ隣から聞こえる。
蒼太は、目を閉じたまま、動けずにいた。
(……母さんから返信があるかもしれない)
(……確定していないことを、青さんに……
言う必要はない)
理由を並べて、
自分を納得させようとする。
それは、
いつものやり方だった。
スマホに手を伸ばしかけて、やめる。
未読のままの通知を見るのが、怖かった。
時計の音だけが、
暗い部屋に、規則正しく響く。
一秒ごとに、
不安が、少しずつ重くなる。
蒼太は、青を起こさないように、
静かに息を殺した。
眠れないまま、
夜が、ただ過ぎていく。
蒼太は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じても、
頭の中に浮かぶのは、
あの紙切れの文字ばかりだった。
《授業料未納》
数字と期限が、
何度も、何度も脳裏をよぎる。
時計の針が進む音が、
やけに大きく聞こえた。
* * *
翌朝。
蒼太は、いつもより早く家を出た。
青はまだ眠っている。
起こさなかった。
――起こせなかった。
大学に着くと、
蒼太は迷わず学生課の窓口へ向かった。
開いたばかりのカウンター。
人は、まだ少ない。
「……すみません」
声は、思ったより落ち着いていた。
窓口の女性職員が、顔を上げる。
「はい、どうしましたか?」
「……授業料の件で」
学生証と届いた通知を差し出す。
女性職員は、
パソコンに視線を落とし、
キーボードを叩いた。
数秒。
その沈黙が、
やけに長く感じられる。
「……再確認しましたが」
淡々とした声。
「……やはり、通知のとおりです」
「……」
「二年後期分の授業料が、未納になっています」
「……前期は……?」
「前期分は、少し遅れましたが、
……振り込みは確認できています」
画面を見ながら、続ける。
「ただ、後期分は……
現在のところ入金がありません」
「……そう、ですか」
言葉が、少しだけ掠れた。
「期日までに確認が取れない場合は、
履修や試験に影響が出る可能性もありますので……」
「お早めに……、
ご家族とお話しされたほうが、
よろしいかと思います……」
説明は丁寧だった。
でも、蒼太の耳には、
ほとんど入ってこなかった。
頭の中で、
一つの事実だけが、はっきりと形を持つ。
(……やっぱり未納)
(……間違いじゃないんだ……)
蒼太は、深く一度、頭を下げた。
「……分かりました」
カウンターを離れ、
廊下へ出る。
一気に、人の気配が遠くなった。
壁にもたれ、
蒼太は、ゆっくりとスマホを取り出す。
LINE。
母の名前。
――未読。
昨夜送ったメッセージは、
そのまま、既読になっていない。
(……母さん)
電話をかけようとして、
指が止まる。
(……もし、出なかったら)
(……あれだけ着信残してるから、
普通なら折り返しかけてくれるはず……)
そんな想像が、
一瞬で頭を埋める。
蒼太は、スマホを握りしめた。
(……どうしよう)
声には、出さなかった。
出したら、
何かが崩れてしまいそうだった。
学生課を出たあと、
蒼太はほとんど考えることなく、
大学を後にした。
(……未納)
担当職員の淡々とした声だけが、
頭の奥で何度も反響する。
(……間違いじゃない)
(……母さん)
* * *
気づいたときには、
蒼太は駅へ向かって走っていた。
スマホを見る余裕もない。
時刻表も確認しない。
ただ――
「帰らなきゃ」という思いだけが、
体を動かしていた。
改札を抜け、
来た電車に飛び乗る。
息を整える暇もなく、
次の駅で乗り換え、
さらに電車を乗り継ぐ。
窓の外の景色が、
少しずつ、都会から郊外へ変わっていく。
(……お願いだから)
(……何も起きてませんように)
そんな願いが、
いつの間にか祈りに変わっていた。
連絡は、相変わらずつかない。
電話も、LINEも。
(ひょっとして……)
考えたくない想像が、次々と浮かぶ。
倒れているんじゃないか。
体調を崩して、
動けなくなっているんじゃないか。
蒼太は、母の顔を思い浮かべた。
少しやつれた、
それでも、いつも穏やかに笑う顔。
(……大丈夫だよ、って言う人だから……)
そう言い聞かせながら、
蒼太は山梨へ急いだ。
* * *
山梨県 大月市
実家のある住宅地は、静かだった。
整然と並ぶ一軒家。
その中で、蒼太の家だけが、ひときわ大きい。
二軒、三軒分はあろうかという敷地。
広い庭。
昔は、「素敵なお家ですね」と、
近所の人に声をかけられることもあった。
――けれど。
今、その家は、
妙に、がらんとして見えた。
それが、余計に胸を締めつける。
(……あれ?)
近づいて、蒼太は立ち止まった。
人の気配が、ない。
カーテンは、すべて閉め切られている。
「……母さん?」
小さく呼んでみる。
返事はない。
呼び鈴を押す。
……鳴らない。
(……電源、入ってない?)
胸の鼓動が、少し早くなる。
蒼太は、ポケットから実家の鍵を取り出し、
鍵穴に差し込んだ。
(……あれ?)
回らない。
もう一度、角度を変えて試す。
それでも、合わない。
「……母さん!」
ドアを叩く。
「母さん、いるの?」
返事は、なかった。
蒼太は、家の周囲を見回した。
その時――
門の脇に立てかけられた、看板が目に入る。
《売り家》
「……え?」
言葉の意味が、すぐに理解できなかった。
(売り家……?)
(……売る?)
(……この家を?)
頭の中が、追いつかない。
何も聞いていない。
何の連絡も、なかった。
(……なんで?)
呆然としたまま、
蒼太は郵便受けに目を向けた。
ポストは、
チラシやDMで、いっぱいになっていた。
しばらく誰も、開けていない。
その中に――
一枚、見覚えのある文字があった。
(……母さんの字)
蒼太は、それを取り出す。
小さく折られた、紙切れ。
そこに書かれていたのは――
『蒼太、ごめんね』
たった、それだけ。
「……え……?」
意味が、分からない。
紙を持つ手が、微かに震える。
「……何、これ……」
謝られる理由も、
説明も、
何もない。
蒼太は、その紙を握ったまま、
ただ、立ち尽くしていた。
あれからどうやって帰ったのか、
覚えていない
大月駅から中央線に乗り
大宮のアパートに帰った頃には、
体も、頭も、ひどく疲れていた。
鍵を開け、部屋に入る。
電気をつけると、
いつもと変わらない景色がそこにあった。
脱いだ靴。
置きっぱなしのバッグ。
キッチンの流し台。
(……何も、変わってない……)
それが、少しだけ不思議だった。
蒼太はリビングの椅子に腰掛け考える。
(どうしよう……)
(青さんには……)
その名前が浮かんだ瞬間、
胸が、きゅっと縮む。
(……言えない)
(言ったところで、解決されない……)
(……心配、させたくない)
(……これは、僕自身の問題……)
気づけば、
自分の中で、結論を急いでいた。
(……自分で、何とかしよう)
(……母さんが連絡くれるまで)
頭の中で、考える。
現実的で、冷静な思考。
――いつもの、蒼太。
でも、その裏で、
小さな声が、確かに鳴っていた。
スマホの画面を、
もう一度だけ見る。
未読のままのLINE。
蒼太は、深く息を吸い、
ゆっくりと吐いた。
そのまま部屋の奥へ進み、
机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは、
使い込まれた預金通帳だった。
ページをめくる。
残高を確認した瞬間、
胸の奥に溜まっていた息が、ふっと抜けた。
「……よかった」
小さく、独り言がこぼれる。
未納になっている今期の授業料――
これなら、なんとかなる。
一瞬の安堵。
けれど、その次の瞬間、
別の数字が頭の中に浮かび上がる。
(三年の授業料……四年の授業料……)
あと、二年。
授業料が、二年分。
生活費。
家賃。
考えれば考えるほど、胸が重くなる。
(……バイト、すれば……)
自分に言い聞かせるように、蒼太は考える。
授業の出席を、ギリギリまで減らして。
その分、バイトを増やして。
休みの日も、夜も、できるだけ働いて。
(それなら……)
「……なんとか、なるかな……?」
自分の声が、やけに頼りなく聞こえた。
通帳を握る指に、じわりと力が入る。
不安は消えない。
それでも、
立ち止まるわけにはいかなかった。
蒼太は通帳を引き出しに戻し、
そっと目を閉じた。
蒼太は、ふと、以前青が言っていた言葉を思い出した。
――困ったことがあれば、
何でも相談しろよ。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……相談、か)
現実は、待ってくれない。
これから先、授業料を――
いや、授業料だけじゃない。
家賃。
生活費。
(バイトで……)
頭の中で、必死に計算する。
授業料だけなら、バイトを増やせば、
なんとかなるかもしれない。
でも、家賃と生活費まで含めたら――。
(……青さんに、相談して……)
一瞬、考えがよぎる。
少しだけ、
ほんの少しだけ、
多めに出してもらえたら。
――でも。
「……だめだ」
声に出して、否定した。
青は、来年の四月から忙しくなる。
そう言っていた。
教師になる準備が本格的に始まって、
バイトは、もうできなくなる。
それに――
(青さんには、弟と妹が二人……)
青の家族のことが、自然と頭に浮かぶ。
下に、まだ二人。
青の実家だって、これから先、
もっとお金がかかる時期だ。
(そんな人に……)
「負担、かけられない……」
誰もいない部屋で、蒼太は小さく呟いた。
頼れる人がいる。
一一それでも、『頼ってはいけない』と、
自分で線を引く。
それが、蒼太の選んだ答えだった。
蒼太は、ゆっくりと首を振った。
(そんな人に……負担、かけられない)
青には、夢がある。
教師になる夢。
野球部のコーチになる夢。
そして、いつかは甲子園へ。
グラウンドに立って、
子どもたちに野球を教えて、
誰かの人生を支える側になる――
そんな未来。
(僕のせいで……)
胸の奥が、ちくりと痛む。
(青さんの夢を、壊しちゃいけない……)
足を引っ張ってはいけない。
重荷になってはいけない。
だって――
(青さんは、僕の大事な恋人だから……)
その事実だけは、揺るがなかった。
だから、これでいい。
誰にも頼らない。
一人で背負う。
「……うん、これでいい」
蒼太は、自分自身に言い聞かせるように、
心の中で、何度も何度もつぶやいた。
これが正しい選択だと。
これで、間違っていないのだと。
* * *
蒼太。大学二年一月。
それからの日々は、
静かに、確実に形を変えていった。
大学の出席は、ぎりぎりまで削った。
単位を落とさない最低ラインだけ出席して、
その分、バイトのシフトを詰め込む。
いつものカフェ。
蒼太はカウンター越しに店長へ頭を下げた。
「……あの、シフト、少し増やしていただけませんか」
理由は、詳しく話さなかった。
店長は少し考えてから、うなずいた。
「わかった、できる範囲で調整するね」
「ありがとうございます」
増えたシフト。
けれど、それでも、足りない。
蒼太は、掛け持ちでバイトを始めた。
短期。
即日支給。
単発の仕事。
倉庫作業。
警備員。
慣れない仕事でも、
選んでいる余裕はなかった。
重い荷物を運び、
長時間立ちっぱなしで、
気づけば、足の感覚が鈍くなる。
帰宅する頃には、
シャワーを浴びる気力すら残っていない日もあった。
睡眠時間は、明らかに減っていた。
目を閉じても、すぐには眠れない。
眠れても、数時間で目が覚める。
(……まだ、いける)
そう思いながら、体を起こす。
けれど――
講義中、ノートを取る手が止まる。
文字が頭に入ってこない。
勉強しようと机に向かっても、
数分で集中が切れる。
テスト勉強も、試験対策も、
いつの間にか後回しになっていた。
成績は、気づけば、
みるみるうちに落ちていった。
それでも蒼太は、立ち止まらなかった。
――止まれなかった。
* * *
蒼太、大学三年生四月。
午前五時五十分。
青は、いつものように目を覚まし、
ジャージに着替えて軽くストレッチをしていた。
まだ薄暗い部屋。
カーテンの隙間から、朝の気配が差し込む。
ベッドの上で身じろぎする蒼太に、
青は声を落として尋ねる。
「……蒼太、走り行くぞ。……起きれるか?」
一瞬の間。
「ん……先輩……今日は無理……」
かすれた声。
青はそれ以上、何も言わなかった。
「そっか……」
短く、やさしく。
「じゃ、鍵閉めていくからな」
「……ごめん……先輩と走りたいのに……」
青は振り返らず、静かに玄関へ向かう。
ドアが閉まる音が、朝の空気に溶けた。
残された部屋で、蒼太は天井を見つめる。
(……先輩、ごめんなさい)
心の中で、そっと呟く。
頭の中で、今日の予定をなぞる。
――昼前から、倉庫作業のバイト。
――夕方から、カフェ。閉店まで。
(……今日も、頑張らなくちゃ)
自分に言い聞かせるように、
蒼太はゆっくりと体を起こした。
* * * * * * * * * *
* * * * * * * * * *
* * * * * * * * * *
そして、時は戻る。
現在。
蒼太、大学四年生。
4月18日、午後3時45分。
ここは、蒼太のバイト先のカフェ。
コーヒーの香りが、
店内いっぱいに広がっている。
深くて、やさしくて、どこか落ち着く匂い。
その香りに包まれながら、
蒼太は、はっと我に返った。
(……ああ)
(……ちょっと、考えすぎちゃったな……)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
気づけば、目の端に涙がにじんでいた。
(ほんと……
今まで、いろんなことがあったな)
頭の中で、そっと振り返る。
こうして考えてみると――
自分の人生は、
大変なことばかりだった気がする。
(……それでも)
乗り越えてきた。
青さんと、一緒に。
(そして、これからも……)
(青さんと、一緒に)
その思いが、静かに胸に広がる。
ふと、時計を見る。
(あ、もうすぐ16時だ)
「……そろそろ、バイトの準備しなきゃ」
蒼太は立ち上がり、
エプロンに手を伸ばした。
コーヒーの香りの中で、
蒼太の新しい未来は、
今も、これからも、続いていく。




