第4章 検証
「この本の返却手続きをお願いします」
ある日の午後、呼びかける声に手元から視線を上げ、思わず声を上げそうになった。先日の挙動不審だった男性が、気まずそうにデスクへ本を置く。
「この前は変なところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、そんなことはお気になさらず。体調が悪いようでしたが、もう大丈夫ですか?」
そう言って貸出カードを確認し、そこにある名前を見た。
『ロアン・ベルナール』
ああ、思いだした。私を見ていたとイリスが言っていた人だ。だからこの前、声を掛けられたのかと納得した。返却本に間違いがないかを確かめて、ありがとうございましたとカードを返す。
「体調に問題はありません。どうもありがとう」
そう言った彼の血色はすぐれず、目の下にはうっすら隈がある。前にも問題ないと答えていたが、とてもじゃないけれどそうは見えない。それにしても、あのおかしな挙動はなんだったのだろう。釈然としない思いを抱えたまま、階段を登っていく彼の後ろ姿を目で追った。
*****
デスクで作業を続けていた私は、非常に落ち着かなかった。
入り口近くにある貸し出しや返却をするサーキュレーション・デスク。そこから見渡せるアーチを描く天井と吹き抜けの広い空間に、数多く設置されたオープンキャレル。そのひとつに、ベルナールさんが座っていた。
利用者がそこに居るのは、なんら不思議ではない。
――しかし。
――見られている。
最初は気のせいだと思った。
視線を感じてそちらを向くと、ふっと顔を逸らしたように見えた。何度か繰り返せば、それは確信に変わる。
――なぜ。
さりげなさを装って横目でこっそり様子を伺う。本を読んでいるようで、読んでいない。ページをめくる手は完全に止まっている。目の前のデスクにも本が数冊積まれているのに、一向に手をつける様子がない。どこかをしばらく薄ぼんやりと眺めては、ひっそりこちらに顔を向ける。そしてまたどこかをぼんやりと眺めるのだ。
おかしな雰囲気だった。
こちらを向くそれは、何かを言いたげな、確かめるような視線だった。
けれど目は合わさない。
どうしてこちらを気にするのだろう。
居心地が悪くてもぞもぞする。
学生の頃から通い慣れたこの図書館で、早く閉館時間にならないかと願ったのは初めてだった。
*****
「お疲れさまでした」
就業時刻を迎え、同僚達と挨拶を交わす。あれから小一時間ほどぼんやり過ごしたベルナールさんは、何も借りずにふらふらと帰って行った。その後はいつも通りの時間が戻ったものの、なんだかとても疲れてしまった。
こんな日はトビアスの甘いお菓子で癒されたい。『シェ・デュボワ』に寄ってカヌレを買おうか。口の中に甘いカヌレの味を思い浮かべ、とぼとぼと公園を歩いていると、ベンチに座る黒いフロックコート姿を目の端で捉えて足を止めた。
彼が図書館を出てから数時間は経っているはずだ。春が近いとはいえ、夕暮れのこの時間は気温も下がる。ずっと外のベンチに座っていたら体は冷え切ってしまうだろう。相変わらずぼんやりと呆けている彼をどうにも無視しきれず、ついつい私は声を掛けた。
「ベルナールさん」
呼びかけられた彼は、のろのろと振り返った。
「やっぱり体調が良くないのですか? こんなところにずっと居ると、身体に良くありませんよ」
うつろな表情のまま、返事はない。
この人大丈夫かしら。
どうしたものかと様子を見ていたが、どうせなら声をかけたついでにと、思い切って言葉を続けた。
「あのう、もしかすると私の気のせいかもしれませんが、今日ずっと私の方を見ていませんでしたか?」
憔悴した様子の彼はこちらを向き、しばらく沈黙した後ためらいがちに口を開いた。
「……検証してみたいことがあるんです……」
「検証?」
「そう、ええと、あなた……」
「私、ミレイユといいます」
「ミレイユさん、少し協力してもらえませんか……」
何を協力して欲しいのだろう? 迂闊に返事が出来るわけもない。
「ベルナールさん、協力とはどういうものですか?」
彼の目線はゆらゆらと泳ぎ、ぼそぼそと呟くように話し出す。
「ええと……僕の手で、その、あなたの手に……少し触れてみても、いいですか?」
「手を? なぜです?」
疑念を抱き、問い返す。
「それは……ええと……」
彼は怯えたように言い淀む。
どうして手に触れたいんだろう?
口説いてるわけでもあるまいに、なにか言い訳でも考えてるのだろうか?
「突拍子もない憶測なので、説明しにくくて」
「でも聞いてみないことには」
「……しかし」
彼は口に手を当て、小さく独り言つ。
「そう……そんなことは有り得ないはずだ……」
「え?」
「やっぱり、いいです。……変なことを言ってすみませんでした。忘れてください」
そう言って、ただでさえ良くなかった顔色を更に悪くし、ベルナールさんは逃げるように立ち去った。
「どういうこと?」
疑問だけを残された私は唖然として、しばらくその場に立ち尽くした。




