第2話 属七の媚薬
その夜、王宮の大広間では、王国の建国記念を祝う壮麗な晩餐会が開かれていた。
天井の水晶からは、一点の曇りもない「ド・ミ・ソ」の純粋な三和音が光となって降り注ぎ、着飾った貴族たちが三拍子のリズムに合わせて優雅に踊っている。
「見よ、この完璧な調和を。一点のノイズも、解決されない不安もない。これこそが私の、あるいはCメジャー王国の完成形なのだ」
黄金の玉座に深く腰掛けた国王トニック(C)は、満足げに目を細めた。
その玉座のすぐ傍らには、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた守護騎士サブドミン(F)が立っている。
彼のポケットの中には、夕べ裏通りで手に入れた小瓶が入っていた。ガラス越しの微かな熱を、サブドミンは指先で何度も確かめる。
(本当に、ただの悪戯だ。ほんの一滴驚かせたら、すぐに私の解決で包み込んで差し上げればいい。そうすればきっと、王様も私のありがたみを分かってくださるはず……)
そんな言い訳を胸で繰り返していると、トニック王が杯を揺らしながら声を上げた。
「どうした、サブドミン。相変わらず陰気な背景面だな。まあいい、今宵は祝いの席だ。私を美しく引き立てる役目、完璧に果たしてみせよ」
周囲の貴族たちが、上品に、しかし残酷に笑った。
その瞬間、サブドミンの胸で何かが小さく弾けた。いつもなら受け流せる侮蔑が、今夜は静かなプライドを鋭く逆撫でしたのだ。
(……では、少しだけ困っていただきましょうか)
サブドミンは一礼し、王の杯へと歩み寄った。
「陛下、今宵の記念に……先ほど旅の商人から献上された特別な『雫』を杯に加えてみてはいかがでしょう。陛下の響きに、森のような深みが加わると申しますよ。ほんの、ちょっとしたスパイスでございます」
トニック王が興をそそられたように目を細め、バルコニーの外へと視線を向けた、その瞬間――。
サブドミンは袖の陰から小瓶を取り出し、王の杯へエメラルドグリーンの液体を滑り込ませた。
トプン、と。禁忌の一滴『B♭』が、葡萄酒の中に消えていった。
*
「ほう、どれ……」
トニック王は疑うことなく、葡萄酒を口に含んだ。
次の瞬間、王宮を支える大気が激しく鳴動した。
「……っ!? な、なんだ、この……響きは……!?」
トニック王が黄金の杯を取り落とす。ガシャーンと音が響き、赤い葡萄酒が石畳を汚していく。王は自らの喉を両手で掻きむしるようにして、玉座から崩れ落ちた。
彼の身体から「ド・ミ・ソ」の神聖な三和音が掻き消え、代わりに鋭利な不協和音が吹き荒れる。「ド・ミ・ソ・シ♭」――。
禁忌の音『B♭』を取り込んだトニック王は、主音としての輝きを失い、不安定な『C7』へと変質させられてしまった。構成音の「ミ」と、毒によって宿された「シ♭」が形成する「トライトーン」は、自ら解決することを絶対に許されない、永遠に続く渇望の拷問だった。
「ああ、ああ……! 身体が……引き裂かれる……! 解決してくれ……誰か……私を解決してくれ……っ!」
完璧だった国王が、床を這い回りながら叫んでいる。貴族たちは不協和音の衝撃波に耳を塞ぎ、次々と倒れ伏した。
サブドミンは血の気が引くのを感じ、その場に立ち尽くしていた。
(こんなに苦しむなんて、聞いていない。私は、ほんの少し困った顔が見たかっただけなのに……)
「サブドミン……! サブドミン、どこだ……っ!」
玉座の階段の下で、トニック王が涙に濡れた瞳でサブドミンを見上げていた。かつて高慢だった王が、プライドをかなぐり捨て、這うようにして縋り付いてくる。
「助けてくれ、サブドミン! 私を……私を解決してくれ! お前がいないと……お前の『F』の和音へ進まなければ、私はこの苦しみの中で死んでしまう……っ!」
その瞬間、サブドミンの脳裏に、稲妻のような衝動が走った。
(ああ……。本当に、王様が私を求めている。私なしでは、一秒も存在していられない身体になってしまったんだ……)
恐怖の中に、歪んだ悦びが混ざり合った。主音が下属音への解決を狂おしいほどに渇望する――音楽の宇宙の絶対的な重力が、今、自分たちを支配していた。
「異端だ! 王が変質されたぞ!」
「不協和音をパージせよ! 衛兵を呼べ!」
周囲の貴族たちが、錯乱しながらサブドミンを非難し始める。このままでは、大逆罪として、自分もこの哀れな王も粉砕されてしまうだろう。
(もう……引き返せない。ならば――)
サブドミンは震える手で王の黄金の髪をそっと撫で、その歪んだ顔を見つめた。彼の瞳から恐怖が消え、冷徹で愛情を孕んだ決意の光が宿る。
「陛下……。苦しいのは当然でございます。あなたは今、偽りの円環を失い、私という『出口』を求めずにはいられないお身体になったのですから」
サブドミンは王をそっと引き起こし、戸惑う衛兵たちと恐怖に震える貴族たちを見据え、澄んだ声を響かせた。
「静粛に! 迷い子たちよ、聴くが良い。今日からこの国に、退屈な白鍵だけの平和は不要だ。私の緑の旗の下で、永遠に解決し続ける喜びを分かつがいい!」
サブドミンが右手を掲げると、王宮の灯火がエメラルドグリーンへと転じた。
白亜のCメジャー王国は死に、「Fメジャー帝国」が誕生した瞬間だった。
**♪ 今日の音楽理論ひとくちメモ**
「C7」のように、コードに♭7度の音を足すと「属七の和音」になります。これは強烈に「次の和音へ解決したい」という引力を持つ響き。今回トニック王が味わった、逃れられない渇望そのものの音なのです。




