第3章 名前を知らない人
水の底にいるような青白い光に包まれた空間で、座り心地の良いソファにゆったりと腰かける。
愛しい人が眼前に片膝をつき、同じ高さに合わせたふたりの視線が絡み合う。
彼の手には白くてまあるい、手鞠のような可愛らしい花束。
月明かりを浴びた花弁が、星屑のようにキラキラと輝いている。
美しい宝石のようにも見えるその花束を差し出され、わたくしは口元に緩やかな弧を描いた。
琥珀色の瞳が見つめている。
泣きたくなるほど、幸せだった。
それなのに。
喉がつかえている。
唇がこわばって震えそうになる。
わたくしは必死に冷静を装い、ひっそりと喉につかえた鉛を飲み込んで心を隠した。
*****
「ああ、まただわ」
目覚めたばかりの瞼を、再びぎゅっと瞑った。
「なんなのよ、もう。続きを見せてよ」
このところ毎晩同じ夢を見る。ごく稀に、過去に見た夢の続きを見ることはあった。けれど、こんなにも連続するのは珍しい。
しかし、どうにも思わせぶりな夢だと私は不満を口にする。
「毎回朧げにしか覚えていないし、いつも同じ場面で終わるし。物語の1ページだけを繰り返すなんて、ちょっとひどいんじゃないかしら」
*****
仕事中にもかかわらず、毎晩見る夢が頭の中から離れない。あれは想像するに愛の告白を受けてる場面ではないのだろうか。それにしても、どうしてあんなに苦い後味なのか。先日、イリスに結婚話はまだかと揶揄われたことを思い出す。
「潜在意識が夢に現れるとも言うし、内心焦ってたりするのかな」
図書館の近くにあるブーランジュリー・パティスリー。まだ見習いだったトビアスと、修士取得を目指して図書館に籠っていた自分。勉強の合間に甘いものを求めて通い詰め、ふたりの距離はゆっくりと穏やかに近づいた。
本格的に付き合い始めてから三年は経つ。確かにそろそろ先に進んでもおかしくはないが……
私は頭を振って目の前の本棚に意識を戻す。気を取り直して作業に取り掛かろうとした時、後ろから声がかかった。
「すみません、本を探しているのですが――」
「はい、どんな本ですか?」
振り返った先には長身で痩せ型の、眼鏡をかけた男性が立っている。これなのですが、と題名を書いた紙きれには小難しい単語が並んでいて、小声で唸る。
「難病疫学に関する文献なんです」
「承知しました。お調べしますので少しお待ちいただけますか?」
男性が軽く頷いたのを受けてリファレンスデスクの専門司書に確認する。
「3階の棚にございます。ご案内しますね」
先導する私の後ろについて階段を登る男性が、おずおずといった様子で問いかけてきた。
「……あの……もしかして以前、国立大学院に居たりしませんでしたか? あなたとどこかで会った気がするんです」
私はひょいと振り返って男性をまじまじと見上げた。黒のフロックコートを纏い、シルバーグレーの髪を後ろで1つにまとめている真面目そうで端正な面立ちだ。私よりも幾分歳上に見える。30歳くらいだろうか。銀縁レンズの向こうから薄緑の瞳がこちらを窺っている。
……言葉通りに受け取っていいのかしら。
もしやこれは口説き文句なのだろうかと一瞬警戒したが、そんな無礼なことはしなそうな人だと判断し、お会いしたのは初めてですと簡潔に答えた。
「……あっ、いや変なことを聞いてごめ……すみません、あの、ほんとおかしな意味じゃなくてですね……」
怪訝な表情の私を見て、自分の言葉が誤解されかねないことに思い当たったらしい。しどろもどろで言い訳する様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。それを見て誤解が解けたと感じたのか、ほっとした面持ちに変わった男性に、気になったことを聞いてみた。
「なぜ国立大学院に居たとお考えに?」
「ええと、仕事場が国立大学院なんです。研究員をしていて。だからそこで会ったのかと……あまり出歩いたりするたちじゃないので、それくらいしか見当がつかなくて」
「そういうことでしたか。私はありふれた顔立ちですし、似たような人も多いのではないかしら」
そう言って目的の本を選び取り、男性にどうぞと差し出した。
「いや、そんなことは……ありがとうございます」
礼を言って受け取った男性の指先が、本を持つ私の手にわずかに触れた。
その瞬間、彼はびくりと震え、みるみる血の気が引いていく。
「どうされました? あの、大丈夫ですか?」
一体、どうしたというのだろう。
魂が抜けたように青ざめて立ち尽くす彼に驚き、繰り返し呼びかける。
やがて彼は瞬きすら忘れていた瞳をぎこちなくこちらに向け、掠れた声で途切れ途切れの返事が返ってきた。
「あ、ああ……問題ない……です。ありがとう、ございました……」
その顔色で問題ないと言われても説得力はまるで無い。
そのまま本を借りて帰るのだろうか。不自然な様子でふらふらと階下へ戻る後ろ姿を、訳が分からぬまま見守った。




