第4章 蒼太の過去Ⅲ 月と太陽
蒼太 高校三年四月
青は卒業し部屋を去っていった。
新チームが始まって、しばらく経った。
蒼太の新しいバッテリーの捕手は、
なかなか定まらなかった。
誰もが、悪くはない。
キャッチングも、ブロッキングも、配球理解も、
「できていない」わけじゃない。
――でも、違う。
青と組んでいたときの感覚とは、
どうしても重ならなかった。
球は、ミットに収まる。
ワンバンも止めてくれる。
首を振れば、応じてくれる。
それでも――
蒼太の中で、何かが噛み合わない。
技術の問題じゃない。
相性の良し悪しとも、少し違う。
『何が違うのか』
そう聞かれても、
蒼太自身、うまく説明できなかった。
言葉にしようとすると、
すべてが曖昧になってしまう。
ただ一つ、確かなのは。
青と組んでいた頃、
あれほど自然に湧いていたはずの感情が、
もう、胸の奥で熱を持たなくなっていることだった。
――勝ちたい。
――もっと投げたい。
――このバッテリーで、上に行きたい。
そういう気持ちが、
音もなく、少しずつ薄れていく。
練習は、こなせる。
メニューも、投球も、
身体はまだ、ちゃんと動く。
でも、心だけが置いていかれていた。
蒼太は気づいていた。
自分の野球への情熱が、
もう以前の場所にはないことを。
それでも、
「投げられなくなったわけじゃない」
「辞めたいわけじゃない」
そうやって、
自分に言い聞かせるように、
今日もマウンドに立っていた。
――青がいないグラウンドで。
ブルペンの空気は、まだ冷たさを残していた。
蒼太は、
投げ終えたボールを一つずつ、
丁寧にバッグへ戻していく。
その動きを、
少し離れた場所から、
佐々木は黙って見ていた。
「……岡谷」
「はい」
返事は、昔と同じはずなのに、
声がわずかに硬い。
「三年になったな」
「……はい」
それだけの一言なのに、
胸の奥がざわつく。
――昔は、この人の声が好きだった。
余計な感情を挟まず、
でも、ちゃんと見てくれている気がした。
いつからだろう。
その“ちゃんと見ている”視線が、
少しだけ、怖くなったのは。
「捕手の件だが」
「……はい」
「誰と組んでも、致命的な問題はない」
「……そう、ですね」
「だが、お前は納得していない」
断定。
逃げ場のない言い方。
蒼太は、視線を落とす。
「理由は、聞かない」
その言葉に、
一瞬だけ、蒼太は顔を上げかけて――
やめた。
「自分でも分かっていないのは、
たぶん、本当だ」
「……」
「だからこそ、今は」
佐々木は、
少し言葉を選ぶように、間を置く。
「野球だけを、
理由にしなくていい」
蒼太の指が、
ほんのわずかに止まる。
「勝ちたいとか、
レギュラーとか、
そういうのに、無理に戻らなくていい」
「お前には、
他にも“支え”があるだろ」
直接的な言葉は、ない。
名前も、関係も、
何一つ、口にされていない。
それでも蒼太には、
何のことを指しているのか、
はっきり分かってしまった。
(……やっぱり)
胸の奥が、冷える。
「それを否定するつもりはない」
「むしろ、大事にしろ」
「……」
正しい。
優しい。
逃げ道も、与えてくれている。
――なのに。
その言葉は、
蒼太の中を、素通りしていった。
何も、残らない。
「ただ」
「マウンドに立つ以上、
“誰かのために投げている自分”に
甘えるな」
蒼太は、
ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「……はい」
それ以上、何も言えなかった。
佐々木は、
蒼太の返事に、深く踏み込まない。
ただ、最後に一言。
「お前は、
誰かの居場所になるほど、
軽い投手じゃない」
その言葉も――
やはり、届かなかった。
佐々木が去ったあと。
蒼太は、
しばらくその場に立ち尽くしていた。
(……いつからだろう?)
この人の言葉を、
ちゃんと受け取れなくなったのは。
理由も、きっかけも、
分からない。
ただ一つ分かるのは。
佐々木が
「分かっている」ことを、
自分が、分かってしまっているという事実だった。
そしてそれが、
どうしようもなく、
苦手だった。
* * *
夜の寮の廊下は、
消灯前の静けさに包まれていた。
蒼太は、
人のいない階段の踊り場で、
スマホを耳に当てる。
『蒼太。元気か?』
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が、ふっと緩む。
「はい。先輩、
引っ越し……落ち着きました?」
『ああ。
まだ部屋の中、ぐちゃぐちゃだけどな』
軽く笑う声。
『まあ、少しずつ片付けてるよ』
「……それ、先輩らしいですね」
自分でも驚くほど、
声が自然に出た。
『はは。蒼太に言われたくないな』
少しの沈黙。
電話越しに、
生活音がかすかに混じる。
「先輩の新しい部屋、どんな感じなんですか?
『えーと、だな。
2Kのアパートで、2階。正確には2DKかな』
「へえ……」
『キッチンは、まあまあ広い。自炊しようと思えば、
ちゃんとできるくらいには』
蒼太は、
頭の中で勝手に間取りを描いていく。
少し古そうな床。
白い壁。
日当たりのいい窓。
『一人で住むには、
十分すぎる広さだな』
少し間を置いてから、
まるで独り言のように続ける。
『……たぶん。
二人でも、大丈夫だと思う』
「……っ」
言葉が、喉につかえた。
電話越しなのに、
胸の奥を、はっきりと掴まれた気がする。
「……大宮、でしたっけ?」
『あぁ。そうだよ。
結構いいところだぞ。
近くに大きな公園もあってさ』
蒼太は、
目を閉じて、その光景を思い浮かべる。
『朝、ランニングしてる人も多いし』
「いいですね」
通話は、
しばらく無言のまま続いていた。
どちらも、
切る理由が見つからない。
『……なあ、蒼太』
「……はい」
『会いたいよ』
一瞬、息を飲む音。
蒼太は、返事をしない。
『……俺さ。思った以上に、
蒼太に会いたくて仕方ない』
声が、少しだけ低くなる。
「……」
沈黙。
逃げ場のない沈黙。
「……僕もです」
ようやく出た声は、
かすかに震えていた。
「先輩の……大学生に、なった先輩の顔……見たいです」
電話の向こうで、
青が小さく息を吐く。
『……ずるいな』
「……え?」
『時間を見つけてさ。うち、来るか?』
一瞬、呼吸が止まる。
『外泊許可、取れば来れるだろ?』
「……」
胸の奥が、
強く引っ張られる。
「……はい。
行きたいです」
素直な気持ち。
でも、すぐに続ける。
通話の向こうで、
青の息遣いが、微かに聞こえている。
蒼太は、
言葉を探しながら――
なぜか、全然関係ない記憶を思い出していた。
中学の頃。
一人食べていたコンビニ弁当。
(……あの頃の僕は)
「……先輩」
『ん?』
「……今は、我慢します」
はっきりとした声。
「野球、もう……最後ですし。
最後まで、ちゃんとやりきりたいんです」
一度、息を整える。
「それで……。
堂々と、胸を張って‥‥、先輩のところに、
会いに行きます」
その言葉は、
自分に言い聞かせるようでもあり、
約束でもあった。
短い沈黙。
『……蒼太』
名前を呼ぶ声が、
少しだけ、揺れた。
「でも、その代わり――電話、していいですか?」
『ああ』
「いっぱい、電話していいですか?」
『もちろんだよ。許可なんかいらない』
短いけれど、
温度のある間。
『……蒼太‥‥、好きだよ』
その一言が、
何よりも、胸に残った。
「はい、僕も先輩のこと。好きです」
『また、電話しよう‥‥じゃあ……
もう、消灯過ぎてるだろ』
『おやすみ、蒼太』
「はい、おやすみなさい」
通話が切れたあと。
蒼太は、
しばらくその場から動かなかった。
スマホを握ったまま、
ゆっくりと顔を上げる。
雲の切れ間に、
満月が浮かんでいた。
蒼太は、
ただ、それを見ていた。
闇夜を照らす、たった一つの満月を。
会えない夜に、
確かにそこにある光を。
蒼太は、
満月を見ていた。
* * *
蒼太 高校三年 六月
最後の夏大会を前にして、
チーム全体は、目に見えて盛り上がっていた。
グラウンドには、
張りつめた空気と、期待が混じっている。
ブルペン。
新しい正捕手が、
ミットを構えたまま声をかける。
「岡谷、いいよ。球、走ってる」
蒼太も真剣な眼差しで応える。
「うん……いけるかもしれない」
「もっと、ギリギリ攻めてこう」
「うん。やろう!」
短い言葉。
迷いのない返事。
傍目から見れば、
すべてが順調だった。
投球内容も、
バッテリーの呼吸も、
チームの雰囲気も。
――そう、傍目から見れば。
とある夜。
消灯前の寮の部屋で、
蒼太はベッドに腰を下ろしていた。
突然、スマホが震える。
画面を見た瞬間、
胸が、はっとする。
(……先輩?)
しかし表示されていたのは、
見慣れた名前だった。
母からだ。
「……もしもし」
『蒼太、元気にしてる?』
「うん。元気だよ」
少しだけ、声を作った。
「ごめん。
ゴールデンウィーク、帰れなくて」
『ううん、‥‥いいのよ。
蒼太、頑張ってるんでしょう?
もう……最後の県大会ね‥‥』
その言葉に、
胸の奥が、わずかに揺れる。
『‥‥ごめんね』
『今まで、
蒼太の試合、
なかなか見に行けなくて‥‥』
一拍。
『‥‥最後の大会はね。お母さん、見に行くから』
「……ありがとう」
短い返事。
でも、それ以上、
何も言えなかった。
『じゃあ‥‥、怪我のないようにね。
それだけは‥‥、気をつけて』
「うん」
通話が切れる。
静まり返った部屋で、
蒼太は、
しばらくスマホを見つめていた。
順調なはずの六月。
でも、
“最後”という言葉だけが、
胸の奥に、静かに残っていた。
* * *
蒼太 高校三年 八月
甲子園には、届かなかった。
最後の打球が外野に落ちた瞬間、
歓声とため息が、同時にスタンドを包んだ。
それでも。
蒼太の顔は、
不思議なほど、晴れ晴れとしていた。
悔しさがないわけじゃない。
もっと投げたかった。
もっと、この仲間たちと続けたかった。
――それでも。
蒼太は、
胸の奥で、はっきりと感じていた。
最後の夏を、
ちゃんと投げきったという実感を。
逃げずに、
途中で折れずに、
最後まで、マウンドに立ち続けたという達成感を。
そして、
スタンドを見上げたとき。
人混みの中で、
小さく手を振る母の姿を見つけた。
その瞬間、
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……来てくれたんだ‥‥)
今まで、
ほとんど試合を見に来られなかった母。
それでも最後の大会だけは、
ここに来てくれた。
それだけで、
十分だった。
甲子園には届かなかった。
でも、
蒼太の夏は、
途中で終わらなかった。
最後まで、
ちゃんと、やりきった。
その事実を、
蒼太は、確かに感じていた。
* * *
八月の終わり。
蒼太は、野球部を引退した。
ユニフォームを畳み、
グラウンドに立つことのない日常が始まる。
蒼太は、受験に向けて、
早速、机に向かっていた。
参考書を開き、
鉛筆を走らせる。
野球のない時間は、
思っていたよりも、静かだった。
お盆休みには、父と会っていた。
久しぶりに、
野球の話をたくさんした。
試合のこと。
マウンドのこと。
最後の夏のこと。
父は、
蒼太の野球を素直に褒めてくれた。
そして、
これからの進路の話もした。
その数日後。
勉強の合間、
スマホが鳴る。
画面に表示された名前を見て、
蒼太は少し首をかしげた。
(この前、会ったばかりなのに……)
「もしもし。父さん?」
『蒼太。今、大丈夫か』
「うん。大丈夫だよ」
『‥‥勉強、はかどってるか』
「ぼちぼち」
『この前、受験の話をしただろ。
予備校の手配しておいた。
しっかり勉強に励め』
『‥‥‥頑張れよ』
同じ言葉が、
少し形を変えて、何度も繰り返される。
『お父さんな‥‥、
蒼太が、大学に受かるよう、応援してるから』
「……ありがとう。父さん」
通話は、
そこで終わらなかった。
しばらくの沈黙。
父が、
何か別の言葉を探しているのが、
電話越しにも分かった。
「……父さん、
‥‥‥他に、話したいことあるんじゃない?」
『……ああ、実はな』
『‥‥今度、再婚することにした』
「……そうなんだ」
不思議と、
ショックはなかった。
驚きも、
怒りも、
湧いてこない。
ただ、
そういう事実なんだと、
淡々と受け止めていた。
『それでな‥‥』
『もし……』
『蒼太がよければ、でいい‥‥‥』
『‥‥‥嫌じゃなければでいいんだが』
『その人を‥‥‥、
一度、蒼太に紹介したい』
「……いいよ」
即答だった。
『……本当に、いいのか』
少し、戸惑った声。
「大丈夫だよ」
『‥‥蒼太……ありがとう』
ほっとしたのが、
声の端から伝わってくる。
『じゃあ‥‥、来月、会ってくれるか』
「うん。分かった」
『蒼太‥‥、勉強、頑張れよ。
‥‥じゃあな』
「……うん」
通話が切れる。
スマホの画面が暗くなり、
部屋には、鉛筆の音だけが戻ってきた。
野球は終わった。
家族の形も、少しずつ変わっていく。
それでもそのときの蒼太は、
ただ「今」を生きていただけだった。
その時の、父との会話が――
これが最後になるとは。
蒼太は、
心にも、
思っていなかった。
ただ静かに、
次のページをめくる。
未来が、
まだ続いていると、
疑いもせずに。
* * *
蒼太 高校三年 九月
授業中だった。
黒板の文字を、
ノートに写していた――はずだった。
そのとき、
教室のドアが静かに開く。
事務の職員が、
そっと中をのぞき、先生に声をかけた。
「……先生、ちょっと」
「どうしましたか?」
ひそひそとしたやり取り。
教室の空気が、
わずかにざわつく。
「岡谷くん。
すぐ職員室まで来てください」
「……え?」
何が起きているのか、
分からない。
でも、
胸の奥が、ざわついた。
そこから先の記憶は、
曖昧だった。
職員室を通り過ぎ、
さらに奥。
気づけば、
校長室に通されていた。
部屋の中には、
数人の大人たち。
知らない顔ばかり。
「‥‥岡谷くん。
‥‥落ち着いて、聞いてください」
校長がゆっくりと静かに語りかける。。
「……お父さんが、
‥‥亡くなりました」
「……え?」
言葉の意味が、
頭に入ってこない。
テレビドラマを、
遠くから眺めているような感覚。
(何を言っているんだろう?)
(この人たちは‥‥)
スーツを着た男性達が、
淡々と説明を続ける。
「交通事故です」
「再婚相手の女性も」
「同乗していて」
「お二人とも」
言葉だけが、
音として流れていく。
蒼太は、
何も分からなかった。
気がついたら、
寮の自分の部屋にいた。
午後の寮は、
しんと静まり返っている。
誰もいない。
蒼太は、
部屋の中央に立ったまま、
動けなかった。
ふいに、
父の顔が浮かぶ。
野球を教えてくれた父
優しかった父
いつも自分を応援してくれた父
――そこで、
感情が、追いついた。
泣いた。
声が、
張り裂けるほど、泣いた。
「なんで……」
「なんで、父さん……」
次の休み、
会う予定だった。
そのとき、
話したいことが、たくさんあった。
『おめでとう』、って言いたかった。
……いや。
それだけじゃない。
もっと、
もっと、
話したいことがあった。
言えなかったこと。
言わなかったこと。
(なんで、今まで‥‥)
(もっと、ちゃんと‥‥)
後悔が、
胸の奥から溢れ出す。
蒼太は、
ただ、泣いた。
泣いて、
泣いて、
涙が枯れるまで。
・
・
・
そして、
気づけば夜になっていた。
(……あ)
(‥‥涙って、
本当に枯れるんだ‥‥)
蒼太は、
父のことが嫌いじゃなかった。
いや――
好きだった。
むしろ、
大好きだった。
なのに。
(なんで、その一言が、
出てこなかったんだろう?)
『好き』
ただそれだけの感情が、
どうして、言葉にならなかったのか。
答えは、
もう、返ってこない。
窓の外を見上げる。
月は、出ていなかった。
新月の夜だった。
* * *
九月の終わり
九月の終わり。
秋の風が、少しずつ吹き始める季節だった。
寮の部屋で、
何気なくつけていたテレビが、
急に騒がしくなる。
画面には、
見覚えのある名前。
――岡谷一郎、急死。
ニュースのトップだった。
「人気投手、プロ野球界のスター」
「事故死」
そんな言葉が、
淡々と並べられていく。
父の若い頃の映像。
過去のインタビュー。
自信に満ちた表情で、
未来を語る姿。
それらが、
まるで別人のように流れていく。
ワイドショーでは、
さらに無遠慮だった。
事故で亡くなった
再婚相手の女性について、
真偽も分からない話を
「可能性」や「噂」として並べ立てる。
誰かの人生が、
ゴシップとして消費されていく。
蒼太は、
何も言わずに
テレビの電源を切った。
画面が暗くなり、
部屋に、静けさが戻る。
父の葬儀は、
密葬で行われた。
蒼太は、
その間、落ち着いていた。
……いや。
落ち着いていたというより、
「無」だった。
悲しいとも、
つらいとも、
考えられない。
ただ、
時間と光景だけが、
自分の横を流れていくのを感じていた。
母は、
蒼太の付き添いという形で、
葬儀会場の近くまで来ていた。
けれど、
会場の中には入ってこなかった。
入らなかったのか。
入れなかったのか。
詳しい事情は、
聞かなかった。
ただ一つ確かなのは、
母が、
葬儀の席にはいなかったということだけだった。
葬儀が終わり、
蒼太は外に出る。
会場の近くにある、
小さな公園。
そこに、
喪服姿の母がいた。
ベンチに座り、
静かに泣いていた。
声を上げることもなく、
ただ、涙を落としている。
「……一郎‥さん‥‥」
小さく、
そう呟く声が聞こえた。
蒼太は、
母のそばに、
そっと寄り添った。
何も言わない。
慰めもしない。
母は、
ただ、静かに泣いていた。
秋の風が、
二人の間を、
静かに通り抜けていった。
* * *
蒼太 高校三年 十月
十月。
蒼太は、
悲しみを忘れるかのように、
ひたすら勉強していた。
机に向かい、
参考書を開き、
鉛筆を走らせる。
考える暇を、
与えないように。
そんなとき、
スマホが鳴った。
画面を見る。
――青さん。
蒼太は、
一度、深く息を吸った。
(‥‥大丈夫。
ちゃんと‥‥しなきゃ)
そう自分に言い聞かせて、
電話に出る。
「……はい」
『あ、蒼太』
少し、
安堵したような声。
『やっと出た。最近どうしたんだよ。
電話も出ないし、
LINEも返ってこないし』
『……すごく、心配してた』
「あ……先輩。ごめんなさい」
「ちょっと、予備校が忙しくて‥‥』
言葉を選ぶ。
「‥‥それと、模試が続いてて‥‥、正直、
今は勉強に集中しないと、
合格、まだギリギリなんです」
『……そうか』
『よかった‥‥、
何かあったんじゃないかって、
ずっと思ってたから』
胸の奥に、
小さな痛み。
(……心配、かけた)
「大丈夫です、先輩」
「本当に、心配かけて、
‥‥ごめんなさい」
言葉にしなかったけれど、
本当は――
会いに行きたかった。
声を聞きたかった。
でも、
それをしてしまったら、
きっと、自分は崩れる。
「……本当は、先輩のところに行きたい‥‥です。
でも、今‥‥先輩に甘えたら‥‥勉強に、
集中できなくなる気がして‥‥」
(‥‥ウソじゃない‥‥)
「僕、絶対、落ちるわけにはいかないんです」
『……蒼太』
『ごめんな‥‥、無理、させてるよな』
「……違います」
「無理じゃないです。
僕が、やりたくてやってるんです」
少し、
声に力がこもる。
「先輩と、
早く一緒になりたいから」
「‥‥だから、頑張れます」
短い沈黙。
『……そっか』
『今日、蒼太の声が聞けてよかった』
『‥‥じゃあ、
勉強、頑張れ』
『何かあったら、すぐ電話くれ』
『どんなことでもいい。
用事がなくたっていいから‥‥』
通話が切れる。
蒼太は、
そっとスマホを下ろし、
窓の外を見上げた。
夜空。
そこには、
細く、静かに光る
三日月が浮かんでいた。
満ちてはいない。
でも、
確かに、そこにある光。
蒼太は、
その月を、
しばらく見つめていた。
* * *
蒼太 高校三年 十一月
四十九日が、終わった。
父への悲しみが、
少しずつ生活から薄れていく。
蒼太は、
父の墓の前に、
小さく手を合わせた。
「……父さん」
声は、
もう震れていなかった。
泣きたいわけでも、
無理に前を向こうとしているわけでもない。
ただ、
起きた事実を、
事実として受け入れつつあった。
父には、遺産があった。
そして、
蒼太には相続権があった。
書類を見せられたとき、
頭に浮かんだのは、
意外なほど単純な言葉だった。
(……相続?)
(‥‥どうでもいい)
それが、
正直な気持ちだった。
父は、
確かに財産を持っていた。
けれど同時に、
借金も抱えていた。
結果として、
遺産のほとんどは、
その清算に使われた。
蒼太の手元に残ったのは、
わずかな金額だけだった。
それを見ても、
蒼太の心は、
動かなかった。
多いとか、
少ないとか、
そういう問題ではなかった。
蒼太は、
それを静かに受け取った。
(……これでいい)
(これは、
父さんのやり方なんだ)
最後まで、
きれいな形ではなかったかもしれない。
でも、
父なりに、
残したものだった。
蒼太は、
それを――
父の、
不器用な愛だと思うことにした。
そして、
何も言わず、
胸の奥にしまった。
その後、
蒼太は、より勉強に集中した。
学校の休み時間。
昼休み。
放課後。
寮に戻ってからも。
気がつけば、
いつも机に向かっていた。
ただ、
ひたすら勉強した。
考えないために。
立ち止まらないために。
同時に、
青とは、よく電話をしていた。
短い時間。
用事のない電話。
声を聞くだけで、
少しだけ息ができる。
青の声に、
青の変わらない優しさに、
触れたいという気持ちは、
確かに本物だった。
それでも――
蒼太の心の片隅には、
いつも同じ思いがあった。
(……青さんに、
心配をかけてはいけない)
会いに行かない。
甘えすぎない。
ちゃんとしている自分でいる。
それが、
今の蒼太なりの、
青への誠実さだった。
そして同時に、
自分を守るための、
小さな距離でもあった。
ある日の夜。
母から、電話がかかってきた。
「…‥もしもし」
『……蒼太‥‥、お父さんの‥‥四十九日‥‥、
終わったのね‥‥』
姿は見えない。
でも、声だけで分かった。
明らかに、やつれている。
「うん‥‥終わったよ‥‥」
『……蒼太、お疲れさま‥‥大変だったね』
その一言で、
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
「……うん」
しばらく、無言。
電話の向こうで、
母が言葉を探しているのが分かる。
『……蒼太、大学受験‥‥、進路は決まったの?』
「うん。S大学‥‥。
S大学を受けるよ」
『……そう。国立ね』
少しだけ、
安堵したような息。
『蒼太、‥‥大丈夫よ』
『心配いらない‥‥授業料は、
ちゃんと私が出すから』
“私が出すから”。
その言い切りが、
母の精一杯なのだと、
蒼太には分かった。
『‥‥お父さんもね、
蒼太が大学に行くの、願ってたから‥‥』
『それに……
私も、行かせたい』
『‥‥大丈夫よ。慰謝料もあるしね。
‥‥なんとか‥‥なるから』
「……母さん」
「無理、しないで」
「授業料だけで、十分だよ。
父さんが残してくれた遺産もあるし、貯金もある」
「バイトもする」
「自分の生活くらい、
‥‥自分で、なんとかできるから」
電話の向こうで、
母が小さく息を吐いた。
『……ごめんね』
『‥‥できることなら、
何でもして‥‥あげたいんだけど‥‥』
「……母さん」
「無理しないで‥‥体だけは、壊さないでね」
『……ありがとう』
少し、
声が震れている。
『じゃあ……、勉強、頑張ってね』
『風邪、ひかないように』
それ以上、
何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
「……うん」
通話が切れる。
スマホを、
そっと置く。
(……勉強、しなきゃ)
その一言が、
今の蒼太を、
なんとか支えていた。
* * *
蒼太 高校三年 二月
合格発表の日。
その日は、
蒼太は一人だった。
寮の部屋。
静まり返った空間で、
ノートパソコンの前に座る。
指先が、少しだけ震えている。
(……お願いします)
(父さん……)
心の中で、
父親を呼ぶ。
(合格していますように‥‥)
そして――
(父さん‥‥
僕を、青さんのところに、
連れて行ってください)
更新ボタンに、
カーソルを合わせる。
一瞬、ためらってから、
クリックした。
画面が切り替わる。
次の瞬間。
そこに、
はっきりとした文字が表示された。
――合格。
蒼太は、
しばらく、その文字を見つめていた。
理解するまで、
少しだけ時間がかかった。
そして――
世界が、
音を立てて、色づき始めた。
今まで、
色のない世界だった。
静かで、
感情を押し殺したままの世界。
それが、一瞬で変わる。
光が差し、
音が戻り、
賑やかな世界へと、姿を変えていく。
胸の奥が、
ふわりと浮いた。
「……ありがとう」
声に出して、
そう呟いた。
父さん。
これで――
やっと、行ける。
青さんのところへ。
逃げずに。
言い訳もせずに。
胸を張って。
一緒に、生きていける。
蒼太は、
画面の向こうにある未来を、
そして、もう返事の来ない相手を、
同時に思いながら――
静かに、前を向いた。
窓の外に目をやる。
空は、
どこまでも澄み切った青空だった。
雲ひとつない空に、
太陽が、まっすぐに光り輝いている。
逃げ場のない光。
でも、もう目を逸らさなくていい光。
蒼太は、
その青空の下で、
胸を張って歩き出す準備をしていた。




