第5章 蒼太の過去Ⅳ 寄せ合う家族
蒼太の大学合格発表の翌日。
大宮駅前、蒼太は青を待っていた。
春の風はまだ冷たいが、
空はもう、冬とは違う。
人混みの中に、
見慣れた姿を見つけた瞬間――
蒼太は、ふと気づいた。
青の髪が、少し伸びている。
前に会ったときより、
前髪が目にかかりそうで、
耳にかける仕草が、どこか慣れない。
高校の頃の、
きっちり短く整えられた髪とは違う。
無造作で、
少しだけ、生活の匂いがする髪だった。
(……あ)
(先輩、もう……ちゃんと大人だ)
伸びた髪のせいで、
表情が少し柔らかく見える。
蒼太の表情は明るくなる。
「蒼太。合格、おめでとう」
その言葉を聞いた瞬間、
蒼太は一歩も迷わず、青に飛びついた。
「やりましたよ!約束、守りました!」
勢いそのままに、
青の腕にしがみつく。
「お、おい……」
苦笑しながらも、
青は蒼太の背中を、軽く叩いた。
「ほんとに……よく頑張ったな」
「はい!もう、めちゃくちゃ頑張りました!」
二人は、駅近くのレストランに入った。
昼どきで、店内は賑やかだ。
カトラリーの音と、笑い声。
「何食う?」
「えーっと……」
メニューを眺めて、
少し考える。
「今日は……
いちばん高いやつ、いいですか?」
「合格祝いだ。好きなの頼め」
「やった」
嬉しそうに笑う。
料理を待つ間、
会話は途切れなかった。
「入学したらですね、
いろいろやりたいことあります」
「バイトとかもやりたいし」
「あはは、学生の本分はどうした」
「勉強漬けだったんで、
接客とかやってみたくて」
「蒼太は明るいし、
人の気持ちをよく考えられるから、
接客向きだな」
「はい、あと学食とかも楽しみてす。
一緒に行けますか?」
「もちろん。安い割には美味しいからいいぞ」
「本当ですかぁ、じゃあ、三食学食で」
「それは、さすがに飽きるぞ」
「いろいろ考えるだけで、
なんか……楽しくて」
その顔は、
本当に明るかった。
料理が運ばれてくる。
「いただきます!」
フォークを持つ手取りも、軽い。
青は、
蒼太の様子を、黙って見ていた。
よく食べる。
よく笑う。
よく話す。
青は、それ以上、聞かなかった。
店を出るころには、
外はすっかり春の陽射しだった。
青のアパートの前で、
蒼太は一度だけ深呼吸をした。
「……お邪魔します」
ドアが開く。
「……やっと来た」
その一言に、
蒼太はきょとんとした。
「え?」
「休みの日とかさ、
泊まりに来ればよかったのに」
「え、え、え……泊まるって……」
一気に顔が赤くなる。
「そ、その、その……」
「あはは」
青は、楽しそうに笑った。
「そんな意味じゃないよ」
「……そうなんですか?」
ほっとしたような、
でもどこか残念そうな声。
青は靴を脱ぎながら、
少し間を置いてから言った。
「……いや。実は……、そんな意味……かも」
「え?」
「今日さ‥‥泊まるか?」
一瞬、沈黙。
次の瞬間――
蒼太の表情が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
即答だった。
「即決かよ」
「だって……」
「先輩のアパート、
前から来てみたかったですし……」
「それに……」
言いかけて、
少し照れる。
「一緒にいられるなら、うれしいです」
青は、
思わず小さく息を吐いて笑った。
「……ほんと、素直だな」
「えへへ」
部屋には
窓からやわらかい春の光が差し込んでいる。
「それと……住むところのこと、
親にはどう言うんだ?」
「はい」
間髪入れずに返事が返る。
「友だちとルームシェアするって、
もう言ってあります」
あまりに迷いのない声だった。
「えっ……もう?」
「はい」
蒼太は、当然のことのように続ける。
「そう言うつもりで決めてましたから」
「……」
一瞬、
青の言葉が止まる。
蒼太は、それに気づかない。
「僕、けっこうおっちょこちょいなんで。
一人暮らしするより、
誰かと一緒のほうが安心だって
親もそう納得してます」
声は明るい。
説明も、筋が通っている。
「……そっか」
少し間を置いてから、
青が言った。
「蒼太……ごめんな」
「え?」
「なんか……気、使わせてたみたいで」
「……?」
蒼太は、一瞬だけ首を傾げる。
そして、
すぐに笑った。
「大丈夫です」
即答だった。
「こう話しとくのが自然じゃないですか」
青
「……」
「先輩と一緒に住めるなら、
僕、安心です」
「……そっか。じゃあ……よかった」
「はい」
二人の間に、
短い沈黙が落ちる。
青に促されて、
ゆっくりと室内を見渡す。
アパートは2DK。
決して広すぎるわけじゃないが、
二人で暮らすには、十分な間取りだった。
「……わ」
その言葉に、
青は小さく笑った。
蒼太は、
キッチン、ダイニング、
奥の部屋と順番に見て回る。
「……部屋、きれいですね」
「いや、昨日めっちゃ掃除した」
「じゃあ、掃除得意なんで、
これからは任せてください」
「……蒼太は、優しいな」
「でも家事はさ、
いろいろ分担して決めよう」
「はい!」
返事は、軽やかだった。
青は、
奥のもう一つの部屋の前で、
少し立ち止まる。
「それと……部屋なんだけど」
「?」
「一応、二つあるから」
言いながら、
蒼太の様子をそっと窺う。
蒼太は一瞬考えて、
すぐに笑顔になった。
「じゃあ……、
こっちは、僕の私物置いてもいいですか?」
「うん」
「あとは、勉強部屋とか。
筋トレ部屋とか」
そして、
当たり前のように続けた。
「で、寝室は一緒、ということで」
「……っ」
一瞬、言葉に詰まる。
「……恥ずかしいな」
「え?」
「でも先輩」
「初めからダブルベッド買ってるほうが、
もっと恥ずかしいと思います」
「い、いや!こ、これは……。
俺、寝相悪いし」
「……?」
蒼太は、首を傾げた。
「この一年で、
寝相、悪くなってたんですか?」
「……」
青は、観念したように息を吐く。
「……いや、一緒に、寝よう」
その言葉は、
照れ隠しも、言い訳もない。
ただ、まっすぐだった。
蒼太の表情が、
ぱっとほどける。
「はい!それがいいです」
窓から、
午後の光が差し込む。
部屋の中が、
柔らかく明るくなる。
* * *
夜。
キッチンから、
油のはねる音が聞こえてくる。
味噌の匂いと、
焼き魚の香ばしさが混じって、部屋に広がった。
「……よし」
テーブルに並んだのは、
野菜炒め、味噌汁、焼き魚。
野菜炒めは、少しだけ焦げ目がついている。
「……あ、
ちょっと焦げてますね」
「そ、そんなことない。火、強すぎた」
「ふふ」
二人で向かい合って座り、
「いただきます」と声をそろえる。
「どうだ」
「……美味しいです。焦げてるとこも」
「フォロー下手か」
「でも、ほんとに……」
蒼太は、味噌汁を一口飲んで、
ほっと息をついた。
湯気。
温度。
素朴な味。
笑いながら食べる、温かい食卓。
(……ああ)
蒼太は思う。
(これが、幸せな生活なんだ……)
特別な料理じゃない。
完璧でもない。
でも、
一緒に食べて、
一緒に笑っている。
それだけで、
胸の奥が満たされていく。
夕食を終え、
食器を片付けたあと。
キッチンから、コーヒーを淹れる音が聞こえてくる。
ポットから注がれる湯の音。
少し遅れて、香りが部屋に広がった。
「はい、蒼太」
「ありがとうございます」
マグカップを受け取り、
両手で包む。
温度が、じんわりと伝わってくる。
青は、
自分のカップを置いてから、
一度だけ、言葉を飲み込むように間を置いた。
「……なあ」
「はい?」
青は、
蒼太の表情を確かめるように、
少しだけ視線を泳がせてから、口を開く。
「来月からのことなんだけど……」
「生活費とか、家賃とかさ」
「……はい」
「新生活、安定するまでは……、
無理しなくていい」
「しばらくの間は、俺が出すし。
俺が多めに出しても、全然構わない」
言い切りではなく、
提案の形。
「……そういうふうに、
……考えてる」
蒼太は、
一瞬だけ目を伏せる。
ほんの、呼吸一つ分。
そして、顔を上げて、
いつもの穏やかな声で言った。
「大丈夫です」
即答だった。
「僕、ちゃんと、家賃も、生活費も、
半分出します」
「……無理、してないか?」
「してません」
「……したくないんです」
青
「……」
「恋人に、寄りかかるってこと」
青
「……」
蒼太は、
言葉を選ぶように、
少しだけ間を置く。
「僕、それはしたくないんです……。
だって……支え合っての恋人、
じゃないですか」
その言葉は、
とてもまっすぐで、
とてもきれいだった。
間違っているところは、
どこにもない。
「……」
青は、
すぐには返事ができなかった。
蒼太は、
その沈黙を、気にしない。
「本当に、全然大丈夫です!」
「普通に一人暮らしするより、
家賃も生活費も、
負担は全然軽いですから」
数字の話。
合理的で、反論の余地がない言い方。
「それに……」
少しだけ、声を和らげる。
「もし、本当に困ったら……、
先輩には、ちゃんと相談しますから」
(……母さん)
(……父さん)
蒼太の頭の奥に、
ふと、過去の光景が重なる。
父の夢のために、
自分を削って支え続けた母。
『私は大丈夫』
『私がやるから』
『あなたのためだから』
そう言いながら、
少しずつ、
追い込まれていった父の背中。
だからこそ――
同じ場所には、立たない。
(……寄りかからない)
(……対等でいる)
(そうじゃないと……、壊れる)
蒼太は、
それを“正しさ”だと思っていた。
その結論に、
疑いはなかった。
「……蒼太」
「はい」
「……分かった」
「じゃあ、
何かあったらすぐ相談するんだぞ」
「はい」
「ちゃんと、やります」
その言葉に、
青はそれ以上、踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
蒼太の言葉は、
あまりにも正しく、
あまりにも誠実で、
否定する理由が、
見当たらなかったから。
二人は、
黙ってコーヒーを飲む。
部屋には、
静かな時間が流れている。
蒼太は、
胸の奥で、
小さく息を吐いた。
(……これでいい)
(ちゃんと……してる)
(母さんみたいには……、ならない)
そう確信している一方で、
青は、
なぜか胸の奥に残る違和感を、
言葉にできないまま、
飲み込んでいた。
同じテーブルで、
同じ未来を話しているのに。
二人の「支え合い」は、
ほんの少しだけ、
意味が違っていた。
そのズレは、
まだ名前を持たない。
けれど確かに、
ここにあった。
* * *
先にシャワーを浴びた蒼太は、
蒼太は静かに寝室へ向かった。
――いや。
もう「青の寝室」じゃない。
(……二人の、だ)
ベッドに腰を下ろすと、
ふわりと、青の匂いがした。
洗剤と、
ほんのりとした体温の残り香。
(……好きだな)
この匂いに包まれると、
心が、ほどける。
不安も、緊張も、
全部、遠くなる。
(ずっと……)
(ずっと、ここにいたい)
そう思った瞬間、
バスルームのドアが開く音がした。
青が、
濡れた髪のまま出てくる。
目が合った。
言葉は、いらなかった。
二人は、
自然に、吸い寄せられるように近づいて――
唇が、重なる。
深く、
熱を確かめ合うキス。
蒼太は、
思わず青の服をつかんだ。
離れたくない、
という気持ちが、そのまま手に出る。
青も、
その背中を抱き寄せる。
距離が、消える。
一年分の時間。
言えなかった言葉。
触れられなかった夜。
それらを埋めるように、
強く、でも確かに、抱きしめ合う。
部屋の灯りが、
静かに落とされる。
暗闇の中で、
蒼太は青の胸に額を預けた。
聞こえるのは、
呼吸と、心臓の音。
(……ここにいる)
(ちゃんと、生きてる)
その感覚だけが、
確かだった。
夜は、
静かに、深く、
二人を包み込んでいった。
* * *
蒼太 大学一年生 五月
ゴールデンウィーク。
蒼太は、久しぶりに山梨の実家へ帰ってきていた。
玄関の前に立った瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
懐かしい匂い。
空気の温度。
靴箱の上に置かれた、小さな置物。
――父が出て行く前。
まだこの家が「家族」だった頃の記憶が、
一気に押し寄せてくる。
(……あ)
でも、すぐに気づく。
もう、あの頃の家じゃない。
同じ場所に立っているはずなのに、
どこか、決定的に違う。
蒼太は、靴を脱ぎながら、
ふと首を傾げた。
(……あれ?……男もののスリッパがある?
こんなの前からあったっけ……?)
空気が、少し違う。
掃除の仕方でもない。
家具の配置でもない。
けれど――
誰かが出入りしているような気配が、
ほんのわずかに残っている。
(……気のせい、かな)
蒼太は視線を外し、
そう思いながら、居間へ向かった。
母は、そこにいた。
ソファに腰かけ、
少し疲れたような表情で、
それでも、蒼太を見て微笑む。
やつれてはいる。
けれど、
昔と変わらない、あの優しい顔だった。
「蒼太、合格おめでとう……、
よく頑張ったわね」
「うん。……むちゃくちゃ勉強したから」
少し照れたように笑うと、
母も、くすっと笑った。
「今年一年分の授業料はね?
もう、振り込んでおいたから」
「……ありがとう」
胸の奥に、
小さな重みが落ちる。
「ああ、それとね……。
前にも話したと思うんだけど……」
少しだけ、言葉を探す間。
「やっぱり、家賃や生活費の仕送りは……、
全部は難しいかもしれない」
「うん!大丈夫だよ」
即答だった。
「バイトもするし。ちゃんと、やれる。
だから……母さんは心配しないで」
「……ごめんね」
「でも、できることがあったら。
何でもするから。
困ったら、すぐ連絡するのよ」
「わかった」
そのやり取りは、
どこか静かで、落ち着いていて、
もう「子どもと親」の会話ではなかった。
「……あ、そうそう」
母は、テーブルの上から、
一枚の紙を差し出す。
「これ、新しい住所ね」
「うん」
受け取りながら、
胸が、少しだけ跳ねた。
(……何か、言われるかな?)
誰と住むの?
どういう関係の人?
そんな質問を、
心のどこかで身構えていた。
でも。
「……誰と住むかは分からないけど……、
……その人と、仲良くするのよ」
「……え?」
思わず、声が出た。
「一緒に住むなら……仲がいいのが、
一番だから」
それだけだった。
追及も、詮索もない。
「……うん。わかった」
胸の奥に、安堵とも、
戸惑いともつかない感情が広がる。
そのあと、
蒼太は自分の部屋に戻った。
机の引き出しを開け、
棚を見渡す。
自分が大事にしてきたもの。
父からもらった、思い出の品。
グローブ。
ノート。
昔の写真。
一つひとつ手に取って、
静かに鞄に詰めていく。
(……持っていくものと)
(……置いていくもの)
それを分ける作業は、
思っていたよりも、ずっと静かだった。
蒼太は、
窓の外を一度だけ見た。
この家は、もう昔の場所じゃない。
でも――
自分は、ちゃんと前に進んでいる。
そう、信じたかった。
鞄のファスナーを閉め、
蒼太は、ゆっくりと立ち上がった。
蒼太は、予定を切り上げて、
早めに帰ることにした。
理由をうまく言葉にできたわけじゃない。
ただ、なんとなく――
この家が、
もう自分の居場所ではない気がした。
居心地が悪いわけじゃない。
母が冷たいわけでもない。
それでも、
胸の奥に、わずかな違和感が残っていた。
「蒼太、もう帰るの?」
「うん。バイトあるし……最近、忙しくて」
半分は本当で、
半分は、そう言うしかなかった。
「……そう」
少しだけ、寂しそうに笑う。
「あ、そうだ」
母は立ち上がり、
棚の奥から小さな箱を取り出した。
「これ、渡そうと思って」
「え……なに?」
「大学入学祝い。
こんなことしかできないけど……」
蒼太は、箱を受け取った。
軽い。
でも、不思議と重みを感じる。
「じゃあ、気をつけて帰るのよ」
「うん……ごめん
‥‥また、帰るから」
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
* * *
蒼太は中央線に乗り、
大宮のアパートへと戻った。
車窓に流れる景色を、
ぼんやりと眺めながら。
気づけば、
空はすっかり夕暮れに染まっていた。
今日は、青はバイトで遅くなると言っていた。
アパートに着き、
鍵を開けて中に入る。
その瞬間――
胸の奥が、ふっと緩む。
(……あ)
(ここだ)
靴を脱ぎ、
部屋の灯りをつける。
(青さんと暮らす、この家が……)
(もう、自分の家なんだ‥‥)
その事実が、
静かに、でも確かに胸に落ちた。
蒼太は自分の部屋に入り、
ベッドの端に腰を下ろす。
さっき母から受け取った箱を、
そっと開けた。
中に入っていたのは、
シンプルな腕時計だった。
派手さのない、
実用的で、落ち着いたデザイン。
学生の腕に、
ちょうどいい時計。
「……母さん、ありがとう」
小さく、呟く。
蒼太は机の上に置いてある、
もう一つの腕時計に目を向けた。
――父からもらった腕時計。
並べて置く。
カチカチ、カチカチ。
二つの時計が、
同じリズムで時を刻み始める。
カチカチ、カチカチ。
「……父さん」
「……母さん」
胸の奥に溜まっていたものが、
ゆっくりと溢れ出した。
音を立てないように、
声を押し殺して。
蒼太は、
二つの時計を見つめながら、
静かに泣いた。
過去と、今と、
まだ言葉にならない未来。
それ全部が、
胸の中で重なっていた。
青は、まだ帰ってこない。
部屋には、
時計の音だけが、
規則正しく響いていた。




