第2章 記憶の切れ端
閉館間際になると、本を借りる利用者がデスクに行列を作ることも多い。
「ミレイユ、ちょっと手を貸してちょうだい」
イリスに呼ばれた私は足早に向かい、利用者の相手をする彼女の傍らで貸し出す本の記録を手伝った。
最新の医学雑誌だ。医療系のお仕事なのかしら。そんなことを想像しつつ処理を進めていく。
イリスは利用者に貸出カードを渡している。
「ロアン・ベルナール様はこの五冊ですね。返却は2週間後のこちらの日付までにお願いします。 ――ベルナール様?」
流れが止まったようだが、どうしたのだろうか。
「――あ、ああ。問題ありません。ありがとう」
少し間を空け、ぎこちなく本を受け取る利用者の手元を一瞥した私は、すぐに次の利用者へと意識を切り替えた。
無事に閉館時間を迎え、この後の約束に心を躍らせて帰り支度をしている私にイリスが声を掛けてきた。
「ねえ、ベルナールさんってあなたの知り合いではないの?」
「ベルナール……?」
「さっき本を借りて行ったロアン・ベルナールさんよ。ミレイユのこと、変な顔で見てたわよ」
そんな名前の知り合いがいたかしらと記憶を辿るが思い当たらない。
「うーん、どんな人でした?」
「シルバーグレーの長髪を後ろで括って、銀縁の眼鏡をかけた背の高い人。たまにクローズドキャレルを使っているわ」
個室として使えるキャレルは予約制で手続きが必要だ。利用する人は限られるため、自ずと利用者のことも覚えやすい。もう一度名前と容姿を思い浮かべて記憶を探ったのち、ふるりと首を振った。
「だぶん、知り合いには居ないと思います。もしかして私の顔に何かついてたとか?」
そう言ってから、髪が乱れていないかと心配になり頭を触って確認する。
「別におかしなところはないわよ。じゃあ見知った誰かにでも似てたのかしらね」
イリスは笑って、また来週ねと帰っていく。
お疲れさまでした、と答えて公園に足を向ける。
いつもの場所には、見慣れた赤いダッフルに焦茶の癖っ毛の彼が勢いよく手を振って立っている。私はうきうきと近付いた。
「お待たせ、トビアス」
「いま来たところさ! ショーソン・オ・ポムはどうだった? 美味しかった?」
「ええ、とろりとしたりんごがとても美味しかったわ」
相変わらずの彼にくすくすと笑って答えた。
「だろ? ここ一番の傑作だったんだ。気に入ってくれてよかった」
甘い蜜が染み出すような笑顔を浮かべながら頭をやんわり撫でられ、そのくすぐったさをしばし堪能する。
「いい感じのカフェを見つけたんだ。きっときみも気にいるよ。ワインも美味しかったし」
「いいわね、どんなかしら? 楽しみだわ」
差し出された腕を取り、彼から漂う甘いお菓子の香りを胸いっぱいに吸い込んで肩にもたれかかる。彼は嬉しそうに覗き込み、ふたりはぴたりと寄り添って歩き出す。
不意に、私は誰かの視線を感じて何気なく辺りを見回した。遠くには、黒いフロックコートで髪をひとつにまとめた男性の後ろ姿がある。しかしそれは木の影へと隠れ、すぐに見えなくなった。
誰かの姿が目の前をかすめる。
心がキリキリとうずく。
喉は何かを飲み込んだようで――
「……ミレイユ?」
トビアスに呼ばれて、我に返る。
「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしちゃって。何の話だった?」
「体調が悪いの? 風邪でも引いたんだろうか?」
彼は表情を曇らせ、大きな手で額や首を触って熱がないかを確認してきた。
「大丈夫よ。ええと、昨日読んでた本の続きが気になっちゃって」
「そう? 今度はどんな本を読んでるんだい?」
そう言いつつも本当に問題がないのかを覗き込んで探ってくる。私は、心配しすぎよと笑い飛ばして、先ほどの奇妙な感情をさっさと頭の隅に追いやった。




