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第11章 新たな波紋



大学就職課の半個室ブース。


外のざわめきが薄い壁越しに滲み、


ここだけ時間がゆっくり流れている。




蒼太は、膝の上で指を組んだまま、


視線を落としていた。




誰かに「自分の目標」を口にするのは、


これが初めてだった。




大学事務職員になりたい――


その理由も、覚悟も、


言葉にすればするほど不器用になっていく。




途切れがちな説明。


選びきれない言葉。


それでも、必死に紡がれた一つひとつは、


嘘のない本音だった。




松本は、途中で遮ることなく、


ただ静かに耳を傾けていた。


メモを取る手を止め、時折うなずきながら、


蒼太の言葉を受け止める。




話し終えたあと、蒼太は小さく息を吐いた。


伝えきれなかった気がして、


少しだけ不安になる。




けれど――


松本の表情は、穏やかだった。




「……ちゃんと、伝わりましたよ」




その一言で、蒼太の胸の奥に溜まっていた


緊張が、静かにほどけていく。




不器用でも、言葉足らずでも。


蒼太の思いは、確かに松本に届いていた。




* * *




「岡谷くん、ちょっと待っててくださいね」




松本はそう言って立ち上がり、


ブースの外へ出ていった。




蒼太は、少しだけ背筋を伸ばして待つ。


言ってしまった――という感覚と、


もう引き返せない――という覚悟が、


胸の中で混ざり合っていた。




ほどなくして、松本が数冊の書類と


パンフレットを抱えて戻ってくる。




机の上に広げられたのは、


「大学事務職員 採用試験案内」と


書かれた資料だった。




「じゃあ、順番に説明しますね」




松本は穏やかに微笑む。




「岡谷くん。


 大学事務職員になるために、


 何が必要か……何かご存知ですか?」




蒼太は一瞬、言葉に詰まる。




「……いえ、正直、まだ。


すみません、なんか勢いで言っちゃって……」




そう言って、視線を落とす。




「大丈夫ですよ」




松本は即座に否定した。




「分からないのは当たり前です。


そういうことを一緒に整理して、


お伝えするのが、


私たち就職課の仕事ですから」




その一言に、蒼太の肩の力が少し抜けた。




松本は資料の一枚を指で押さえながら、


説明を始める。




「まず、よく誤解される点なんですが……


大学事務職員は“公務員”だと思われがちなんです」




蒼太は、はっとして顔を上げる。




「でも、実際には――


ほとんどの大学事務職員は、


公務員ではありません」




松本は、ゆっくりと言葉を選びながら続ける。




「国立大学でも、


今は“国立大学法人”という扱いです。


つまり、国や自治体の職員ではなく、


法人の職員なんですね」




「じゃあ……」




「はい。いわゆる国家公務員試験や


地方公務員試験とは、別物です」




松本はパンフレットを一枚めくる。




「大学ごとに、独自の採用試験があります。


筆記試験、SPIや教養試験、論文、面接……


内容も時期も、大学によって違います」




蒼太は、真剣な表情でうなずいていた。




「ただし――」




松本は少しだけ声のトーンを柔らかくする。




「その分、“どんな人を求めているか”が、


大学ごとにかなりはっきりしています」




「人を支える仕事がしたいとか、


学生対応に真摯に向き合えるとか、


教職員や外部と調整する力があるとか……」




松本は、蒼太を見る。




「岡谷くんがさっき話してくれた内容、


実は、大学事務職員の仕事と、


とても相性がいいんですよ」




蒼太の胸が、静かに震えた。




「……本当、ですか」




「ええ」




松本はうなずく。




「勢いで言った、なんて言ってましたけど。


私は、そうは思いません」




机の上の資料を、そっと蒼太の方へ寄せる。




「ちゃんと“理由のある目標”だと、


感じました」




半個室ブースの中で、


蒼太は初めて、


自分の進みたい道が


現実の輪郭を持ち始めた気がしていた。




松本は、資料の中から一枚を取り出し、


指で二つの項目を示した。




「大学事務職員には、


大きく分けて二種類あります」




蒼太は、身を乗り出す。




「正規職員と、非正規の任期事務職員です」




まず、松本は正規職員の欄を指差した。




「正規職員は、いわゆる“本採用”ですね。


総合職として、


長期的に大学運営に関わっていく立場です」




少し間を置いて、続ける。




「ただし……正直にお伝えしますね」




蒼太の心臓が、わずかに跳ねた。




「今年度の正規職員採用試験は、


すでに受付が終了しています」




一瞬、時間が止まったような感覚。




蒼太は、思わず小さく声を漏らした。




「えっ……そうなんですか……?」




視線が、自然と机の上に落ちる。




松本は、すぐに言葉を重ねた。




「はい。でも、大丈夫ですよ」




その一言に、蒼太は顔を上げる。




「正規職員の採用試験は、


ほとんどの大学で毎年実施されています」




松本は、穏やかに、


しかしはっきりと言った。




「岡谷くんの年齢でしたら、


まだ十分に受験できます」




「焦る必要はありません。


今から準備して、来年度以降を目指す、


という選択も、立派な進路です」




蒼太の胸に、張りついていた不安が、


少しずつ剥がれていく。




「……まだ、間に合いますか」




「ええ」




松本は、軽くうなずいた。




「“遅い”どころか、


むしろ“ちょうどいい”くらいです」




松本は、資料を指で揃えながら、


穏やかな声で続けた。




「もし、こちらの大学の採用試験を


受けられるのであれば――


試験内容としては、教養試験、小論文、


そして面接があります」




蒼太は、


無意識のうちに背筋を伸ばして聞いていた。




「まず、教養試験についてですが」




松本は蒼太を見る。




「岡谷くんは、教養学部ですよね」




「はい」




「教養学部で学んでいる内容は、


実はこの教養試験と、


とても相性がいいんです」




松本は、はっきりと言った。




「幅広い知識を整理して考える力、


文章を読んで要点をつかむ力――


そういった力は、すでに身についています」




「ですから、きちんと準備すれば、


十分余裕をもって試験対策に臨めると


思いますよ」




その言葉に、蒼太の表情がわずかに明るくなる。




「それから、小論文ですね」




松本は一拍置く。




「ここでは、特別な知識よりも、


 “どう考え、どう伝えるか”が見られます」




そして、最後に。




「一番重視されるのは――面接です」




蒼太の喉が、こくりと鳴った。




「でも、大丈夫ですよ」




松本は、優しく微笑む。




「岡谷くん。


さっき、大学事務職員になりたいって、


私に伝えてくれたとき――


あのときの思いを、


そのまま面接で話してください」




「上手に話そうとしなくていいんです」




松本は、まっすぐに言う。




「人の話を聞きたい、支えたいと思った理由。


困っている人に寄り添いたいと思った気持ち」




「それは、立派な志望動機です」




少しだけ声を強めて、続けた。




「私は、応援していますよ」




蒼太は、思わず顔を上げる。




「きっと、面接は通ります」




静かに、しかし確かな言葉で。




「自信を持って、頑張ってください」




松本のその言葉は、


蒼太の胸に、


初めて**“進んでいい道”として、


深く刻まれた。**




* * *




その日の夜。


蒼太は自宅のリビングで青の帰宅を待っていた。




外はすっかり暗くなり、


窓の外には街灯の光がにじんでいる。




仕事で帰りは遅く、


きっと疲れているはずなのに、


青は上着を脱ぐと、


蒼太の向かいに腰を下ろした。




「……話、あるんだろ?」




その一言に、蒼太は小さくうなずいた。




胸の奥で、


今日一日かけて積み上げてきた思いが、


静かに形を持つ。




「青さん」




蒼太は、まっすぐに言った。




「僕、大学事務職員の仕事をやりたい」




青は口を挟まない。


ただ、目をそらさずに聞いている。




「だから、これからは……


大学と、カフェのバイトをしながら、


来年の試験に向けて勉強する」




一度、息を吸う。




「もう、就活はやめる。


来年の大学事務職員の試験に、一本に絞る」




少しだけ声が強くなる。




「絶対、合格するから」




言い切ったあと、


蒼太は青の表情をうかがった。




青は、少し間を置いてから、


静かにうなずいた。




「……そっか」




それだけ言って、ふっと息を吐く。




「蒼太、よかったな」




青は、疲れたはずの体を預けるように、


背もたれにもたれた。




「自分で考えて、


自分自身で答えを見つけたんだろ」




視線を蒼太に戻し、やさしく言う。




「俺は、それが一番嬉しいよ」




蒼太の胸が、じん、と熱くなる。




「がんばれ、蒼太」




余計な言葉はない。


でも、その一言には、信頼も、覚悟も、


全部が込められていた。




蒼太は、深くうなずいた。




* * *




それから、蒼太と青は食事をしながら、


今後のことを話した。




湯気の立つ料理を前にして、


会話は自然と続いていく。


そこには、さっきまでの緊張や不安はなく、


どこか穏やかで、明るい空気が流れていた。




未来の話なのに、


不思議と重たさはない。




希望を確かめ合うような、


そんな食卓だった。




箸を動かしながら、蒼太が切り出す。




「大学事務職員なんだけど……


一応、正規職員と、


任期付きの非常勤の事務職員っていうのがあって」




青はうなずきながら聞いている。




「任期付きの事務職員は、


随時募集してる大学も多いらしくて……


もしタイミングが合えば、


大学を卒業してから、


4月から働ける可能性もあるんだ」




「そっか」




青は短く返す。




「うん。募集があれば、


来年の2月くらいに応募して、


試験に受かれば、


4月から任期付き事務職員として働ける」




蒼太は、一つひとつ確認するように言葉を並べる。




「それで……


任期付きで働きながら勉強して、


来年の7月くらいにある正規職員の試験を受ける」




一瞬、箸を置いて、青を見る。




「そこで合格できたら、正規職員になれる」




「だから、まずはそこを目標にして、


 やっていこうと思ってる」




言い切った声は、落ち着いていた。




青は、少し考えるように間を置いてから、


ゆっくりとうなずいた。




「……うん」




そして、はっきりと言う。




「いいと思う」




それだけで十分だった。




蒼太は、


胸の奥があたたかくなるのを感じながら、


もう一度箸を手に取った。




二人の前には、


不安よりも、先に進むための道筋が、


静かに並んでいた。





青は、箸を止めて、蒼太の顔をじっと見た。




何か言いたそうで、でもすぐには言わない。


その視線に気づいて、蒼太が首をかしげる。




「……なに?」




青は、ふっと小さく笑ってから言った。




「蒼太、顔つき変わったな、


 いい顔してる。


 かっこいいよ」




一瞬、蒼太の動きが止まる。




「え……ちょ、やめてよ、青さん」




照れたように視線をそらす蒼太に、


青は構わず続ける。




「なんかさ……惚れ直しそう」




「ほんとにやめてってばー」




蒼太は苦笑しながらも、耳まで赤い。




青は、


当たり前のことを言うみたいに肩をすくめた。




「いや、本当のことだし」




その一言で、蒼太は何も言い返せなくなった。




食卓には、また静かな時間が戻る。


でも、その空気は、さっきよりもずっとあたたかい。




未来の話と、


何気ない褒め言葉と、


変わらない日常。




その全部が、今の二人を支えていた。




この夜、


蒼太は初めて、自分の選んだ道を、


誰かに肯定してもらえたと感じていた。




* * *




数日後。


大学・就職課。




蒼太は、再び半個室ブースに座っていた。


向かいには、松本。




資料を確認しながら、松本が話をまとめる。




「ということですね。


任期事務職員についてですが――


もし当大学で募集があるとすれば、


早くても、


1月ごろには情報が出ると思います」




蒼太は、うなずきながらメモを取る。




「試験科目は教養試験です。


正規職員の試験ほど難しくはありません」




少しだけ、笑みを含んだ声。




「一般常識レベルの内容ですから、


岡谷くんなら、普通に勉強を続けていれば、


問題ないと思いますよ」




「……はい」




「面接についても同様です。


基本的な受け答えと、


志望動機がしっかりしていれば大丈夫でしょう。」




松本さんは、


ファイルから数枚の紙を取り出し、


蒼太の前に置いた。




「参考資料、出しておきますね。


過去の傾向や、


対策のポイントもまとめてあります」




蒼太は、深く頭を下げた。




「ありがとうございます……。


本当に、なんてお礼を言ったらいいのか……」




松本は、すぐに首を振る。




「大丈夫ですよ、岡谷くん」




やさしく、いつもの調子で。




「前にも言いましたけど、


これが私たちの仕事ですから」




立ち上がりながら、付け加える。




「勉強、頑張ってくださいね」




「はい。では、失礼します」




蒼太がブースを出ていく。




松本は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。




その様子を、


少し離れたデスクから眺めていた


同僚の女性職員が、小声で声をかける。




「松本さん、


ずいぶん岡谷くんに懐かれましたね」




松本は、振り返り、少し照れたように笑った。




「……でも、いい子ですよ」




「へえ」




「まっすぐで。


本当に、びっくりするくらいまっすぐで」




少しだけ、声を落として。




「だから……


つい、かまってしまいますよね」




そう言って、松本はデスク周りを片付ける。




「へえ……松本さんがそんなこと言うなんて、


珍しいですね」




松本は、少しだけ困ったように笑った、




「じゃあ今日は、


もう業務も落ち着いてますから。


お先に失礼しますね」




「はい。お疲れさまでした」




「お疲れさまでした、松本さん」




足音が遠ざかり、


就職課のフロアには静けさが戻る。




松本は、軽く肩を回した。




「……すごく、平和な一日だったな」




独り言のように呟いて、席を立つ。




「さてと。じゃあ、俺もそろそろ帰るかな」




松本はカバンを手に取りながら、


スマホを取り出す。


画面をスクロールして、今日の予定を確認する。




「……あ」




小さく声が漏れる。




「今日は、あいつ……夜勤か」




少しだけ、残念そうに息を吐く。




「じゃあ……


今日はどっかで、なんか食べて帰るかな」




そう決めた、そのときだった。




――プルルル。




静まり返ったフロアに、


スマホの着信音が響く。




松本は、画面を見る。




名前を確認して、わずかに目を細めた。




『佐々木』からだ




廊下の端へ移動する。


人の気配が少ない場所で、


通話ボタンを押した。




「もしもし」




一瞬の間。




「……久しぶりだな、海斗カイト




電話の向こうから、明るい声が返ってくる。




佐々木 海斗


『おー、松ちゃん。久しぶり』




少し間を置いてから、照れたように。




『今回さ、いろいろ世話になったな。


 サンキュー』




松本は、小さく息を吐いた。




「あー……岡谷くんのことだろ」




少しだけ声を落とす。




「あの子は、もう大丈夫だよ」




『……そうか』




「ちゃんと、自分で将来を見据えて、


動き出してる。


もう、あとは見守るだけでいい」




静かな確信を込めて。




「ほんと、海斗。


お前、相変わらず世話好きだよな」




少し笑いながら。




「よっぽど、あの子のことが気になったのか?」




『……まあな』




一拍。




『かわいい教え子だからよ』




その言葉に、松本は何も言えず、


ただ小さくうなずいた。




『まぁ、動き出したなら、


アイツらもう大丈夫だろうな』




『それよりさ、松ちゃん。


来月、キャンプ行こうぜ』




「……ああ」




「予定、確認しとくよ。またLINEする」




『あ、それから来月、


同期の飲み会もあるから』




「了解」




『じゃあ、また連絡するわ。


 ほんと、サンキューな』




通話が切れそうになる、その瞬間。




「あ……なあ、海斗」




『ん?』




松本は、少し言い淀む。




「……ちょっと、この機会だから言うけどさ」




声が、わずかに低くなる。




「これは、


 友達としてじゃなくて――


 親友として言うんだけど




一呼吸置いて。




「お前、もう前に進んでもいいんじゃないのか?」




電話の向こうで、わずかな間。




『……え?』




少し間の抜けた声。




『なんだよ、急に』




「竜司のことだよ」




佐々木の反応を待たず、続ける。




「お前、まだ引きずってるだろ?」




『……そんなことねえよ』




少しだけ語気が強くなる。




『もう、吹っ切れてる』




松本は、否定も肯定もせず、静かに言った。




「あ、そうだ。


 この前さ、


 偶然、大宮駅で会って


 ――覚えてるか?」




『……?』




蒼司ソウジくん」




一瞬、間が空く。




『……え?』




声のトーンが、わずかに変わる。




「竜司の弟だよ。高校のときから、よく一緒に遊んでただろ?」




佐々木は、すぐに言葉を返さない。




「なんか最近……、


こっちに戻ってきてるみたいだぞ」




『……あ、そうか』




戸惑いを隠しきれない声。




「別に、深く話したわけじゃないけどさ」




少し言いにくそうに続ける。




「四国の方で、美術の教師やってたらしい。


最近、辞めたって言ってた」




一拍。




「……また、会えるかもしれないな」




電話の向こうが、静かになる。




『……そうだな』




それきり、言葉が続かない。




「海斗?」




『……何でもねえよ』




少しだけ、息を整える音。




『……じゃあ、また連絡するわ』




「……ああ」




『……じゃあな』




通話が切れる。




松本は、スマホを耳から離し、


しばらくその場に立ち尽くしていた。




言うべきことは言った。


踏み込んだかもしれない。


でも――後悔はなかった。




松本は、ゆっくりと息を吐き、


何事もなかったように歩き出した。




それぞれが抱えてきた時間は、


まだ終わってはいない。




けれど――


動き出す準備は、もう整っていた。


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