第4話 拒絶の国境
王都が不気味なエメラルドグリーンの光に飲み込まれていたその頃、一人の騎士が長い任務を終えて国境の門へと辿り着こうとしていた。
名はビマ、纏う和音は『Bm♭5』。国王トニックの勅命により、五度圏の正反対に位置する「裏の王国」の調査を終え、数年ぶりに故郷へ戻ったところだった。
彼はまだ気づいていない。「世界の最果て」だと信じて疑わなかったその領域が、座標からわずかに半音ズレた、フラットを五つ抱える隣国――「D♭メジャー王国」であったことに。
「ふぅ……ようやく戻れた。裏の世界には、何か不穏な転調の気配があった。王に報告せねば」
ビマは使い古された盾を背負い直し、慣れ親しんだ白亜の門を見上げた。しかし、そこに彼の知る「正しいド」の響きはなく、門を覆っていたのは見たこともない巨大なエメラルドグリーンの茨だった。
かつて三拍子を奏でていた警備兵たちは、不気味な緑の鎧を纏い、鋭い四拍子の行進曲を響かせている。空気には、粘り気のある『B♭』の周波数が強制充満されていた。
「何だ、このピッチは……? 完全に狂っている!」
ビマが息を呑んだ瞬間、門の防衛システムがアラートを鳴らした。
『警告、警告! 門内に不純物の接近を検知。法典にない周波数――「B♮(シのナチュラル)」を検知しました!』
「な……不純物だと! 俺は王直属の守護騎士、ビマだぞ!」
ビマが盾を掲げると、緑の鎧の衛兵たちが冷酷に槍を揃えた。その瞳に、かつての同僚への敬意はなかった。
「うるさいぞ、異端のノイズめ! 今やこの『Fメジャー帝国』において、全ての『シ』は『♭』でなければならない! 貴様の『B♮』は、帝国の和声を乱す害毒だ!」
「何が『Fメジャー帝国』だ! トニック王はどうされた! 陛下をお出ししろ!」
「陛下は今、皇帝サブドミン様の腕の中で、甘美な解決の眠りに就かれている。お前のような未解決の不協和音など、王宮には不要なのだ。――ナチュラル・パージを開始せよ!」
衛兵たちが一斉に槍を突き出し、帝国の支配的な『F』の和音が、暴力的な音圧となってビマを直撃した。
国を支配する調性の重力には、猛勇なビマでも抗えない。盾が悲鳴を上げて火花を散らし、ビマは国境の石畳から弾き飛ばされ、断崖の底、荒涼とした砂漠へと転落していった。
「王よ……一体、我が故郷に……何が……」
墜落していく意識の中で、ビマは折れた大剣の柄を、ただ強く握り締めていた。
**♪ 今日の音楽理論ひとくちメモ**
「シ」の音は、Cメジャー(ハ長調)を支える大切な「導音」。それが強制的に「シ♭」に書き換えられるということは、その調の性質そのものが根っこから作り変えられてしまう、という重大な事件なのです。




