第1章 忘れられない夢
人は時折、奇妙な夢を見る。
見たこともない街。
会ったこともない人々。
知らないはずなのに、どこか懐かしい景色。
目覚めればほとんどを忘れてしまう。
けれど時折、忘れられない夢がある。
まるで、自分ではない誰かの記憶に触れたような。
——そして今も、誰かがそんな夢を見ている。
鼻腔をくすぐる数多の花の香り。
月明かりがガラス越しに降り注ぐ。
コンサバトリーの床に淡い光が落ちていた。
目の前に恭しく片膝をつく人。
差し出した手をふわりと握る、大きく無骨な手。
優しく響く、愛しい声。
隠しそびれた動揺が、指先をかすかに泳がせる。
心の奥底にしまい込んだはずの、冷たい鉛が頭をもたげた。
言わなければいけない。
この人に伝えなければ。
でもこの人は――
*****
「ミレイユ! 仕事に遅れるわよ!」
正体のわからない感情を抱えたまま瞼を開けた。夢を見ていたのは覚えている。けれど、朧気でよく思い出せない。
「なんだろう……綺麗で儚い雰囲気の夢だったな……」
夢の余韻にゆらりと揺蕩ったままベッドから這い出し、カーテンを開けて朝日を招き入れる。デスクの時計を確認して私は眉をしかめた。
まずい、少し寝過ごした。
寝る前に新刊に手を出したのがいけなかった。
まだ冷たさが残る水で慌てて顔を洗い、仕事着に着替える。ふわふわとした薄茶色の髪を丹念に梳かし、後ろでくるりと纏めてリボンをかけた。
食堂に降りると、ルカがコーヒーを片手に、にやりと笑う。
「姉ちゃん、また遅くまで本読んでたんだろ」
「仕方ないじゃない。楽しみにしてた続編がようやく手に入ったんだもの」
テーブルにつき、クロワッサンをちぎって口に放り込む。
「あなたは本当に本の虫ね。それでとうとう仕事にまでしちゃうんだから筋金入りだわね」
呆れつつ笑う母の横で、父が居心地悪そうに目をそらす。本の虫というなら、父も私も大して変わりはないのだ。
「ほら、新人さんが遅刻するわけにいかないでしょ。寝る前はほどほどにしなさいね」
母の小言を聞き流し、冷めたカフェ・オ・レでパンを喉に流し込む。
「お昼も用意しといたわよ」
「助かるわ! ありがとう!」
私は差し出されたかごを受け取り、慌ただしく外へと飛び出した。
石畳みの上には、溶けきれぬ雪がわずかに残っている。革の編み上げブーツで滑らないよう慎重に進むその横を、荷馬車に積まれたミルク缶がガタガタと高い音を立てて通り過ぎていく。道端では、少年たちが刷り上がったばかりの朝刊を高く掲げて声を張り上げていた。
電車の乗降口で渡した乗車券を車掌が慣れた手つきで受け取り、金属製のパンチが小気味よい音を立てて穴を開けた。
いつもの時間の電車に乗り込み、冷たい風から逃れた体の緊張をほぅと緩めると、私は車内の喧騒から意識を外して昨晩読んでいた物語の世界へと思考を飛ばす。
小さな頃から本が好きだった。歴史書でも実用書でも活字があれば手に取るが、中でも物語は特別だ。
世界を飛び回る冒険譚だったり、不思議な魔法の世界だったり、憧れの王子様との恋物語だったり。幼い頃から空想の世界に入り、様々な『自分』を夢見ることは楽しかった。
悲願だった司書の座を若いうちに手に入れることできたのは極めて幸運だったと思う。通勤にはやや時間が掛かるが、なんといっても憧れの国立図書館なのだ。路面電車を乗り継ぐ距離であろうと、まったく苦にはならなかった。
「おはようございます」
「おはよう、ミレイユ」
司書の仕事に携わるようになって二ヶ月。少しの余裕を滲ませて執務室に足を踏み入れる。
そもそも、蔵書の多さに惚れ込んで学生の頃から足しげく通っていたこの図書館は、もうひとつの私の家と言えるくらい既に馴染みの場所だった。
「さあ、まずは返却本の配架からね」
私はデスクに積み上げられた本の山へと手を伸ばした。
*****
気がつけば、窓から差し込む光は角度を変え、真上から降り注ぐ昼の光となっていた。
「そろそろ午前の業務は終わりよ」
イリスの声ではっとして顔を上げる。
「あ、先輩。もうこんな時間でしたか」
書き仕事で凝り固まった首を左右に揺らし、軽く伸びをする。
「今日は天気もいいし、お昼は館内で食べるより公園の方が気持ちいいと思うわ」
そう言ってイリスはコートに袖を通す。
私もそれに倣ってコートを着込み、ふたりで揃って建物の外へ出た。
豊かな木々に包まれた広大な公園の中にある国立図書館。園内のあちこちから思い思いに昼を楽しむ人々の賑やかな話し声が聞こえてくる。私たちは空いているベンチに座り、家から持ってきたパンとチーズにかじりつく。
雪がまだ少し残っているとはいえ、日中は日差しも暖かく春が近づいているのを肌で感じる。もう少し経てば、この辺りは青々とした緑が茂り、鮮やかな花も咲くだろう。
「食べ終わったら、いつものとこに行くのよね?」
「ええ、もちろん」
からかいを含んだイリスの言葉に、私は目尻を下げてはにかんだ。
公園を抜け、大通りから横道にそれると、赤と白の賑やかなストライプ柄の日よけが目に飛び込んでくる。赤くペイントされたドアを開けた瞬間、美味しそうなバターの香りがふたりを包んだ。
「こんにちは、トビアス」
「やあ、いらっしゃい、ミレイユ! イリスさんもいらっしゃい!」
店員のトビアスが、いつもの人懐こい笑みで出迎えてくれ、こちらも自然と口元が緩む。
「いつものフィナンシェを買いに来たわ」
「よしきた! 今日はこのラムレーズンが入ったフィナンシェをおすすめするよ!」
お昼のあとは、この『シェ・デュボワ』で彼が作った甘いお菓子を堪能するのが毎日の日課だ。
「それとこっちもどう? ショーソン・オ・ポム。りんごのコンポートがさいっこうに上手くできたんだぜ! りんご、好きだろ?」
榛色の瞳が自信満々に訴えてきた。学生の頃から通い詰めた店なこともあり、今ではすっかり私の好みを把握されている。
「魅力的だけど、そんなに甘いものいっぱい食べたら太っちゃうわ」
「ミレイユは細っこいんだから、もっと食べたっていいさ」
テキパキとイリスが注文したパン・オ・ショコラを渡す傍ら、こちらにニカっと歯を見せた。
「はい、フィナンシェね。でもこれも美味しくできたからさ、食べてくれよな!」
そう言ってショーソン・オ・ポムもちゃっかり袋に入れている。
「もう、いつもそれなんだから」
口では文句を言いつつも浮かれて袋を覗き込む私に、彼は声を潜めて尋ねてきた。
「ミレイユ、今日は金曜だし、いつものとこで待っていていいかい?」
「ふふっ。待ってるわ」
こっそりとした内緒話がくすぐったい。
「毎度あり! また来てくれよな!」
嬉しくて仕方がないといった様子で、トビアスは私たちを見送った。
「相変わらず、仲が良くて羨ましいわね」
図書館へ帰る道すがら、イリスにからかわれて頬が赤くなったことを自覚する。
「学生の頃から付き合っているんでしょ? そろそろ結婚の話が出る頃かしら?」
「いえ、そんな……! そんなのはまだまだ先で……!」
ぶんぶんと首を振って否定して見せる。が、内心はそう遠からずに訪れる未来であってほしいと密かに願い、私は抱えた紙袋の甘い香りを深く吸い込んだ。
のほほんと幸せな将来を思い描き、頬に集まった熱から逃げるように下を向くと、足元でまだ溶けずにいる雪が視界に映り込む。
かすかに、胸の奥で小さな波紋が広がった。
その気配を辿ろうとしたが――まるで手のひらに落ちる粉雪のように、儚く消えた。




