第8章 眠れない理由
「コーヒーを入れたわ」
その声でロアン・ベルナールは思考の海から引き戻された。椅子の背もたれに体を預け、眼鏡を外して疲労を感じる眉間をぐりぐりと押す。
研究は遅々として進まない。原因は分かりきっている。
深いため息をついて、出されたコーヒーを口にした。苦味がやけに舌に残る。
「隈が酷くなってるわ。眠れてないのね」
助手でもあり相棒でもあるリディアの、アッシュグレーの瞳が覗き込んできた。彼女には何でもお見通しのようだが、そんなに自分は分かりやすいのだろうか。ぎゅっと固く瞼を閉じ、短く肯定する。
随分と昔から、ある人物になった夢を見る。たかが夢だと捨て置くには、それはあまりにも鮮明すぎたのだ。どちらが夢でどちらが現実か、時折りよく分からなくなる。
だから、あまり寝たくない。
夢を、見たくない。
寝なければ、夢は見ないはずだった――
もう仕事は終わりとばかりに、アップスタイルのダークブロンドをほどきつつ彼女が口を開く。
「ここしばらく、特に酷くなってるわね。雪が降った日も随分青い顔をして図書館から帰ってきたし、あなた何かあったでしょう」
鋭い指摘にコーヒーカップはかちゃりと音を立てた。これだから敵わない。そう思い、気怠く頭を持ち上げる。
「もしかして、あの夢をまた見たの? 今度はどんな場面だったのかしら?」
……そんなにわくわくした目をして聞いてこないでほしい。
不眠を打ち明けた時、あれやこれやと改善方法を試された。原因について、やけに鮮明な騎士の夢を見るのだとうっかり白状したのが運の尽き。面白がって根掘り葉掘りと聞き出し、挙げ句の果てに論文を出そうと言い出した時には、頼むからやめてくれと拝み倒した。
せっかく資料を集めたのにと、口を尖らせるリディアを諦めさせるのは非常に骨が折れた。代わりに差し出した彼女の好物である高級ワイン数本で、しばらく懐が寒かったのを思い出して渋面をつくる。
「別に新しい場面は見ていない。……雪の日に遠征に赴くところを思い出して気が重くなっただけだ」
「……ふうん?」
訝しげに見つめる視線を受け「本当だ」と付け加える。……嘘は言っていない。
これも食べて、とショコラをこちらの口に放り込みながら彼女は言う。
「あなたは今まで何度も戦地に行く夢を見ていたのよね。確かに過酷な夢だから眠りたくない気持ちは理解できるわ」
でも、と話を続ける。
「ずっと引っかかっていたのだけれど、あなたは何か、肝心なところを私に話していない。そうじゃない?」
今度こそ肝が冷えた。
彼女はふっと笑い、さらに言葉を重ねる。
「あなたが夢の話をする時、妙に口を閉ざすことがあるの。戦地の話はするけれど、そこ以外はほぼ口にしない。そうよね?」
「夢に出ないのかなとも考えたけれど、王族の護衛の話はあったし、戦地の場面だけじゃなさそうだった。だからずっと気になっていたの。――もしかして夢の中に誰か大切な人がいるんじゃないかって」
……いま自分はどんな表情をしているのだろう。
リディアは沈黙が答えだと確信したようだった。だがそこから酷く心配する面持ちに一変する。
「あなたが話したくないのならと、今までは触れなかった。誰だって心の中に隠しておきたいことはある。でもね、それでも聞かなきゃって決心したくらい、あなたの今の状態は酷いのよ」
彼女の両手が顔を挟み込み、頬に温もりが伝わる。
「私は小さい頃からロアンを知っている。私に悪いと感じて話せなかったのでしょう? そしてきっと、夢の中では大切な宝物だったんじゃないかしら」
秘密を暴くようなことをしてごめんなさい。そう耳元で囁くリディアに何を言えばいいのかも分からない。
「私に話してほしいわ。あなたがそんなに苦しむ本当の理由を。そしてその結果が例えつらいものだったとしても、一緒に苦しむから」
幼い頃から一緒にいたリディア。
思い切りが良くて頼もしく、でも奔放な性格に随分と振り回されて。そして、いつだって自分のそばに居てくれた理解者。
いつか話すから、待ってくれ。そう告げて控えめに彼女を抱きしめる。彼女の瑞々しいヴァーベナの香りが、頭にこびりついた澱を洗い流してくれるように感じた。
脳裏には、月の光を浴びて輝く白い花。
――ダイヤモンドリリー。
けれどその姿は、幻のように儚く消えた。




