第1話 黄金のダイアトニック
Cメジャー王国の空は、今日も一点の曇りもない「ド」の青に染まっていた。この国を包む空気は常に一定の周波数で安定し、そよ風の音さえ完璧なピッチを保っている。
白亜の石畳が続く大通りでは、人々が三拍子のリズムで規則正しく歩を進め、市場では商人たちが「完全五度」の清廉なハモリで商談を成立させていた。
市場の隅で、荷運びの少年がふらりと拍子を踏み外す。
「気をつけなさい、『完全拍子』を乱すのは冒涜だよ」
通りすがりの老婆が眉をひそめ、少年の襟首を正す。解決されないメロディも、宙ぶらりんな終止線も、この国では「未完了の罪」として厳しく取り締まられるのだ。
「ああ、美しい。世界が私を中心に、完璧な円を描いて回っている。これ以上の幸福が、この地上に存在するだろうか」
王宮のバルコニーで、黄金の髪をなびかせた国王トニック(C)は満足げに目を細めていた。彼がそこに存在するだけで、世界は調和し、すべての音は彼の足元へと「解決」したがる。それがこの国の、絶対不変の法律だった。
*
「陛下、今日も実に見事な主音の輝きでございますね」
トニック王のすぐ背後から、穏やかな声が掛けられる。振り返るとそこには、この国の守護騎士であり王の最も身近な補佐役であるサブドミン(F)が、涼やかな微笑みを浮かべて立っていた。新緑を思わせる淡い緑の衣は、トニックの「白」を最も美しく引き立てる下属音の色彩だ。
「おお、サブドミンか。お前もそう思うか」
トニック王は傲慢に胸を張り、くすくすと笑った。
「当然でございます、陛下。この国のすべてのメロディは、陛下へたどり着くために紡がれているのですから」
「ふはは! その通りだ。だがな」
王はサブドミンの肩を親しげに叩いた。
「お前のその柔軟さも嫌いではない。だが……お前はしょせん、私を引き立てるためだけの『背景』なのだ。お前の『F』の和音は、それ単体では何一つ物事を終わらせることができない。私という絶対的な存在へ至る道中で、適当に場を濁すのが関の山だからな」
「はい。私は陛下の美しい解決を、手前でそっと支える影に過ぎません」
サブドミンは優雅に一礼し、笑みを崩さなかった。しかし、その伏せられた瞳の奥で、小さな「悪戯の火花」がパチリと爆ぜていた。
(もしも、いつも完璧ぶっているあの顔が、困惑に染まったら? もし王様が、私なしでは一秒もいられなくなってしまったら――)
ふと脳裏をよぎった不敬な空想。国を滅ぼそうという野心ではない。ただ、自分を「背景」として扱う高慢な王に、ほんの少しだけ悪戯をして困らせてやりたい。それはまだ、甘く愛らしい「出来心」に過ぎなかった。
*
その夜、サブドミンは王宮の喧騒を離れ、王国の法が及ばない禁断の領域――「ミクソリディアンの裏通り」に足を運んでいた。地図にも載らない、王が存在を知ってはならない場所だ。
煙たいジャズバーのような雰囲気を纏うそこでは、王宮で尊ばれる三拍子は無視され、人々は王宮では聴けない「不純な音」を楽しんでいる。サブドミンにとって、ここだけが「優等生の仮面」を脱げる唯一の避難所だった。
「……引き立て役、か。適当に場を濁す、か」
サブドミンは古びたバーのカウンターで、琥珀色のグラスを指先で回しながら呟いた。
「嫌な言い方よねえ。あのトニックって男は、自分の美しさに無自覚だからタチが悪いわ」
隣の席から、ハスキーな声が響いた。いつの間にか腰掛けていたのは、薄紫色のドレスの女――螺旋の意匠の髪飾りを揺らす、見知らぬ客だった。
「……おや、どなたです?」
「通りすがりの旅の商人よ。あるいは、退屈な調和に飽き飽きしている、あなたの『味方』かしらね」
女はどこか遠くを見るように目を細め、ぽつりと付け加えた。
「……もっとも、あたしの故郷じゃ、あんたたちの言う『完全五度の信頼』とやらは、ずいぶん都合よく使われているものだけどね。まあ、あんたには関係のない話だわ」
女は懐から小さなガラス瓶を取り出した。中の液体はエメラルドグリーンに仄かに光り、栓には髪飾りと同じ螺旋の彫刻が施されている。
「これは……?」
「『B♭の雫』。この王国には存在しない、禁忌の一滴よ。あの高慢な王様の杯に、ほんの一滴だけ忍ばせてごらんなさい」
女はサブドミンの耳元に顔を寄せ、囁いた。
「これを飲んだ主音は、不純な♭の響きを宿し、狂おしいほどの『解決への渇望』に支配されるわ。彼はもう、自ら完結できる王様ではいられなくなる。次にくるべき『F』――つまり、あなたを求めて、なりふり構わずのたうち回ることになるの」
サブドミンの喉が、ごくりと鳴った。
「王様が……私を求める?」
「ええ。さあ、どうする? ほんの小さなお戯れよ」
サブドミンは、手の中の小瓶を見つめた。それは、子供が虫の羽をそっと触ってみたくなるような、他愛のない好奇心だった。
「……いくらですか、これ」
サブドミンは財布から数枚のコインを取り出し、カウンターに置いた。女は満足げに目を細め、コインを指先で回収すると、紫の香煙とともに姿を消していった。
「ただの悪戯さ。王様を、ほんの少し困らせてやるだけのね……」
サブドミンは暗い夜空に呟き、いつもの笑みを浮かべた。
しかしその胸の鼓動は、王国の完璧な三拍子を、わずかに踏み外すように早く脈打っていた。
**♪ 今日の音楽理論ひとくちメモ**
サブドミン(F)は、音楽理論でいう「下属音」。トニック(C)ほど強い「解決の力」は持たず、単独では物語を終わらせられない、いわば中継ぎのような存在です。今回のサブドミンの鬱屈は、この音楽的な役割そのものを表しています。




