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7話 思い出は桃のタルトレットに乗せて

 ――ずっと昔。

まだ私たちがほんのちいさくて、世界に魔王の不穏な影なんて、どこにも落とされていなかった頃。


『お母さま! このお菓子、食べてみたい!』


色褪せた分厚い絵本のページを開いて、私は目をきらきらと輝かせながら、お母さんのエプロンの裾を何度も引っ張っていた。

色とりどりの挿絵の中で、ひときわ宝石のように眩しく輝いていたのは、透き通るようなピンク色の桃が美しく並んだ、ちいさなタルトの写真だった。


『ええ、今度一緒に作ってみましょうか。ニーナの大好きな、甘くて特別なやつをね』

『やったー!』


そう言って、お母さまは優しく私の頭を撫でて、おおきなひまわりみたいに温かく微笑んでくれた。

けれど――その約束が果たされる日は、二度と来なかった。

世界が急激に荒れ果てていく中で、お母さんは私たちが大人になるのを見届けることなく、病の床で静かに遠くへ行ってしまったからだ。

あの日、お母さまの冷たくなった手を握りしめながら、静かに、だけど拳が血に染まるほど強く握りしめていたお兄ちゃんの背中を、私は今でも鮮明に覚えている。

お兄ちゃんが若くして重い聖剣を握り、過酷な旅へと出たのは、もう二度と、私のような寂しい思いをする子どもを増やしたくないという、ただそれだけの一心からだったのだと、今の私なら痛いほどによく分かった。


***


 私が夢の中で昔の思い出をなぞっていた、その数時間前。

まだ夜も明けない深い青の帳が降りる頃、キッチンの魔導ランプの下で、お兄ちゃんのアレクは一人、冷や汗を流しながら作業台に向き合っていた。


「くっ……ニナが言っていたのは、こういうことか……!」


ピンクのフリルエプロンを少し窮屈そうな肩にかけ、アレクはボウルの中の冷たいバターと小麦粉を見つめてうなっていた。

かつて世界を滅ぼしかけた魔王の剛腕を受け止め、一太刀で巨岩を両断したその両手。

だが、お菓子作りの『生地をこねる』という作業において、その圧倒的な腕力はむしろ最大の敵だった。

力を入れすぎればバターが手の熱で溶けてしまい、タルトのサクサク感が失われてしまう。

ニナが昨夜教えてくれた『指先でバターと粉をすり合わせるように、優しく、砂の粒のようにしていくんだよ』という言葉を、アレクは頭の中で千回は反芻していた。


「優しく……そうだ、生まれたての小鳥を包み込むように……!」


アレクは目を閉じ、呼吸を整えた。

戦場で培った極限の集中力が、今、直径三十センチのボウルの中に全て注ぎ込まれる。

指先をほんのわずかに動かし、魔力を極限までゼロに近づけ、小麦粉とバターをサラサラと混ぜ合わせていく。

何度も何度も、手の熱が伝わらないように冷水で指を冷やしながら、アレクは必死に生地をまとめ、冷蔵庫へと滑り込ませた。


「次は、桃か……」


市場の朝市が始まるや否や、空間転移魔法で一番乗りして買い付けてきた、今朝採れたての桃。

アレクは愛用の包丁を握り直した。

かつて聖剣を振るっていた時のように、ピンク色の果実を捉える。

サクッ、サクッ、サクッ……

等間隔に、寸分の狂いもなく刻まれていく美しい音が、静かなキッチンに心地よく響く。

包丁の刃先にほんの少しだけ薄い風の魔力を纏わせることで、桃の細胞を一切潰さず、一ミリ以下の厚さで完璧なスライスを量産していく。

焼き上がったタルト生地のうえに、自家製のカスタードクリームを絞り、その上にスライスした桃を一枚一枚、外側から中心に向かって丁寧に重ねていく。

大きくて固い勇者の指先が、まるでお姫様のドレスのフリルを整えるように、優しく、慎重に桃の花びらを形作っていった。


「できた……あとは、ニナが起きてくるのを待つだけだな」


最後の薔薇の中心を飾り終えたとき、安堵のあまり、その場にへたり込みそうになるほど大きな息を吐き出したのだった。


***


 「……ん」


どこか懐かしい、甘く切ない夢から覚めるように、私はベッドの中でゆっくりと目を開けた。

窓の外からは小気味よい小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から眩しい朝の光が差し込んでいる。

時計を見ると、いつも私が起きる時間よりも、随分と早い。

パジャマのまま、静かな階段をトントンと降りて一階のキッチンへと向かうと、そこからは胸がキュッとなるほどに甘くて香ばしい、バターの匂いが漂ってきていた。


「ニナ。おはよう。」


振り返ったお兄ちゃんは、例のピンクのフリルエプロンをつけたまま、朝の光の中で満面の笑みを浮かべていた。

カウンターの上に、そっと、壊れ物を置くように並べられたお皿。そこには、私がずっと昔にお母さんと約束した、あの絵本の形がそのまま再現されていた。

サクサクになるまで丁寧に焼き上げられた、ちいさなタルトの器。

その中央には、お兄ちゃんが朝早くに市場で仕入れてきてくれたのだろう、ピンク色の桃が、まるで大輪の薔薇の花びらのように、一枚一枚美しく、狂いなく敷き詰められた『桃のタルトレット』が並んでいた。


「これ……お兄ちゃんが作ったの?」

「ああ。昨日の夜、ニナに教えてもらった力加減を頭の中で何度も復習してな。包丁の魔力コーティングをギリギリまで薄くして、桃の繊維を潰さないように慎重にスライスしたんだ。……どうかな?」


まるで、先生に宿題を提出する子どものように、不安げに私の顔を覗き込んでいる。

よく見ると、お兄ちゃんの指先には、深夜にリンゴの皮を剥いたときにはなかった、ちいさな薄皮の剥けた跡があった。

慣れないお菓子作りに、それほどまでに集中して、私のために指先を動かしてくれたのだ。

愛おしさと、胸を締め付けるような愛しさが溢れて、私はゆっくりと席に座り、フォークでそのちいさなタルトレットをひとくち、口へと運んだ。


 サクッ、と静かな店内に、心地よい綺麗な音が響く。

その直後、口いっぱいに広がったのは、じゅわっと溢れ出す桃の圧倒的な果汁だった。

濃厚なカスタードクリームの優しい甘さが、お兄ちゃんが一生懸命に寝かせて焼き上げた生地の香ばしさと、まるでお互いを抱きしめ合うように完璧に調和していく。


「……美味しい! 本当においしいよ、お兄ちゃん」

「そうか……! 美味しくなかったらどうしようと、気が気ではなかったんだ」


お兄ちゃんの顔が、張り詰めていた緊張から一気に解き放たれ、心の底からホッとしたように緩んでいく。

その時、お兄ちゃんの髪の中から「きゅあ!」と元気な声がして、リーフィがパタパタと飛び出してきた。

リーフィが嬉しそうにタルトの周りを一周すると、彼女の羽から落ちた淡い緑の光の粉が、桃の表面にハラハラと舞い降りる。

すると、甘酸っぱい果実の香りが一層引き立ち、まるで今しがた森の奥で実ったばかりのような、初々しい幸福の香りが店内に満ちていった。


「ふふ、リーフィも大絶賛だね。ありがとね、お兄ちゃん。お母さんが作ってくれようとしたタルトレット、お兄ちゃんのおかげで、やっと食べられたよ」

「俺のほうこそ、ありがとう、ニナ。」


 お兄ちゃんは愛おしそうに私の頭を大きな手で包み込み、それから自分の分のタルトレットを大きな口で、本当に幸せそうに頬張った。

お母さんとの約束の日は二度と戻らないけれど、いま私の目の前には、ボロボロになりながらも世界を救って帰ってきてくれた、世界一優しいお兄ちゃんがいてくれる。そして、お兄ちゃんが私のために必死に作ってくれたこの甘いお菓子が、過去の寂しさも、お兄ちゃんが背負ってきた戦いの傷跡も、全部温かく包み込んで溶かしてくれたのだ。


カランコロン、と、街の目覚めを告げるように、カフェのドアのベルが静かに鳴り響く。

窓辺の木イチゴの苗が朝露を弾いてきらきらと輝く中、私たちの小さくて、世界で一番あたたかい『カフェ・ド・ベール』の、新しくて甘い日常が、今日も優しく幕を開けるのだった。

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