第9章 触れた記憶
その日、ミレイユは本棚の前で植物図鑑を開いていた。
開かれたページにはダイヤモンドリリー。
まるで隠された答えを探すように、その花を穴が開くほど凝視していた。
突然、背後から聞き慣れた声がする。
「その花が気になりますか?」
驚きで心臓が跳ねた。仕事中なのに完全に油断していた。あたふたと振り返り、声の主を見上げた。
「ベルナールさん……」
「綺麗ですよね、その花。光に当てるとキラキラ光るんですよ」
彼は言葉と裏腹に眉をしかめていて、なんだかこちらも苦しくなる。しかし、この人に会えたせっかくの機会を無駄にするわけにはいかない。私は勢いよく彼に向き直った。
「……あの! お願いがあって!」
勢いに驚いてたじろぐ彼に、閉館後に時間が欲しいと訴える。この人は何かを知っている気がする。それを確かめたい一心で、仕事が終わった後に待ち合わせる約束を取り付けた。
*****
「急にすみませんでした!」
「いや、問題ありません。その、話とは何でしょうか」
公園のベンチに座って待つベルナールさんに慌ただしく駆け寄った私は、乱れた呼吸を整えるようにふうと胸を撫で、力強く答える。
「この前の『検証』っていうの、しましょう!」
ぽかんとする彼を無視して、どうぞと右手を差し出す。
「……どうしてそれをする聞かないのですか?」
しばしの沈黙の後、大いに戸惑った声で問いかけられた。
「ベルナールさんは、夢とかデジャブについて調べていたんですよね? だから『検証』もそのことなのかなと思いました。検証して何が分かるのか知りませんが、私、最近ずっと同じような夢を見て、どうしても気になって」
あなたなら何か知っているのかと思ったと一気に捲し立てる。黙って耳を傾けていた彼は、やがておもむろに頷いた。
「あなたの予想は正解です。実は僕も、長いこと奇妙な夢を見続けているのです。同じ夢を何度も見ることもあります」
「ベルナールさんも……そうなんですか?」
「先日あなたから本を受け取った時、指が少し触れました。その瞬間、説明のつかない現象があったのです。だから、それが再現可能なのか確認したいと思いました」
説明のつかない現象とは何か。
分からないままにもう一度、右手を差し出す。
彼はややしばらく躊躇い、それから私の指先に恐る恐る手を添えた。
溢れるほどの色彩が揺らめく庭園。
日傘が落とす柔らかな陰影の向こう側には、どこまでも澄み渡る青空が広がっている。
晴れ渡る空を映したような淡いブルーのドレスが風にふんわりと揺れる。
守るように隣を歩く、背の高い男性の腕に軽く手を添え、木漏れ日の差し込む小道をゆったりと進む。
鈴の音を転がしたような愛らしい小鳥の音色。
風が運ぶ芳しい花の香り。
男性が少し屈んで顔を近づけ、なにかを囁いた。
低く、落ち着いた優しい声が鼓膜に触れる。
胸の奥がじんわりと熱を持ち、私は夢見心地で――
気がつくと、涙がはらはらと流れ落ちていた。
――あれは大切に抱えていた幸せなひととき。
「何か、見えましたか」
彼が遠慮がちに差し出してくれたハンカチで、理由も分からずにこぼれた涙を拭う。
「ええ……ドレスを着て、見たことのない庭園を歩いていて、隣には男の人がいて……これはいったい、何なのでしょう」
「……わかりません。何の情景なのかも、なぜ見えるのかも。でもひとつだけ確かなことは、いまあなたが見たという景色は、僕が長いこと夢で見ていたものでした」
その言葉にはっとする。
「ベルナールさんも、いま何か見えたのですか?」
「はい、見えました。大切な人が微笑んでいる、幸せな情景を……」
そう言って慈しむように穏やかに笑う。
彼の幸せそうな顔を、私はこの時初めて知った。




