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最終章 終わらない僕たちの物語



数日後



夕方のキッチンに、包丁の音が静かに響いていた。


フライパンから立ちのぼる湯気と、だしの香り。




蒼太は、いつものようにエプロンをつけ、


手際よく料理を仕上げていく。




(……今日も、ちゃんと作れた)




青の帰宅時間に合わせて、火を弱める。


それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。




玄関のドアが開く音。




「ただいま」




「おかえりなさい、青さん。


もうすぐできるよ」




「蒼太、いつもありがとう」




二人で並んで食卓につく。


会話は多くないけれど、沈黙は気まずくない。


湯気の向こうに、いつもの光景がある。




食事を終え、片付けを済ませると、


自然と二人はリビングのソファへ向かった。




テレビはついているが、


蒼太の意識は画面に向いていなかった。




膝の上で、指先がわずかに絡まる。




(……言わなきゃ)




蒼太ほ一度、息を吸い、


そして――ほんの一瞬だけ、視線を落とした。




「……青さん」




「ん?」




「ちょっと、いい?」




青はリモコンを置き、蒼太の方を見る。




「なんだ?」




蒼太は迷いを含んだ沈黙のあと、


ゆっくり口を開いた。




「母のことなんだけど……」




その一言で、青の表情が少しだけ引き締まる。




「僕、やっぱり……


母に、会おうかと思ってます」




蒼太は自分の手を見つめたまま続けた。




「でも、正直に言うと……


僕一人じゃ、


まだ、母と会う勇気がなくて」




声が、ほんの少し震える。




「だから……もし、


青さんがイヤじゃなければ……」




蒼太は顔を上げ、まっすぐ青を見る。




「一緒に、立ち会ってほしいんです。


……僕の、パートナーとして」




一瞬の沈黙。




けれど、青は迷わなかった。




「わかった」




即答だった。




「もちろんだよ」




蒼太の目が、わずかに見開かれる。




青は蒼太の手を、しっかりと握った。




「蒼太の悩みも、苦しみも……


もう、蒼太一人のものじゃない」




「俺も――」




青は、はっきりとした声で続ける。




「俺も一緒に、蒼太と向き合うよ」




その言葉に、蒼太の胸がいっぱいになる。




「……ありがとう、青さん」




声は小さいけれど、確かに前を向いていた。




青は何も言わず、ただ隣にいる。


それだけで、蒼太は初めて――




「一人じゃない」と、心から思えた。




それから、蒼太はスマートフォンを手に取った。




画面に表示された「母」の名前。


それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。




――自分で決めたことだ。




そう思っていても、


文字を打つ指先は、思うように動かない。


わずかに震えているのが、自分でも分かった。




(……大丈夫)




蒼太は、一度スマホを置き、深く息を吸った。




(僕は、一人じゃない)




もう一度、画面を見つめる。


そして、ゆっくりと文章を打ち始めた。




『会うなら、条件があります』




『大学の会議室で会うこと。


一対一では話し合わないこと。


立会人として、


僕が信頼できる人に同席してもらいます』




送信ボタンを押した瞬間、


心臓が強く脈を打つ。




既読がつくまでの時間が、


やけに長く感じられた。




――けれど。




ほどなくして、画面が光る。




母からの返信だった。




蒼太は、息を詰めたまま、ゆっくりと開く。




そこに書かれていたのは、


たった一行。




『蒼太、ありがとう』




それだけだった。




言い訳も、説明も、感情もない。


それなのに、その短い言葉は、


蒼太の胸に、静かに落ちていった。




スマートフォンを握る手の震えが、


少しずつ、収まっていく。




(……これで、いい)




蒼太は画面を伏せ、


そっと目を閉じた。




9月上旬、土曜日。




大学構内は、


平日とは別の静けさに包まれていた。


人の気配はほとんどなく、


遠くで風に揺れる木々の音だけが聞こえる。




蒼太と青は、大学の会議室にいた。




長机と椅子が整然と並ぶ、どこにでもある部屋。


けれど、今日の蒼太にとっては、


特別な意味を持つ場所だった。




二人並んで腰掛けている。


左手には、それぞれ指輪。




蒼太は無意識のうちに、


自分の指輪を親指でなぞっていた。




今日は土曜日で、大学は休日だ。


それでも、この会議室の鍵を開けるために、


松本がわざわざ来てくれていた。




「じゃあ……私は、近くにいますので」




そう言って、松本は穏やかに微笑んだ。




「終わったら、声をかけてください」




それ以上は、何も言わない。


問い詰めることも、


心配を口にすることもなかった。




「ありがとうございます」




蒼太がそう言うと、


松本は軽くうなずいて、


部屋を出ていった。




ドアが静かに閉まる。




(……近くに、いてくれる)




それだけで、胸の奥にあった不安が、


少し和らぐのを感じた。




青が、そっと隣を見る。




「大丈夫か?」




完全に平気なわけじゃない。


けれど、逃げたいとも思わなかった。




――自分で、ここに来ると決めた。




時計の針が、約束の時間を指す。




そのとき。




廊下の向こうから、足音が聞こえた。




一歩一歩、近づいてくる音。




蒼太の、背筋が、自然と伸びる。


指先に、再び力が入る。




青は何も言わず、ただそこにいる。


逃げ場を塞ぐのではなく、背中を支える距離で。




やがて、会議室のドアの前で、足音が止まった。




ノック。




――コン、コン。




「……失礼します」




聞き覚えのある声。




ドアが開き、


母が、そこに立っていた。




母は、穏やかな顔をしていた。




扉の前に立つその姿を見た瞬間、


蒼太の胸に湧いたのは


――怒りでも、悲しみでもなかった。




(……あ、母だ)




それだけだった。




よかった。


ちゃんと、ここに来てくれた。


そんな、ひどく単純で、静かな安堵。




母も、蒼太の顔をまっすぐに見つめていた。


そして、ゆっくりと口を開く。




「……蒼太」




たった一言。


名前を呼ぶだけで、言葉は続かなかった。




次に、母の視線が、自然と隣へ移る。




蒼太は、その動きを逃さず、前に出る。




「母さん。こちらは、佐伯青さんです」




青の名前を、はっきりと口にする。




「僕が大学に入ってから、一緒に住んでいます。


大学で困っていたときも


……ずっと、力になってくれました」




少しだけ間を置いて、続けた。




「今も、一緒に暮らしています」




蒼太は、母を見る。




「僕の、大事な人です。


……信頼できる、パートナーです」




青は何も言わず、静かに立ち上がり、


丁寧に頭を下げた。




母は、その姿を受け止めるように見てから、


ふと、二人の左手に視線を落とす。




薬指に光る指輪。




一瞬、目が止まったが、


母は何も言わなかった。




三人は、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。




会議室に、言葉のない時間が流れる。


時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。




やがて――




母が、重たい口を開いた。




「……蒼太」




一度、息を整えてから、続ける。




「ごめんなさい」




それは、飾りのない声だった。




「こんなことを言って……


許してもらえるとは、思っていない……」




母は、視線を逸らさずに言う。




「それでも……


今日、会ってくれて、ありがとう」




その言葉は、謝罪というより、


感謝に近かった。




蒼太は、すぐには返事をしなかった。


ただ、その場に座り、


母の言葉を受け止めていた。




逃げ出したくなるほどの痛みは、


もうなかった。




(……ちゃんと、向き合えてる)




それだけで、


この場所に来た意味は、確かにあった。



母は、しばらく視線を落としたまま、


それから重たい口を開いた。




「……私ね、もう長くないの」




声は低く、静かだった。




「……乳がん。


見つかった時には、かなり進行していて……


治療はしたけど、


……もう余命は、半年くらいって言われてる」




淡々とした口調で、事実だけを並べる。




「……来週から、


緩和ケアの病院に入院するの」




そう言って、母は一枚の紙を取り出し、


蒼太の前に置いた。




蒼太、それを黙って受け取る。




紙には、母の今の住所、入院先の病院名。


通帳の保管場所、銀行名、口座番号。


生命保険の証券番号まで、整然と書かれていた。




母は、それを指さすこともなく、静かに続ける。




「……これくらいしか、


 あなたに残せるものはないと思うけど」




その言葉には、執着も、取り繕いもなかった。




そして母は、ゆっくりと、


これまでのことを語り始めた。






離婚した後


家の名義を得たこと。


けれど、管理は想像以上に大変で、


固定資産税の負担が重くのしかかっていたこと。




一人で住むには、


あまりにも大きすぎる家だったこと。




本当は、家を売って生活費に充てるべきだった。


頭では、分かっていた。




それでも、できなかった。




あの家は、幸せだった頃の家族の象徴で、


母自身が生きてきた証のような場所だったから。




「……あなたにも、残してあげたかったの」




その思いが、家を手放せなくした。




パート先を通じて、


親しくなった男性がいたこと。


相談に乗ってくれて、


頼れる存在だったこと。




蒼太が大学に入学してから、


生活はさらに苦しくなった。




それでも、学費だけは何とか払いたくて、


無理をして働き続けたこと。




その結果、体調を崩し、


検査入院でがんが見つかったこと。




仕事ができなくなり、


学費と生活費の両方に追い詰められたこと。




そのとき、親身になってくれていたその男性に、


もう一度、相談してしまったこと。




男性は事業をしていて、


資金繰りに困っていると言っていた。




「すぐに事業が回るから、返せるから」




そう言われて、


なぜか止まれなかった。




家を担保に、銀行からお金を借りたこと。


そのお金を、男性に貸してしまったこと。




その資金で、


蒼太の学費、


自分の治療費、


そして生活費を賄っていたこと。




やがて、男性と連絡が取れなくなったこと。




蒼太の大学二年生、


前期の学費を振り込んだ時点で、


もう、それ以上を払う余力は残っていなかったこと。




「……私は、母親失格だと思った」




だから、あのメモを残して、去った。




自分でも、なぜそうしたのかは分からない。


ただ、そのときは、


それしか選べなかった。




母は、言い訳も、感情の起伏もなく、


ただ静かに語り終えた。




会議室には、しばらく沈黙が落ちる。




蒼太は、何も言わない。


青も、口を挟まない。




ただ、そこに座り、


母の言葉を、すべて受け取っていた。



母は、少し間を置いてから、続きを話した。




銀行への返済が、やがてできなくなったこと。


そして、家は差し押さえられたこと。




あの家は、


もう自分の手を離れていった。




その後、母は小さなアパートに移り、


身の丈に合った暮らしをするようになった。




「……細々と、暮らしてた」




そう言って、わずかに目を伏せる。




体調は、さらに悪くなり、


入院もした。




その頃には、もう――


自分は長くないのだと、悟っていた。




「蒼太に、連絡しようとは……何度も思った」




けれど、できなかった。




何を言えばいいのか、分からなかった。


今さら、どんな顔をして会えばいいのかも。




「……でもね」




母は、はっきりとした声で続ける。




「……あなたのことを、一日も忘れたことはなかった」




それは、言い訳でも、取り繕いでもなかった。




「忘れられるわけ、なかった……」




苦しかった。


ただ、それだけだった。




母は、それ以上は語らなかった。



蒼太は、黙って聞いていた。




怒りはなかった。


感情の起伏も、ほとんどなかった。




ただ、目の前にいる母を見て、


胸に浮かんだのは――




(……可哀想な人だ)




責める気持ちでも、許す気持ちでもない。


ただ、憐れみだった。




母は、視線を落としたまま、続ける。




「……私はね」




言葉を選ぶように、ゆっくりと。




「私には、家族しかいなかったの。


 ……家族が、すべてだった」




短く息を吸う。




「でも……妻としても、失格。


母親としても、失格」




自嘲するような笑みが、かすかに浮かぶ。




「私、本当に……ダメな人間」




そして、はっきりと。




「蒼太……ごめんなさい」




それきり、母は口を閉ざした。




会議室に、沈黙が落ちる。




時計の針の音だけが、静かに響いていた。




やがて、母は顔を上げ、


隣に座る青の方を見る。




「……佐伯さん」




その声は、深く、静かだった。




「ありがとう……ございます」




頭を下げる。




「蒼太のそばにいてくれて……


蒼太を、支えてくれて」




言葉を探すように、一度、間があく。




「……感謝しても、感謝しきれません」




そして、まっすぐに青を見る。




「どうか……どうか、これからも


蒼太のそばに、いてあげてください」




「蒼太のことを……よろしくお願いします」




青は何も言わず、深く頭を下げた。




母は、最後に蒼太を見る。




その視線には、もう迷いはなかった。




「蒼太……」




「佐伯さんと……


いつまでも、仲良くするのよ……」




それだけを言って、母は黙った。




ータは、しばらく母を見つめていた。




そして、ただ一言だけ。




「……うん。わかった」




それだけだった。




本当は、


もっと言いたいことがあったはずだった。


問い詰めたい気持ちも、確かめたいことも、


胸の奥には、確かに残っていた。




それでも、


その言葉しか、口から出てこなかった。




蒼太は、母が差し出したメモを受け取る。




紙の重みを、指先で感じながら立ち上がった。




「じゃあ……帰るね」




それだけ言って、


蒼太は先に会議室を出ていった。




青も、すぐに後を追う。




――が、ドアの前で、


ふと立ち止まり、振り返った。




椅子に座ったまま、


うつむいている母に向かって、


静かに声をかける。




「……お母さん」




母は、ゆっくりと顔を上げた。




その目から、言葉がこぼれ落ちる。




「……私、生まれてきた意味が、あったのかしら」




震える声。




「私は……何のために、生きてきたの……?」




青は、間を置かず、まっすぐに答えた。




「それは、違います」




強くもなく、弱くもない声だった。




「俺は……感謝しています」




一歩だけ、前に出る。




「蒼太を……


 蒼太を、俺に会わせてくれて、


 ありがとうございます」




言葉を選びながら、続ける。




「蒼太を産んでくれて……


 ありがとうございます」




その瞬間だった。




母の目から、初めて、涙がこぼれ落ちた。




一筋、また一筋と、


頬を伝って落ちていく。




「……そっか」




かすれた声。 




「私……私にも、生まれてきた意味が……


夢が、あったのね……」




母は、声を上げることもなく、


ただ、静かに、静かに泣いていた。




青は、深く一礼する。




「……失礼します」




そう言って、会議室を出ていった。




ドアが閉まる。




そこには、


一人、泣き続ける母だけが残った。



* * *



それから、何事もなかったように、


蒼太の生活は続いていった。




大学に行き、


バイトをして、


来年の試験に向けて、淡々と勉強する。




変わらない毎日。




ただ、そこに――


一つだけ、新しい習慣が加わった。




入院している母のもとへ、通うこと。




蒼太は、定期的に、


母が入院している病院へ


見舞いに行くようになった。




病室で交わす会話は、決まっている。




「元気?」




「今日は、体調どう?」




それだけだった。




過去の話をすることもない。


責めることも、確かめることもない。




ただ、


今日の体調と、


天気の話と、


病院食の味の話。




それ以上でも、それ以下でもなかった。




病棟の看護師に、声をかけられることもあった。




「仲のいい親子ですね」




「いい息子さんですね」




蒼太と母は、顔を見合わせることもなく、


肯定も、否定もせず――




「……はい」




とだけ、答えた。




それで、十分だった。




特別な和解があったわけでもない。


過去が消えたわけでもない。




けれど、


今日もこうして顔を合わせ、


短い言葉を交わして、


同じ時間を過ごす。




それだけで、


二人の関係は、


静かに、今の形へと落ち着いていった。




蒼太は、病室を出て、


また日常へ戻っていく。




大学へ行き、


バイトへ行き、


勉強をする。




そして、


次の見舞いの日が来たら、


また、病院へ向かう。




何事もなかったように。




それが、


今の蒼太の選んだ距離だった。



そして――


2026年3月。




山梨の山里にある静かな墓地




そこには、


喪服に身を包んだ蒼太と、青の姿があった。




母は、直前まで元気だった。


少なくとも、そう見えた。




亡くなる一週間ほど前から、


急に、体調が悪くなった。




腰が痛いと言い、


起き上がるのもつらそうで、


それからは、あっという間だった。




蒼太が病院に駆けつけたとき、


母の意識は、もうなかった。




言葉を交わすことは、できなかった。




それでも――


最後を、見取ることはできた。




蒼太は、母の顔を見つめながら、考えていた。




母は、苦しかったのだろうか。


それとも、


安らかに、眠るように逝ったのだろうか。




それは、分からなかった。




ただ一つ、はっきりしていたのは――


母の最後の顔が、


とても穏やかだったということ。




母には、もう家族はいなかった。




葬儀は、簡素に執り行われ、


母は、実家の墓に納められた。




かつて、


母が「手放せなかった家族の象徴」




今は、


その墓を訪れる人間は、ほとんどいない。




これから先、


そこへ足を運ぶのは――


おそらく、蒼太だけだった。




蒼太は、墓前に立ち、


手を合わせる。




言葉は、なかった。




責める気持ちも、


赦すという感情も、


もう、はっきりとは形を持たなかった。




ただ――


母は、生きて、


そして、静かに人生を終えた。




その事実だけを、


蒼太は、胸に受け取っていた。




隣には、青がいる。




二人は、何も言わず、


同じ方向を向いて立っていた。




季節は、春へ向かっていた。




静かな夕方だった。




墓地を出て、並んで歩く二人。


風は冷たくもなく、暖かくもない。




蒼太が、ぽつりと口を開いた。




「……終わった」





「……」




「悲しく……ないんだ」




少し考えるように、歩みを止めずに続ける。




「……あっという間だったよ」




「母さんが亡くなっても……


不思議と、悲しくならなかった」




「……父の時は、あんなに泣いたのに」




青は何も言わず、ただ隣を歩く。




「……僕、思うんだ」




「母は……幸せだったのかな、って」





「……」




「母は、不器用な人だった。


……悪い人じゃ、なかった」




「幸せになりたくて……


必死だったんだと思う」




一呼吸、置く。




「でも、どこかで……


何かが、掛け違えたのかなって」




歩く音だけが、道に残る。




「……それでもさ。


僕は……母さんと父さんの子で、よかった」




「……そう、思うんだ」




青は、少しだけ立ち止まり、蒼太を見る。




「……それで、いいんだと思う」




蒼太は、わずかに笑った。




「うん」




再び、二人は歩き出す。




蒼太は、少しだけ立ち止まり、青を見る。




「……青さん」




「ん?」




「ありがとう」




短い言葉だったが、


そこに込められたものは多かった。




「僕は、これから……


自分の人生を、精いっぱい生きていこうと思う」




少しだけ、空を見上げる。




「母の分まで」




青は、何も言わずに聞いている。




「だから……青さん」




蒼太は、まっすぐに青を見る。




「これからも、僕と一緒に生きてください」




一瞬の間。




そして、少し照れたように付け足す。




「……僕、長生きしますんで」




青は、ふっと息を吐くように笑った。




「ああ」




短く、迷いのない声。




「俺はずっと、蒼太を守り続けるよ」




「一人には、しない」




蒼太は、何も言わなかった。


ただ、静かにうなずいた。




「……青さん」




「ん?」




「帰ろう」




「ああ」




少し歩いてから、蒼太が続ける。




「なんか、食べて帰ろう?」




「ああ。何にする?」




「うーん……」




一拍置いて。




「じゃあ……寿司?」




「いいよ」




ふと、思い出したように言う。




「今日は、3月8日だしな」




「あ……そうか」




「忘れてたな?」




笑いながら。




「ううん、そんなことない」




「本当か?」




「……忘れてないよー!」




蒼太は、そう言って笑いながら走り出す。




「おい、待て!」




青も笑いながら、蒼太を追いかける。




春の気配が、風に混じる。




悲しみも、過去も、


すべて置いていくわけじゃない。


それでも――




僕たちは、これからも未来へ向かって走り出す。




笑いながら。


二人で。




いつまでも。




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