第26章 香りの記憶
ミレイユは、まだほんのりとした温かさを保つパンにかぶりつく。その瞬間さくりと軽い音を放ち、バターの香るその奥から甘いショコラが存在感を主張する。疲れた頭にじわじわと染み渡る恍惚感を堪能し、ほぅと身体の力を抜く。
「どうだい? 今日のパン・オ・ショコラの出来は?」
「最高よ、トビアス。やっぱりあなたの作るパンが一番好きだわ」
彼は嬉しそうに破顔し、自らもパンにかぶりついた。私は彼の大きすぎるひと口を見て思わず吹き出す。
「あなたのひと口は、私の5口くらいはあるわね」
「ミレイユのひと口は小さくてかわいいな」
お互いの目を見つめてくすくすと笑う、穏やかな休日。トビアスと笑い合っているときには、私は夢のつらさを忘れていることに気がついた。
ふたりはのんびりと寄り添い、私はぽつりぽつりと昨日の出来事を打ち明けた。
「……夢の中では、私は王女様の視点なの。けれど病弱だったみたいで……夢ではものすごく胸が痛くて苦しかったわ」
「じゃあ、最初の頃によくわからない胸の痛みがあったというのはそれが原因なのかな」
「たぶんそうだと思うわ。病弱ということで自分自身を役立たずだと思っていたみたい……」
「王女様のミレイユかあ。俺も見てみたかった」
私はふふっと笑いをこぼす。
「綺麗なドレスを着ていて、自分のことを『わたくし』って言っているのよ。でもガラス越しの顔を見たことがあるけれど、いまの私の顔とは全然違うわ。プラチナブロンドでマリンブルーの瞳の、それこそ物語に出てきそうな線の細い王女様よ」
「へええ、夢では全くの別人なんだね。……王女様はどうしてきみの夢に出てくるんだろうね」
「……本当に、なんで私はこんな夢を見るのかしらね」
このままベルナールさんと検証を続けて、その答えは見つかるのだろうか。けれどひとりで悩むよりも、ふたりで試行錯誤した方が、きっと後悔しない。
私は、逃げないと決めたのだから。
*****
気晴らしにとリディアに連れてこられたモダンなレストランで、ロアンは香ばしいキッシュを味わっていた。
堅苦しさのない店内ではピアノが控えめな音楽を奏で、真向いにはワインを傾けるリディアの穏やかな笑みがある。自ら外に出ることは少ないが、時折り彼女に連れられて向かう場所は居心地が良かった。
周りは様々な料理の香りと適度な喧噪に満ちており、その中をくぐり抜けるジムノペディの静かな音色は、凝り固まった脳内をほぐすように浸透してくる。
やがて目の前に提供されてきたローストポークをナイフで切り分け、口に運ぶ。噛み締めた豚肉の重厚な脂の甘みの中に潜む、微かな苦味と爽やかな香りに意識が引き寄せられた。
懐かしいこの香りはどこで嗅いだのだったか。頭を捻るが思い出せず、リディアに問うてみた。
「そうね、この爽やかな香りを残すハーブはセージではないかしら? お陰で豚肉の脂に胃もたれせず楽しめるわ」
「セージ。そうか……」
その名前を聞いた瞬間、鼻の奥に微かな薬草の香りが蘇った。脳裏に浮かぶ、白いリネンに上品な輝きを与える銀糸の紋様。その織り目の隙間からこぼれる香りは、古来から魔除けとしても使われてきたセージ。
戦場で肌身離さず胸元に忍ばせ、遠く離れたかの人を想っていたその情景を思い出し、もう一度ロースト肉を口に含んでじっくりと噛み締めた。




